■ 足跡をたどって ■
島に突然、訪れた賑やかな客たちのために改めて歓迎会を開く中、ナップは肝心の主賓がいないことに遅ればせながら気がついた。
時間の流れの緩やかなこの島のこと。離れていた間に積み重なった時間の重みは違うかもしれないが、しばらく旅の空の下にあった身体だ。決して弱音は吐かないだろうが、疲れも相当たまっているはずである。
どこに行ったのであろうかとしばしの間悩んだ後、ナップは結論を出した。
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備え付けられた船のタラップをリズム良く登りきり、辺りを見回す。瞬間、目の端に映った紅白の彩りに意識を移し、ナップはそちらに向けて歩き出した。気配に気づき、こちらを振り返る彼女に軽く手を振る。
「こんな所にいたのか、先生」
予想の当たった安心と今も変わりのない彼女の行動パターンに安堵して、心中で一つ息を吐く。そういえば昔も周りが宴会気分で騒ぐ中、この場所で二人静かに語らったなあと片隅の記憶を引っ張り出し、ナップは小さく微笑んだ。
彼女は変わらない。自分にとっては遥か彼方のような気がする過去のまま、その心ばえは昔と同じように自分の心を温かにしてくれる。
「心配したよ。急にいなくなるからさ」
少しだけ困った風に微笑いながら、ナップは彼女を見下ろした。今はもう胸の中にすっぽりと収まってしまいそうなくらいに華奢な身体を揺らし、アティがすまなさそうに肩をすぼめる。
「ごめんね、久しぶりのお酒でちょっと酔っちゃったみたいで」
「そっか。………まあ、ようやく一連の騒動も収まったみたいだし、
気が緩んでバカ騒ぎしないだけマシだよ」
「………そこまで言わなくても………」
まるで小さな子どものように顔をしかめる。その姿に思わず笑ってしまうと、首に申し訳程度に絡まっていたネクタイを引っ張られ、青色の瞳と間近にかち合うハメになった。どうやら睨まれているようだ。ちっとも怖くないが、ナップはそう理解した。
むしろ彼にとって怖いのは別のことだ。酒のせいか、ほのかに紅く染まった顔が目と鼻の先にあり、理性に軽ぅく揺さぶりをかけられている。これは多少、反応に困る。
思いがけなく可愛らしい反撃に不可抗力で顔を緩めていると、不意に首にかかる力が弱まった。たたらを踏みそうになり、傾いだ身体を慌てて立て直せば、蒼海の瞳が揺るぎのない強さでこちらを見ていた。
「抜剣………しちゃったんですよね」
困ったような、苦笑したような笑みが白磁の面に浮かぶ。そこにこめられた冗談のような真摯さを垣間見て、ナップは沈黙せざるをえなかった。
今度は笑い飛ばすことなど、できはしない。
「君には………君だけには抜いて欲しくなかった………」
かすかな音と共に紅い髪が揺れ、見慣れた白の帽子が眼下に入る。どこまでも汚れのないその色は何よりも強くナップの胸の中に飛び込んできた。
「私の我が儘ですけど………それでも……っ」
再び首にかかる力が増す。
しかし、そんなことには眉一つ動かさず、ナップは決意をこめた躊躇いのなさで、華奢な手のひらを己のそれと重ねた。その途端、びくりと肩が跳ねたが、それも気にせずにナップは両手にゆっくりと力をこめた。
「でも、オレは後悔してないよ。
これでようやくスタートラインに立てたんだ」
だから後悔はしない、そう力強くきっぱりと言い放つ青年を仰ぎ見、アティは少しまぶしそうに眼を細めた。自らの両手を完全にカバーすることのできる青年の手を見つめ、小さく嘆息する。
それはもう彼女の知る少年の手ではなかった。育ちきっていないまろみを残す、小さくて柔らかな手では、なかった。
「そう、ですか………いつの間にか君はこんなにも大きくなっていたんですね。
もう私が見守る必要もないくらい」
「………そうだよ。だから、オレのこともっと信用してよ、先生」
「ナップ……」
「オレも………オレでも、貴女の荷物を半分だけ、
背負うことが出来るようになったんだからさ。だから………」
もっとオレのこと頼ってよ、と静かな自信に満ちあふれた言葉を聞き、アティは泣き笑いの表情で微笑った。
「そう、ですね………貴方はもう、私の生徒じゃないですもんね………」
昔よりもずっと頼りなく見えるその姿に思わず身体が動いていた。抱き寄せた身体は記憶にあるよりもずっと華奢で、過ぎ去った年月の重さを改めてナップに認識させた。ガラにもなく緊張しているなあと頭のどこか冷静な部分がつぶやく。
「違うよ、先生。オレは貴女の生徒だ。それは変わらない、これからもずっと。
それだけは忘れないでくれよ」
一言、一言、まるで想いを紡ぎだすように。
長年、心のしこりでもあった言葉を吐き出してゆく。
それを全部ぶちまけてしまうことは自らの願いでもあったが、果たされた後は一抹の寂しさも感じた。
これが、最後に立ちはだかる壁だ。乗り越えなければ、この人の背中を追い続ける道しかなくなる。
―――それは、嫌だ。
己の精一杯をふりしぼって、ナップは息を継いだ。
「でもさ、本音を言うとそれから卒業したいかなって少し思ってるんだ」
不思議そうに、少し寂しそうに見つめてくる大きな瞳に真っ直ぐ視線を合わせる。ここが一世一代の勝負所だと自分に言い聞かせつつ、ナップは大真面目な顔で口を開いた。
「オレが何で戻ってきたかわかる?」
「いいえ」
「オレさ、先生が色々と叩き込んでくれたおかげで、卒業まで首席だったんだ。
軍に行かないって宣言した後も、実は結構、イイ所から誘いが来たんだぜ」
「なら、何故……」
「まあ、話は最後まで聞いてくれよ」
疑問の声を苦笑いで遮ると、ナップはまた言を継いだ。
「もちろん色んなパターンを考えたよ。でも、どれもしっくり来なかった。
思い出すのはここのことばかりでさ。ここでの生活のことが忘れられなかった。
それなら、いっそのこと、先生みたいに教師になろうかなって思ったんだ。
それに………別の理由もあって」
「別の理由、ですか?」
「わからない?」
「はい」
不思議そうに首を傾げるアティに少し苦笑する。その姿は完全に無防備だ。
こういう風な態度を許されているのは信頼されているせいなのかもしれないが、その信頼は子どもへの安心感の延長だ。面白いわけがない。
それに。
ずっと言いたい台詞があった。あの頃から伝えたい想いがあった。
曲がりなりにもこうして上背を追い越したからこそ、前よりも自信を持って言える台詞たち。不謹慎ながら時の流れに感謝する。
全てを吐き出すために、ナップは大きく息を吸った。
「あのさ、やっぱりオレ、先生の傍にいたいんだ。
昔もそう思ってたけど、ガキの言葉は説得力ないし、オレも自信なかったし。
だけど………今は違う」
今度はちゃんと貴女の隣を歩きたいんだ、と小さく付け加えると腕の中の身体が、それと分かるほどに固まった。しばしの沈黙の後、純白の帽子がようやく向きを変える。極度の気恥ずかしさで潤んだ青い瞳には、たじろぐ自分の姿が映り込んでいて、ひどく場違いに思えた。
言葉すらも失って、ただうろたえているアティを思いきり抱きしめもしたかったのだが、やめる。それはまだ早い。それにフェアじゃない。
代わりにナップは理性を総動員する覚悟を決めた。鮮やかに笑ってみせる。
「これは、オレの我がままだ。
オレが貴女を守りたいだけなんだ。オレに出来うる限りの力をもって。
ただ……それだけの話だよ」
ようやく言えたな、この台詞、そう微笑む青年の姿は心底、満足気だった。
fin.
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