■  掛け捨ての恋  ■


 物心ついて以来のつきあいで、俺とダイチが深刻な仲たがいをしたことなんて一度もなかった。
 ぶつかることを避けてばかりの関係なんてと言うけれど、俺も、たぶんダイチも無理をしてきたわけじゃない。
 むしろ、相手の望みを汲んで動くクセのある自分が、お人好しで我が強いとは言いがたいダイチのとなりではほとんど素のままでいられたと思う。
 だから、こんなふうに向かい合うのは初めてだ。

「何でだよ……何でこんなふうに、仲間同士で戦わなきゃなんねーんだっ!」
 こわばった表情のダイチがひびわれたアスファルトの向こうに立っている。
 泣きそうな声で言われた言葉に、いつものように、そうだなとうなずいてはやれなかった。俺はもう、他と並び立つことのできない志を持った相手を選んでしまったからだ。
「フン、愚民が……犠牲を恐れて決断をためらう者に、輝かしい未来などありはしないぞ!」
 かたわらに立つヤマトが咆えた。晩秋のうすい陽光を受けて底光りする双眸は、覇気にあふれて他を圧する。
 視線の先でダイチがくちびるを噛んだ。ヤマトのたたき伏せるような怒号に下がりかけたあごをぐいと上げ、まなじりを決して叫ぶ。
「チクショー! 絶対に勝って話を聞いてもらうぜ! 約束だかんな!」
 その声が、戦端のひらかれる合図になった。


「フン……烏合の衆にしてはなかなかにやるものだ」
 俺と背中合わせに、楽しげにうそぶくヤマトの強さは圧倒的だった。
 戦っているところを見るのは、芝公園でアリオトの位置を観測する彼を護衛した時以来だったが、今思えばあの時はよほどの片手間だったのだろう。
 行使されるスキルの威力もさることながら、迎撃の位置取りや仲魔へ指示を出すタイミング、その判断すべてがおそろしく速い。チーム全体のおおまかな動きこそ俺がコントロールしていたが、俺やマコトはもちろんダイチたちの行動をも正確に把握し、最適な次の一手をあらかじめ組み立てているのだろう。俺の一声で十を解する動きでもって、ヤマトは俺のとなりを駆ける。
「ダイチのこと、ちょっとは見直したか?」
 問うた俺に、ヤマトはフフ、と笑んだ。ちらりとこちらへ視線をよこす。
「元より、おそらく君が思うよりは私はアレを評価しているさ。だが、最終的な判断は……」
 ヤマトが見やった先には、決意の面持ちでうなずきあうダイチとイオの姿があった。
「……これからさせてもらおうか!」
 大きく腕を振ると、ヤマトの従える獅子頭の青い霊鳥が放たれた矢のように飛びだす。
 イオがはっとしたように片腕を上げた。その手が振りおろされると同時、一条の閃光が虚空から投げ落とされる。
 光の槍につらぬかれた霊鳥の断末魔と同時、それに続いていた邪龍がルーグの力を行使したばかりのイオへと襲いかかった。白骨化した頭蓋からわき出る黒煙の蛇身が、イオの全身に巻きつき締めあげる。
「く、あ、…ああッ……!」
 イオの苦悶の声が上がった。ひきはがそうとすがる指は、煙によって構成される邪龍の身体をすりぬける。イオの指示を得られず、動揺で動きを止めた悪魔たちに追撃がかかった。
 ヤマトの喚んだ紅蓮の炎が渦を巻いてアスファルトの上を舐めつくす。イオの連れた妖精と天使は声を上げる間もなくくずおれた。
 同時にそれは俺への援護でもあった。ヤマトが仕掛けるのに合わせて走りだした俺に対峙したダイチは、炎に巻かれたイオの絶叫に集中を乱す。
「に、新田さん!」
 仲間が傷つくことへの恐れにあっさり支配される、ダイチのそんな人間らしい甘さをヤマトは看破している。
 眼前の俺を忘れ、イオへと注意を向けたダイチへスキルを発動させる。
 不意を突かれ、吸魔をまともに食らったダイチがうめいた。そのひとみから意志の光が失われ、ぐらりと倒れこむ。
 炎が去ったあとには、両手をついてうずくまるイオの姿があった。ルーグの概念をまとったイオに、魔力による攻撃は効果が薄い。それを考慮してのスキル選択だろうとわかっていてもほっとして、俺は肩の力を抜いた。
「フム。まあ、素人にしてはよくやったほうだと言えるだろうな、……」
 余裕をにじませたヤマトが、ふと口をつぐんだ。その口もとに侮蔑の笑みが浮かぶ。
「やれやれ、趨勢を読めぬ愚か者はどこにでもいるものだ」
 黒光りする機関車の陰で何かが動く。深手を負い戦列を外れていた警察官の男性が、車体にすがりながら立ちあがっていた。決死の色をそのひとみに宿して、ヤマトへと携帯を向ける。
 わずかに目をほそめて、ヤマトがその動作を眺めやる。彼我の力量の差は、男も既にわかっているのだろう。その手が握った携帯ごとふるえていた。
「どうした。尻尾を巻いて逃げるのであれば、今なら見逃してやるが」
「うわぁあああああ!」
 やけっぱちな蛮声を上げて、男が仕掛ける。
 大気を不可視の衝撃波が走る。その軌道を読んだヤマトが後ろへとびすさった。主の動きに遅れた前髪がわずかに数本宙に散り、同時に、ヤマトの発動させた万魔の見えざる槌が男を無力化する。
 今度こその決着に、俺は大きく息を吐いた。





 瓦礫の上に座りこんでいたダイチに歩み寄る。
 こちらに気づいて、ダイチがへらりと情けない笑みを刷いた。片手を挙げて俺を迎える。
「……傷の具合は?」
 笑みを引っこめ、ダイチがきょとんとした顔でまばたきをした。
「へっ? あ……あ〜、ケガ? ぜんぜん平気だっての。まあちょっとダリぃけどさ、カラダ的にはひっくり返った時にたんこぶ作ったくらいだし。相変わらず器用だよなあ、お前」
「あそこまでうまくはまったのは、ヤマトがダイチの気をそらしてくれたからだよ。……イオは?」
 ダイチはわずかに眉を寄せた。それでも、弱々しく笑ってみせる。
「俺よりはずっと参ってるけど、一晩休めば大丈夫だと思う。見た目ほどひどいことにはなってなかったぜ」
「そっか、よかった」
 俺がとなりに腰を下ろすと、ダイチは頭上を仰いで、ためいきを吐いた。
「……しっかし、お前がヤマトと組むとはなあ。意外っつーか……あ〜、でも、意外に意外じゃないのかねえ」
「どっちだよ」
 苦笑しながら返すと、存外真面目な顔でダイチはこちらを見た。
「アイツのこと、気に入ってる? ってか、気にしてるのはわかってたからさ。お前って昔から、危なっかしいヤツとか、俺みたいなヘタレとか、自分を頼ってくるヤツを放っておけないタチだよな」
「……そんなこと言うなら、それこそダイチだって条件同じだろ」
「ん〜、まあ、それはそうなんだけど。でも実際お前が選んだのってヤマトじゃん。だからなんつーか……何だろ、うまく言えねえけど。俺にはさ、こんな仲間割れみたくなる前から、お前にとって、ヤマトは特別みたいに見えてたよ」
 言葉を失った俺をどう思ったか、ダイチはまた眉を下げた笑みで表情をくずした。
「まあ、ヤマトが危なっかしいとか俺なんかが言っちゃったら、アイツキレると思うけどね!」
「よくわかってるな。ダイチにしては」
 表情を、なんとか笑みに動かす。だよなあとダイチが頭をかいた。そのまま地面に視線を落とす。
「なんつーか、一応リーダーっぽいものやってみてさ、ちょっとわかった。これまでずっと、どういうふうに戦うとかどこを戦う場所にするとかってヤマトが最初っから決めちゃってるか、選ぶにしたってもうしぼられてたワケじゃん」
 自分のつまさきを見つめる姿勢のまま、ダイチは気の抜けた顔で笑う。
「でもそういうのって、まずすっごい下調べとか、判断? みたいのが要るんだよな……決まった選択肢のなかから、一番いいのにすればいいってわけじゃなくてさ。アイツがこれまで、どんだけのことを引き受けてきてたかっつーか……そういうのも含めて、勝てねーなあって。実力主義っていうだけのことはあるよ。結局、始めっから俺ちゃんには荷が……」
「……ダイチ!」
「おわっ!?」
 そのほおを両手ではさんで、無理やりこちらをふり向かせる。
「そんなこと言うなよ。お前はすごい。誰が、お前がなんて言ったって、俺にはわかってる」
 あっけにとられた顔で、ダイチは俺を見つめ返す。その丸いひとみのなかに、必死な顔をした俺が映っている。
 だから、と続けようとして、けれどうまく言葉にできず、形になったのはほんの一言だけだった。
「……ごめん」
 これまでずっと我を張るなんてしたことのなかったお前の、初めての選択を応援してやれなくて。
 ふっと吐息だけでダイチが笑った。ぽんぽんと背中を叩かれる。
「なに謝ってんだよ、恨みっこなしって言っただろ! 俺は俺、お前はお前で、こっちにしようって決めたのが、今回は違ってたってだけじゃん。俺らなんでも一緒にやってきて、考えてみたらケンカしたこともびっくりするくらいなかったけど、……でも俺、今ちょっとうれしいんだよ。お前が俺と一緒じゃなくて……ちゃんと、お前のやりたいように選べたことがさ」
 なあ、とダイチは笑う。
「こっからは、俺がお前を応援してやる番だ。ミジンコくんな俺だけど、せいいっぱいお前の役に立ってやるからさ。期待しててくれていいぜ、親友よ!」



 続く名古屋勢との争いから、口にしたとおりわだかまりのない態度で戦列に加わったダイチを含むメンバーで七体目のセプテントリオンを下した時点で、すでに秋の短い日は落ちて、あたりは真っ暗になっていた。
 とはいえ、一週間前ならまだ街路には人混みが、オフィスの窓からは皓々とした明かりがあふれていただろう時間帯だ。仲間たちのほとんどは、ベネトナシュを倒したことで開かれているかもしれないポラリスへの道を求めて思い思いのところへ散っていった。
 その行動をムダなものだと決めつけるつもりはもちろんない。けれど、俺はみんなに加わることなく大阪本局へと足を向けた。
 たぶん、すべてのカタがつくのは明日だ。
 これまで俺たちに助言を与えつづけた人ならざる少年の正体を、俺はうすうす、そしておそらくヤマトは確信を持って承知している。
 何度か言葉を交わして顔見知りになった局員の女性に声を掛け、目当ての物を借り受けると、俺は携帯を取りだした。荷物片手にメールを打つ。
 返事はすぐに返ってきた。予想にたがわず、相手もこの本局へ戻ってきていたらしい。来訪の約束を取りつけ、俺は長い廊下を歩き始めた。



「ヤマト、俺だけど」
 扉の向こうから届いたテノールに、キーボードを打ちこむ手を止めた。
「ああ、開いている。入りたまえ」
 かすかにノブの回る音がした。ディスプレイに流れる情報を目で追っていると、彼の気配はまず、隅に置いた応接セットの方へと動く。
「何見てるの?」
 そちらから掛かった声に応じて、私は顔を上げた。
「無に飲まれたエリアを把握している。局員が逐次情報を上げてくるのでな。……ところで、君は一体ここで何を始めるつもりだ?」
 持参してきたらしい布包みをローテーブルの上で開いていた彼は、中から取り出した銀色のハサミを持ってこちらをふり返った。常どおりの飄然とした態度で、わずかに首をかたむけてみせる。
「そりゃ、見てわか……んないか。とりあえずヤマト、パソコンにゴミが入るとまずいし、こっちのソファーに移動してくれない?」
「……君は、何か私に話があるのではなかったか? 私とてそれなりにすべきことはあるのだ。ただの戯れならば、後にしてくれないか」
「これから何がどう動くか……ひっくり返せば、少なくとももう今晩のうちには大きな動きはないって、だいたい見当はついてるんだろ? どうせ次が来るまで待ちになるなら、少しくらいよそごとする時間があったっていいと思うけど」
 無言で眉を寄せると、彼はその面にものやわらかな苦笑を刷いた。こちらへ寄ってくる。
「あーうん、ごめん。もちろん、ちゃんとした用件は別にある。だからまあこれは、ちょっとしたついでだよ。お前の貴重な時間を割いてもらうんだから、できるだけ有効活用しようかと思って」
 鼻先近くまで伸びてきた手が、私の前髪の、衝撃波がかすめて不揃いになったあたりをつまみあげた。
「時々うっとうしそうにしてたし、普段から今みたいに伸ばしてるわけじゃないんだろ。ちょちょっとそろえてやるからさ」
「……いいだろう、せっかくの君の厚意だ」
 案じているのか、もしくはただ単に見苦しいと言っているのか――どちらにしたところで、どうやら分が悪い。ためいきをひとつ落とすと、端末にロックを掛けて立ちあがった。歩み寄ったソファーへ浅く腰を下ろし、相手を見上げてやる。
「これでいいのか」
 彼は満足げにうなずくと、こちらの膝に広げた布をかけた。浅く掛けている両脚のあいだに入りこんで、前髪を梳きながら、ふと気がついたように首をかしげる。
「そういえばヤマトって、いつもはどうしてたの? 美容院に行くところとかあんまり想像つかないけど」
「定期的に人を呼んでいた。ただここ数ヶ月は、散髪に取る暇などなかったのでな」
「なるほど。ああ、安心していいよ。もちろん本職の人にはかなわないけど、前髪くらいはずっと自分で切ってたんだ」
 そう言って、今度は霧吹きを手に取る。あまりの用意の良さに、思わず疑問が口をついて出た。
「君は、こんなものまでどこから調達してきたんだ」
「親切な局員さんに貸してもらった」
 何でもないことのように返ってきた答えには、もはや苦笑しか出てこなかった。
 彼を始めとした民間協力者の要請にはできる範囲で対応してやれとは言ってあるが、そんな些事にまで丁重に応じることができるほど、局員に暇を与えているつもりはない。
「まったく、そう無差別にたぶらかして回ってくれるな。腑抜けて使い物にならなくなっては困る。……私も含めてな」
 わずかに笑みを含んで言えば、彼は、きょとんとした顔で見つめかえした。
「……ごめん」
 それから、静かに視線を落とす。冗談めかした言葉には不釣り合いなほど、沈んだ謝罪だった。
「それって本当、俺の悪いクセだな。今目の前にいる人に、気持ちのピントが合っちゃうっていうか……この人は何を必要としてて、俺はどうするのがいいだろうって、それがもう当たり前みたいになっててさ」
 彼の指が私のひたいにかかり、伸びた前髪をかきあげる。広がった視界で、ゆるゆると上がった深い色のまなざしが私のそれとかみ合った。
 視線はこちらに合わせたまま、彼はおもむろにその目を細めた。
「自分がそうだから……ヤマトの、他人が何を言っても思っても、自分でこうだって決めたことに変わらず重心を置ける、そういう強いところにあこがれたんだと思う」
 その言いように、知らず私は顔をしかめた。
「正しい道を選び取る、その決断力ならば、君とて十分に持ち合わせているだろう。常に冷静に状況を見極め、最善を成し遂げることができる。私が君を買っている部分のひとつだ」
 彼は答えない。目をほそめて笑う表情は、少しまぶしげにも、苦しげにも見えた。
 他者から羨望のまなざしを向けられることなど、私にとっては珍しくもない話だ。
 私と同列どころか、できて当たり前のレベルにさえ到達していない者たちがただ物欲しげに見あげてくるまなざしは、その怠惰ゆえに、その者への軽蔑の念しか抱かせることはなかった――だが。
 これは、喜びだろうか。それとも戸惑いだろうか。
 積みあげてきた知識でも身につけた力でもなく、己の在り方のなかに、他ならぬ彼が評価するものがあるのだと思うと、胸のうちがざわめく心地がした。
 じっと見つめていた私をどう思ったか、かすかな苦笑をくちびるにのせ、彼は口を開いた。
「なあ、ヤマト。ポラリスの世界改変は、人の考え方を根っこから改めさせることになるんだよな」
 これが本題かと、私は背筋を正した。腹に力を込める。
「ああ、そうだ。我々は、ポラリスの力を利用して人間という種に自然淘汰のことわりを取り戻す。そうして、これまで強者の犠牲の下に保たれる安寧に浸かってきた大衆に、真に生きるとはどのようなことであるかを理解させるのだ。それこそがまさに、人間が真の強者へと至るための必要条件なのだから」
 かすかにうなずいた彼に、言葉を継ぐ。
「……私は、劣る者を哀れまない。恵みを降らせることなどしない。まるで赤子を庇護するかのように与えられ続けた守護こそがこの国を腐らせたのだからな。そして、堕落したクズどもを背負いこむ負担から解放されることで、悪平等の下に己の生きる道を妨げられてきた君のような能力ある者たちの手には、彼ら自身の人生を選ぶ権利が賦与される――私は、それを当然とする社会を実現してみせる」
「うん、……そうだね」
 静かに、もう一度彼はうなずいた。
「俺は、それでいい。ヤマトの理想が叶うように、力を尽くすよ。でも、世界と……もしかしたら、俺って人間そのものも変わっちゃうかもしれないなら、その前に、お前とちゃんと話をしておきたかった」
 意外な言葉に、私は怪訝な思いで彼を見やった。
「それは……杞憂だと思うがな。互いの理想が重なったからこそ、君はいまここに立っているのだろう」
 わずかに目を伏せて、彼は口を開いた。
「そうだなあ……俺はヤマトとは違う場所で生きてきた別の人間だから、お前と俺の見ているのがぴったり同じものだって言ったらウソになるかもね。ただ、お前の目に映る世界がどんな姿をしているのかは、よくわかってるつもりだよ。だからいま、俺はここにいる」
「……そうか。結果として道が重なっているのならば、ささいな差異など私は問うまい」
 彼が口にしているのは、まぎれもなく私への賛同だ。そうであるのに、歯車のあいだに髪の毛ひと筋を噛んでいるような引っかかりを覚えて、それを振りはらうように私は言い切った。
「世界が変われば、もはや誰もお前に、他人のために己を抑えよなどとは求めなくなるのだ。お前の言った悪いクセとやらも、早晩解消されることだろう」
「そうだね」
 彼は笑って、私のひたいに載せていた手をすべらせた。横の髪をかけるように耳もとに動いた指は、ほのかに温かい。知らず私は片手を上げ、彼の手の上に重ねていた。
 彼は、ゆっくりとその目をほそめた。
「……ありがとう。ヤマト」

 そこからしばらくは、研がれた刃がこすれ合う澄んだ金属音ばかりが響いた。
 目を閉じて、私はそれを聞いていた。単調で気持ちの良い音だ。
 脚の間に立つ彼の体温が、かすかに伝わってくるような錯覚を覚える。そうしてただじっとしているうちに、ふとあごが下がりかけていることに気づいて私は眉間に力を込めた。
 この程度の睡眠時間の切り詰めで、こうも心身のコントロールがきかなくなるような造りはしていないはずだが――意識的にやっているのかどうか、彼には、他人のそういった制御や抑制をゆるめさせるようなところがあった。
「寝てていいよ、ヤマト」
 やわらかい声とともに、まぶたの下に触れる感覚があった。
「ここ、クマできてる。疲れてるんだよ、お前」
 髪をかきわけ、撫でるように何度も地肌をまさぐる指先はひどく心地がよい。身体の縁から疲労が流れだして溶けていくような感覚に、私は深い息を吐いた。
 なかば諦観に近い心境で、まあいいだろう、と思う。彼の言ったとおり、今夜中に事態が動く可能性はまずない。
 そうして、生まれて初めて触れるようなおだやかな空気に、私は思考を投げ出した。





「……あんまり、無理するなよな」
 役目を終えたハサミをテーブルに置いて、動かないヤマトの髪を梳いた。
 うっすらクマの浮かぶ目もとと、それでも弱みのかけらも見せない真っ白な横顔に、口を突いて出かけたその言葉を、俺はもう何度も飲みこんできた。
 無責任にその身を案じたところで、ヤマトは不快に思うだけだろう。ダイチの言ったとおり、ヤマトはこの七日間、彼にしかできないことをするためにこそ無理を重ね、寸暇を惜しんで動きつづけてきたのだから。
 一方でヤマトは、分かち合えるかもしれないことまであえて独占して、こちらをコントロールしようとしてきた。その事実に、たとえばヒナコならこう言うかもしれない。仲間なら、情報と意志を共有し、たがいに納得した上でともに戦うものだ。それを拒むのなら、自分たちは仲間などではなく単なる駒に過ぎないのだと。
 けれど俺は、ヤマトに求められているものはまさにそれなのだから、仕方がないと……そう思ってしまった。本気でヤマトの負担を減らそうと思うなら、口先でそらぞらしく案じてみせる代わりに、彼の手足となって彼の望むように動くしかない。それがわかってしまったから。
 本当に、これは自分の習い性だなと、苦く思う。
 すっかりその髪をととのえて、櫛をテーブルに置いた。
 こちらの気持ちなんて知るよしもなく、ヤマトはただ静かに眠っている。
 ゆっくりと上下する黒いコートの肩を見ているうちに、不意に胸がしめつけられた。
 この国を守るためにのみ己は存在を許されるのだと、お前は言った。そうして無私をすりこまれ続けたあげくに、自己の幸福を追うことを堕落としか思えなくなってしまったお前は、それでもなお、理想という名の己の欲を保ちつづけた。
 そして俺は、自分にはどうしたって手に入れることが叶わないだろうその強さに惹かれたのだ。
 見も知らぬ『みんな』にとって何が一番正しくて、世界がどうなるべきなのか、それはわからない。
 俺がはっきりと確信を持って動けるのは顔が見える相手のことだけで、そして、並び立つことのできないなかからひとつの手を選び取ったのは、まさに目の前の相手のためで――つまるところ、俺はただ、ヤマトが最後まで手放すことのなかった望みを叶えてやりたかった。それだけだ。
「……ごめんな、ダイチ」
 俺はひとりごちた。お前がお前として選べてよかったと言ってくれたのに、初めての選択をしたその先で、俺は結局『俺でなくなる』しかないのだろう。
 わかっていてそれでも、俺はヤマトを選んだ。

 明日、世界は生まれ変わる。
 誰にも望まれない感情を、誰に伝える言葉も持たず、俺はただ、初めて得たすべてを噛みしめていた。




Fin.

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