■  うたかた  ■




 幼い頃の夢をみた。
 父の節くれた指が頭を撫でてくれる感触だとか、母のやわらかな子守歌のメロディの切れ端。
 かつてあった、けれど失われた日常の夢。
 目覚めとともにぼやけゆく輪郭を止めたくて、きつく瞼を閉ざしても、そこにあるのは暗やみだけ。
 その現実に泣きそうになって目を開いた。
 窓の外を見やれば、月が柔らかく世界を照らしだしている。





 ちょいと寝しなに一杯と、盃を傾けてどれくらい経ったろうか。
 ヤッファは鼻先によく知った香をかいだ。
 甘い花ににたかおりは違えようがない彼女のもので、それがこんな夜半に自分の気付く範囲にあることに酔いが一気に冷める。

(あの馬鹿…っ)

 この里には、夜を謳歌するものたちが多い。
 そして、そんな闇を行き交うものたちすべてが、ニンゲンに対して友好的であるかと問われれば、その答えは否だ。
 いくら彼女が無二の剣の使い手であろうと、不意をつかれれば危うい。彼から彼女を訪ねることはあったが(それももう少し早い時間に、だ)、彼女ひとりでこの地まで来ることはなかった。
 気付けば、彼は庵から駆け出していた。
 平素、彼を怠け者と評す古馴染み達がそれを知れば、愛の力がどうのと、からかいの対象となったであろう素早さだった。





「こんな夜更けに出歩くたぁ、感心できねぇな」
 ユクレスの樹のもとでぼんやりと月を見つめていると、ヤッファの声がした。
「起こしちゃった?」
 五感の鋭い彼になら、気付かれてしまうかもという杞憂は現実になってしまったようだ。
「答えになってねーぞ、先生」
「…ごめんなさい」
 心配して駆け付けてくれたであろう、彼に申し訳なさが募った。
「目が覚めて、外を見たら月がきれいで。それでつい…」
 天頂から煌々と世界を照らす白銀の光はきれいすぎて、その光につられるように外に出ていた。
 嘘ではなかったが、全部本当でもない。でも、すべて言葉に出来そうもなかった。
「月夜の散歩が悪いわけじゃねぇがな、もう少し早い時間にしとけ。危ねぇだろうが」
 本当に、そのとおりだ。わかってはいるのだけれど…
「はい…」
 しょんぼりと返すと、彼は息をはいた。呆れているみたいだ。
「ほら、送ってくから帰るぞ?」
「あの…」
「ん?」
 わがままだという自覚はあった。けれど、
「もう少しだけ、ここにいたいの」





 薄物の寝間着だけのアティを抱えこんだ。見ていて寒そうだったというのもあるが、すがるものを探すこどものようにみえたせいでもある。
 驚いたように息をつめられたが、特に抵抗はなかった。素直に腕のうちに納まった彼女は、再び一心に月を見ている。
「見てて飽きねぇか?」
 ユクレスの大樹と月と、それだけの景色は単調だ。延々眺めていて、面白いものでもないだろう。しかし、
「…ここは似てるから」
 アティはつぶやくように答えた。
「だから、思い出せる気がして。どうしてもきたくなって」
 どこか必死なその声に、彼はただ耳を傾けた。
 アティは、強くて優しくて暖かい。
 けれど、そう短くない付き合いのなかで、彼女の危うさや弱さも見てきた。
 日だまりの似合う彼女にだって雨は降る。
「…夢の続きをみていたかったから」
「そうかい」
 その頬を伝う涙には気付かないふりをする。
 いつか、アティはその胸にある空白を言葉にするだろう。
 凝った思いを、自分にも明かしてくれるだろう。
 ただ、その日は今ではないことを彼は知っている。
「なあ、いっしょに住まねぇか?夜の散歩も付き合ってやるからよ」
 その言葉は、するりと飛び出た。
 いつか言おう、明日言おうと先延ばしにしていた台詞は、思いの外簡単に声になって彼は少し拍子抜けする。
「…ありがとう」
 震えるアティを強く抱き締める。彼女からは、やはり花に似た香がした。





 幸せは簡単に奪われる。けれど、彼は言ってくれた。
 守るから、と。

 失ったものとカタチは違う。けれど、彼なら。彼となら。かつて奪われた空白を埋められるだろう。


 月が優しく照らすなかで、私は彼といっしょに生きていこうと決めた。




 fin.

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