※主ヤマでR-18
 作中、ヤマトが悪魔に性的な意味で絡まれている描写があります。
 それでも大丈夫、という方のみご覧ください。




■  白夜  ■


「……どうだった?」
 声を落とし、眉を寄せてたずねた彼に、暗い表情の迫が首を振った。わずかにうなだれた柳谷が言葉を添える。
「ごめんなさい。連れてこられた子どもたちはみんな、もう……」
 そっか、と彼がつぶやいた。その様子を眺めていた私に、クズどもの作業場となっていた廃ビルの出入り口から姿を現した菅野が、埃で汚れたチャイナドレスの裾を蹴りさばきながら歩み寄ってくる。
「やあ、局長。現場で商品の製作作業をしてたバカどもは、一人残らず拘束したよ。販売部門とかの事務方の摘発はこれから。規模はかなりのモンだけど……関係者名簿は押さえたし、そっちも手配かけたから、まあ後は時間の問題かな。あ〜、それから」
 思い出したように片眉を上げて、菅野がコートの隠しを探る。
「これ、販売物見本ね。とりあえず、データだけ落としてきたけど」
 白い指先でつままれたディスクを、私は嫌悪とともに見下ろした。菅野が肩をすくめる。
「バカだね、こんなもんダウンロード販売するなんて。まあ、正体隠す小細工は色々してたみたいだけど、子どもだましっていうかもうバレバレだし? どっからどう見たって犯罪の構成要件満載、つーかそもそも、悪魔にたかられてドロドロのグチャグチャな子どもの映像なんて、どこが面白いのかぜんっぜんわかんないしさあ」
「アプリの悪用者が、組織規模でまだこれほど残っていたとはな。……まったくもって忌々しい」
 舌打ちをしたところで、菅野が出てきたのと同じ出入り口から血と埃にまみれた男たちが十数名、局員に拘束された状態で引きずり出されてくるのが目に入った。
 彼らのほとんどが怯えきった様子をしているなかで、その中に一人、この場のリーダー格だろう。生気を失うことなく、己を曳く局員の挙動を観察している少年がいる。年の頃は十代半ばといったところか。
 護送車へ放り込まれていく最後の一人となって、少年がふとこちらに気づいた様子を見せた。視線がかみ合う。目を細めた私に、その切れて血をにじませたくちびるがつと開かれた。
「ねえ、そこのお兄さん。その顔、見たことある。もしかしてジプスの局長さん?」
 良く通る歯切れの良い声だった。私が返したまなざしの色に臆した様子もない。
「貴様、黙らんか」
 その肩をつかんだ局員を一瞥すらすることなく、同じ調子で少年は続けた。
「それならちょっと聞きたいことがあるんだけど、ダメかな」
 私は目をすがめ、少年の利発そうな黒いひとみを眺めた。
「ゲスと聞く口など持ち合わせていない、と言いたいところだが……いいだろう。その度胸に免じてお前の問いとやらを聞いてやる。言ってみるがいい」
「うん、そっちでもわかってるんだろうけど、うちで使ってたのってもともとから身体か頭のどっちかがダメになってた子たちばっかりなんだよね」
 少年は両腕を後ろ手に拘束されたまま、軽く肩をすくめてみせた。
「まあ、犯罪だろって言われたらそうなんだけど、それなりの配慮はしてたっていうか……ジャンクな人材を活用してのニッチ産業に、何でまた局長さんまで出張ってくるくらい本腰入れての取り締まりが入ることになったのかが純粋に疑問でさ。ぶっちゃけ、ちょっと理不尽じゃない?って気もするんだけど」
「……くだらん問いだな。持てる力を己の欲望を充たすために悪用することしか知らんクズなど、弱者と同じく存在するに値しない。すぐれた志とそれを叶えるための高い能力、それを兼ね備える者だけが、この世界で生きていくことが叶うのだ」
「それって、本気で言ってるわけ? お題目とかそういうのじゃなくて?」
 少年はその目を丸くした。ぱちぱちとまばたきを繰り返した後、その口からひとつため息を落とす。
「はあ、そっか、なるほど……そういうことならしょうがないか……」
 その腕を拘束している局員が、視線で確認を取ってくるのにうなずき返す。肩を引かれ、護送車へ押しこまれた少年を最後に、すべての罪人を車両に収めて扉が閉まる。
 遠ざかっていく耳障りなエンジン音に、私は小さく鼻を鳴らした。
「フン、クズが。……さて、これ以上このような場に用はない。サッサと残った馬鹿どもの駆逐にかからねばな」
 あたりは、かの八日間で廃墟となったまま復興の遅れているゴーストタウンだ。すでにビル街の縁に消えかかっている太陽が完全に落ちれば、夜の到来とともに力を増す野良悪魔どもへの対処で移動時間が余分にかさむ。
 かたわらに立つ彼をうながそうとしたところで、そのまなざしがいまだ廃墟へ向けられていることに気づいて、私は片眉を上げた。
「どうした。まだ何かあったか?」
「いや、……あのさ、殺された子たちって……」
「……ああ」
 彼の懸念を把握して、私はうなずいた。
「安心するといい。悪魔どもに無駄に餌をくれてやる必要もない。遺体は搬出させる。身元のわかる者がいれば、その身寄りに引き取らせればいいだろう」
 殺された者たちがあの子どもが口にしていた通りの身の上だとすれば、引き取り手が現れるかは正直怪しいところだ。ほとんどは行旅死亡人として処理することとなるだろう。そこまで口にすることはせずに、私は再度彼をうながす。
 彼がうなずくのを確認して、私は車へと歩きだした。



「……最近は、こういう事件もほとんどなかったのにな」
「フム……そうだな」
 静かに走る車内で口を開いた彼に、あいづちを打つ。
 近年、アプリがらみでここまで組織だった犯罪行為は珍しくなっていた。民間人の召喚アプリ使用に制限を設けた上で有能な契約者を取り込み、その一方で悪用者の取り締まりを進めている現状に対して、当然の帰結だろう。
 車外はすでに暗く、街灯の光が彗星のように流れる黒い窓へと彼が顔を向ける。うっすらとガラスに映った彼の表情を、私は眺めるともなく眺めた。ゆっくりと口を開く。
「さて……これも何かの機会か」
 ガラスの上でぱちりとまばたきをした彼がこちらへとふり返る。その黒々としたひとみが私に向けられるのを見てから、言葉を継いだ。
「召喚アプリの扱いについては、一度、君に話しておきたいと思っていた。……馬鹿に刃物を与えるのは愚かなことだ。だが……優れた料理人から包丁を取りあげようと考える者もあるまい?」
 彼は、わずかに首をかたむけた。
「それって、フミの作ってる新しいアプリにからむ話?」
「ああ、そうだ。あの男がニカイアを使ってばらまいた代物には劣るが、かつてジプスで使用していた召喚器の改良で、汎用化にもある程度の目途が立った。それを使用すれば、あの災害の折に契約を果たした者でなくとも新たに悪魔使いとしての能力を得ることが可能となるだろう」
 彼が思案げにまぶたを落とす。だが、と私は続けた。
「人の技術として世に出せば、こちらがどれほど慎重にその頒布を行おうと、それを解析し複製する者は必ず現れる。そうなれば、使い手の増加をコントロールする術などもはや無きに等しい」
 彼は大きくひとつ息を吸い、それからまた吐き出した。
「それで簡単にアプリが手に入るようになったら……悪用するヤツはもちろん、たとえ悪気がなくたって、制御しきれなくて暴走させるような事故や野放しになる悪魔も増えるだろうな」
「ああ。……だが、それについては私はさして心配していない。と言うよりも……甘受すべき弊害だ、と言ったほうが正しいか」
 彼がふっと目を上げた。先をうながすその目線を受けて、言葉を継ぐ。
「今日のような不心得者が出れば、当然取り締まることになる。だが、同時に……悪魔を従えるだけの霊力を持った人間ならば、それに抗う手段もまた手に入るのだ。ならば、多少の混乱には目をつぶらざるを得まい、とな」
「なるほど……」
「何より現状のような寡占を続けていれば、やがてはそれこそが、かつて廃したはずの既得権益を生み出す温床となるだろう。……何となれば、悪魔を使役する手段を持つ者と持たざる者の間では、生来の能力差などたやすく覆すだけの力の差が生まれるのだ。偶然アプリを得たというただそれだけの事実を、己の能力と取り違えるような愚か者をのさばらせるわけにはいかん」
 思案げにしていた彼がふっと表情をやわらげた。同じ間隔で流れていく街灯の光に、その細められたひとみがほんの一瞬青くきらめく。
「それについては俺も同感だけど。……ただそこを勘定に入れても、ヤマトがそこまで思い切るっていうのは正直ちょっと意外だった。だってお前、一般人が悪魔の力を手に入れたらろくなことにならないって言い切ってただろ。人間は、力に慣れればやがて悪用を始める……だっけ?」
「あの時の……聞いていたのか。フフ、良く覚えているものだな」
 私は、くちびるにうすく苦笑を載せた。
「ああ、その通りだ。以前の私であればおそらく、また違う判断をしていただろうな。力を持つに相応しい精神の持ち主は決して多くはない、……私は、今でもそう思っている。だが、そのように見切ってコントロールを強めるばかりでは、彼らのうちにひそむ可能性をも失うことになる。私にそうも思わせたのは、他でもない君の存在なのだがな。自覚しているか?」
「それで俺みたいのがもっと出てくれば、そこまで俺が特別な人間じゃないってことがいい加減ヤマトにもわかるんじゃないかとは思ってる」
 肩をすくめてみせた彼の軽口に、私は思わず声を立てて笑っていた。
「ッハハハハ……! 既に、君や私にこそ及ばずともこれはという人間はそれなりに出てきているさ。だが、他にどれほど優秀な者が現れようと、それで君の価値が変わる訳ではない。君は、私が友と認めたただ一人の人間なのだから」
「まあ、ヤマトがそこまで買ってくれてるのは嬉しいけどね」
 そう言って笑みを刻んだ彼の口もとは、街灯のはざまの暗闇に沈んで溶けた。



◆       ◆       ◆



 紙製の箱に収まった丸い形の焼き物を、楊枝に刺して口に運ぶ。食欲をそそる匂いとともに、甘辛いソースの味が舌の上に広がった。表面がぱりっと焼き上げられて中身はとろりとした舌触りは、以前に彼と食したものとはずいぶん違うが、悪くない。
「フム、……なかなかの味だな」
 執務室に設えた応接用のテーブルの向かいで、指についたソースを舐めとった彼が笑う。
「しっかり火が通ってるもちもちしたやつも俺は好きだけど、これはこれでおいしいよね。またついでがあれば買ってくる」
 午前中は外回りだった彼からの差し入れは、私にとっては格別な思い入れのある食品だった。
 帰りがけにたまたま店を見かけたからとのことだが、さて、どうだろうか。まだ焼き上がって間もない様子のそれを、ちょうど私のスケジュールのすき間を狙い澄ましたようなタイミングで持ってくるあたり、多少の計画性を感じないでもない。
 貴重な時間をこんな根回しに使う必要はないと苦言を呈するべきかどうか。そんなこともちらりと脳裏をよぎったが、最終的に口をつぐんだのは、彼が至極うれしそうな顔をしてそれを口にする私を見ていたからだ。彼を落胆させたくない。そんな己のメンタリティの変化は、しばしば私自身を驚かせる。
 ほどなくして箱は底を見せ、彼がひとつ伸びをした。それからちらりと携帯の液晶画面に目を落とす様子に声を掛ける。
「午後からは名古屋だったな?」
「うん、戻りは遅くなるよ。ジュンゴに晩飯食わせてもらうことになってるし」
 名古屋支局に詰めている男の顔を思い浮かべて、私はああとうなずいた。
「茶碗蒸しだろう」
 彼が少し目を大きくする。そのまなじりがやわらかくゆるんだ。
「そう。よく知ってたね、ヤマト」
「……あのポラリス騒動の中で、調理場を借りていいかとわざわざ尋ねてきたのでな」
「ああ、そうだったんだ。あれこそ店を出したら流行ると思うんだよね、俺」
 その目を機嫌の良いネコ科の動物のように細める彼に、私は苦笑を返した。
「さて、君が言うならそうかもしれんが」
「なんならヤマトの分も、お土産に包んでもらってこようか?」
「いいや、結構だ。そもそもあれは持ち運びに適した料理とは思えん」
「でも、それこそジュンゴは魔法みたいにどっからかひょっと出してくるんだよなあ、茶碗蒸し」
 不思議だよねと笑って、彼は立ちあがる。そこに、ちょうど部屋のインターフォンが来訪者を告げた。
『失礼します。技術部の高見です』
 彼が、執務室の入り口をふり返った。
「ああ、入れ」
 応じて、扉のロックを解除する。背の高い男性局員が開いた扉の前で一礼をした。それから私の向かいに立つ彼に気づき、その眉目をわずかにゆるめる。
「おや、ご歓談中でしたか」
「構わん。話を聞こう」
 ソファーから腰を上げ、デスクへと移動する。
「召喚アプリの試作品をお持ちしました。開発の進捗状況については、先ほどメールを。それから、十分程度のお時間を頂けるなら、霊力の高い方の使用に耐えうるかどうかの確認を頂きたいのですが」
 そのままいくつか簡潔なやり取りを交わし、試作アプリを収めた携帯端末を受け取る。操作確認をしていると、彼が局員の後ろへ寄るのが目に入った。
「高見さん、寝癖ついてるよ。あとシャツの後ろはみ出てる」
 菅野が管轄する技術部は、研究に没頭するあまり余人との交流を持たず、寝食すらおざなりにするような者も多い部署だ。私自身はだらしのない格好を好まないが、それなりの熱意を持ち、また成果を上げてくるのであれば服装についてどうこう言うつもりはない。ただこの高見という局員については、そこに所属する者にしては比較的整った身だしなみを好むタイプであるとの認識があった。
 二十代後半のはずだがもう少し年嵩に見えるのは、その普段の身なりと落ち着いた物腰のせいだろう。元はといえば、二年ほど前に彼が星の数ほどの民間協力者のなかから拾い上げてきた人間だった。
『真面目で人の間を取り持つのがうまくて、もちろん仕事もできる。働き者だけど家庭も大事にするタイプだから、結婚相手としてもなかなかのお買い得物件じゃないか』などと少々ふざけた物言いで評していたが、彼の人物眼は確かだった。当初は現場の部隊に身を置いていたのが、菅野の眼鏡にかない今の部署へと異動して一年。今は、出不精な菅野の名代として他部署や外部との折衝をしているのをよく目にする。
 彼の方も、この局員と気が合ったか、もしくは自分の関わった者には特にその面倒見の良さを発揮する気質ゆえか、現在に至るまで親しくつきあいを続けているようだった。
 ただいくら気安い間柄だとしても、私のいる場でこのような指摘をするとは、彼にしては珍しいことだ。そう思いながら様子を眺めていると、局員はいくぶん気恥ずかしそうな顔で後ろ頭に手をやった。波打つ淡い色の髪を手のひらでなでつける。
「ああ、本当だ。後で直しておきます」
「ううん、それはいいんだけどさ……やっぱり、ちょっと無理してない? 今は、身の回りのこととか色々落ちつくまで時間もいるだろうし、何だったらしばらくの間輔佐に入る人の手配とか、俺からフミに掛け合おうか」
 気遣わしげな顔で問いかけた彼に、局員は笑って首を振った。
「ありがとうございます。でも、そこまで調子が悪そうに見えますか?」
「ううん、見えない。だけど、高見さんは人を心配させないのがうまいからなあ」
 つまりはそこを訊ねたくての言及だったのだろう。苦笑を浮かべた彼に、局員がやんわりと目を細める。
「ああ、良かった。これでも自分のことくらいは把握できているつもりでしたから。ただ、もし業務に従事するだけの状態を保てていないと思った時には、遠慮なく人事を動かしてください」
 その表情はどことなく彼のそれにも似て、同僚というよりも年の離れた兄弟か何かを私に連想させた。心配かけてすみません、と笑んだ男に彼がうなずく。
「そっか……あんまり無茶はしないでほしいけど」
「ええ、もちろん。ところで、今日はこれから名古屋へ出張の予定でしたね。くれぐれもお気をつけて」
 おだやかに言った局員に、彼がやわらかな笑みをひらめかせた。
「うん、ありがとう。それじゃヤマト、俺はそろそろ行くけど……茶碗蒸し、本当にもらってこなくていいの?」
 途中でふり返った彼に冗談交じりに問われて、私は苦笑した。
「気持ちだけもらっておこう。君に限って要らぬ心配かもしれんが、気をつけて行ってこい」


 彼が退室した途端、室内には静けさが戻ってきた。
 かすかな空調の音と手元の携帯を操作する電子音ばかりが響く。一通りの確認を終えて、私は顔を上げた。
「いかがでしたか? もしうまく反応しなかった機能があれば、課題として持ち帰ります」
「フム……とりあえず問題はないな。ただ、スキルが発動するまでの反応速度については、必要であればまた後日、私か彼が時間を取ろう」
 入っていたのは、対象に睡眠状態を付与する術に、その発動確率を大幅に引き上げるための補助スキルだ。直接身体を害するたぐいのものではないにせよ、この場で試してみるわけにもいかない。
「わかりました。そちらについては、また改めて」
 うなずいて、取り出していた手帳とペンをしまっている男に私は声を掛けた。
「ところで……まだ何か言いたいことのありそうな顔をしているな」
 驚いた様子でこちらを見るのに、言葉を継ぐ。
「この技術が世界をどう変えるのか、想像するだけの頭がお前にはあるようだ。……先日彼も、今のお前と同じような表情をしていたな」
 わずかに目を見開いてから、局員は苦笑とともに首を振った。
「局長の意図されるところはわかります。もちろん、その必要性も。その上であの方が気にかけているとすれば、おそらくそれは、否応なしに訪れる混乱のなかで失われるだろうもの……変化をくぐり抜けるだけの力を持たない者たちのことではないか、とは思いますが。情の深い方ですから」
「なるほど。情深い、か……それこそ彼も、お前のことを同様に評していたがな」
 局員はゆっくりとひとつまばたきをした。私が差しだした携帯を丁寧に受け取って、わずかに沈んだ笑みを刷く。
「いいえ。私はただ、守りたかった……それだけなんです」
 その指先が、すばやく操作キーの上を滑った。
 身構える間もなく先ほどセットを確認したスキルが発動する。抗いがたい干渉に視界が暗くなり、そのまま私は意識を失った。



◆       ◆       ◆



 先日押収した映像データを思い出す。
 遺体の搬出とその後の扱いについて、私が直接指示を出したからだろう。事件の後処理を任せていた局員からその上役を通して転送されてきたメールの内容は、被害者のうち一人にその遺体を引き取りたいとの親族からの打診があったことと、死因の特定作業が半ばの状態で、そのまま求めに応じて遺体を引き渡してしまってもよいかとの確認だった。
 映像が合成ではないという点についての確証が取れており、詳しい死因がどうあれ、使役された悪魔によって加えられた行為に因することがそこから視認できるのであれば、犠牲者全員の解剖まで行う必要はないだろう。そのように指示書を作成するかたわら、自分でも一度、撮影された映像をざっと流し見たのだ。
 メールで寄こされた対象者の個人データには、少女の氏名と画像が添付されていた。淡い色のセミロングヘアに縁取られたたまご型の顔に、髪と同じ色をした大人びたひとみの少女が車椅子の上でこちらに顔を向けている。菅野から渡された『商品』には、その少女が悪魔になぶられ動かなくなるまでの姿が確かに収められていた。


 情報の整理と平行して、徐々に意識が明瞭になっていく。吸いこんだ空気はよどんでカビ臭く、うっすらと死臭が混ざりこんでいた。手首が鈍い痛みを訴える。
 私はゆっくりと目を開けた。魔法による昏睡の名残である酔いにも似た目眩をこらえて目を凝らせば、うす暗い室内の様子に見覚えがあることに気づく。私が身を置いていたのは、菅野が寄こした映像に映っていた場所――先日訪れた廃墟の中の一室だった。
 窓もなく、撮影に使われていたものだろうスタンド式の照明器具に照らされた室内の壁面は、灰色のコンクリートがむき出しになった無機質なものだ。視線を流せばその壁のところどころに、短い鎖の先に手首に装着する革製のベルトがつけられた形の拘束具が埋めこまれている。
 私の腕を頭上で拘束しているのも同じものだろう。あまり高くない位置から釣り下げられているせいで、軽く膝を曲げた状態で足の甲が床に着いていた。この中途半端な高さと、手首の肉にやたらと食いこむ拘束具のサイズは、おそらく未成年の少女を想定して作られたものだからだ。
 しっかりと両足をつけて床に立つ。そうすると、腕が頭より上に来る状態に変わりはないが、今度は窮屈に肘で折り曲げられた格好になる両腕を軽く動かしてみる。鎖の音が鳴って、これまで体重のほとんどがかかっていた手首がにぶく痛んだ。当然ながら、手首を拘束するベルトに反対の手指は届かない。
「……さて」
 ゆっくりと、私は口を開いた。
 部屋の隅で、パイプ椅子に掛けていた男が立ち上がった。手にしていた携帯をスラックスの隠しに落とすと、静かな足取りでこちらへ歩いてくる。
 車椅子の少女と姓を同じくする局員の面立ちは、そう思って見れば少女とどことなく似通っていた。
「それで、何が不満でお前はこのようなことをしでかした?」
 表情を無くした男は、しばらく無言で私の顔を見つめていた。やがて、その顔をふとかすかな笑みに崩す。
「こんな場面でも、やはりあなたは揺らがないんですね。ここで殺された子どもたちは……私の妹は、怯えて泣き叫んでいたのでしょうが」
「怨恨か? それにしては、向ける対象を誤っているように思うがな」
 ゆっくりと男は息を吐きだした。
「怨恨と言われれば、否定はしません。……妹は、この弱肉強食の世界に食われてしまった。そしてこの世界を創り上げたのは、他でもない局長、あなたなんですから」
 一歩こちらに近づいた男のまなざしは、しるべを見失った者の迷いに沈んでいた。私は目をすがめてそれを見つめ返す。
「世界が変わったのは昨日今日の話ではない。では何故お前はこれまで、ジプスで唯々諾々と働いてきた。この社会のありように納得して数年を生きてきたのだろう」
 少なくとも彼は、この男の中に不穏分子としての種を見出してはいなかった。そして私もまた、彼の人間を見定める目を信用していたのだ。
 沈んだ目で私を見つめてから、男は口を開いた。
「……私の妹は、生まれつき肢体に障害がありました。それでも以前なら、ところどころに誰かの手助けがあれば何とかやってこれたんです。ですが、もはやこの社会には、一人では生きていけない人間を支える仕組みも動機付けも存在しない。……それは、仕方のないことだと思っていました。他者からの援助を当然のものとして期待する卑しさは、私だってわかっている。だからこそ、私はジプスに身を寄せた。必死に己を高めようとしてきたんです。私一人で、二人の人間が生きていけるだけの価値を生みだすために。それでも……」
 おだやかにつむがれていた男の声が、不意に震えを帯びた。
「それでも、結局、妹は死んでしまった。価値のない人間だからという理由でさらわれ、なぶられて、むごたらしく殺されたんです。妹は、かつての世界でずっと……いいえ、世界が変わってからでさえ、たくさんのものを私に与えてくれていました。私には妹が必要だった。だから望んで寄り添ってきた。私が妹を支えていたんじゃない、妹が私の支えだったんです」
 声の最後は、不明瞭にかすれていた。
「それの、何がいけないんですか。……いけなかったんですか」
 頭を垂れた男の足下に、ぽつりと他より色を濃くした染みが落ちる。
 しばらくその様子を眺めてから、私は一瞬だけ目を閉じた。
「ああ……悪くはないな」
 濡れたまなざしが、ふっとこちらへと向けられる。その視線を受け止めて、私は続けた。
「お前がお前の能力で得たものをどのように処しようが、それは自由だ。そして、お前がここまでの能力を発揮するためにその女が必要だったというのなら……私は、そのこと自体を否定しようとは思わん」
 胸の内で苦く笑う。かつての私であったならば、この男を前に、また違ったことを考えたはずだ。
「……だが、あえて死んだ理由を求めるならばそれは、他者に食われるほどに弱かったからだろう。そしてそのような者を庇護しきることは、どれほど力があろうとも簡単に叶うことではないのだ」
「では……弱ければ、何をされても仕方がない、と」
「その問いの答えならば、お前も承知しているはずだ」
 男が、その面を泣き笑いのような表情に歪めた。
「それなら、いま私に殺されようとしている、あなた自身はどうなんだ」
 直截な言葉に、思わず私は苦笑していた。
「ああ、そうだな。部下の叛意も見抜けんとは、私もその程度の人間だったと言うことだ。この世界を許せぬと語るお前のその思いが、私をなぶり殺しにして充たされる程度のものならば、思うようにするがいい」
「……それを、本気で言ってるんですか」
 推し量るような冷えた問いかけに、うすく笑みを刷く。
「己が望んだことわりを否定し、安い懺悔を始めるとでも期待していたか? くだらんな。私が舞台を去ろうとも、この社会をより善き方向へと導こうとする者が……私の志を継いでくれる人間がいる。ならば見苦しく命を乞う理由などあるまい」
 男はじっと私を見つめ、やがてゆっくりと首を振った。
「この社会においては、局長、あなたはきっと理想的な指導者の一人なんでしょう。これまであなたは、理不尽な暴力や争乱をその力の及ぶ限り退け、秩序を守ろうとされてきた。……ですが今、秩序を守ってきたのと同じその腕で、あなた自身にさえ制御のつかない新しい力をこの社会にばらまこうとしている。そうしたら、私の妹のような人間が、今までの何倍、何十倍も生まれることになるんです。それが、私には耐えられなかった、……」
 ふと、男は涙に濡れたほおをゆがめる。
「……いいえ、そうじゃない。もういい、いいんだ。あなたが何を考えていようと、この世界がこれからどうなろうと、妹は帰ってこない」
 小さくつぶやくと、男は携帯を取り出した。その顔にかすかなほほえみを浮かべる。
「どうやら、死の恐怖ですらあなたを損なうことはできないようだ。それならせめて……」
 男のかたわらに一体の悪魔が召喚される。
 青黒い皮膚をたるませた鞠のような巨体に、その腹を大きく縦に裂く位置に開いた、口を模した形の裂け目――内部に幾重もの肉のひだを重ねたそれは、女の陰部をも思わせるかたちをしていた。短い牙で縁取られたその腔内には、赤く巨大な舌がうごめいている。
 高位の邪神の一つ、伝承によれば契約者の私的な復讐にのみその力を貸すとされる悪魔だ。洒落た選択に、私はくちびるを笑みでゆがめた。
「……あなたにも、妹と同じ最期を」
 表情を消した男は抑えた声で言い放ち、きびすを返すと、そのままただ一つの扉を開け放って姿を消した。


 召喚主が去り、その靴音も消えぬうちから、悪魔はその巨体を揺らしてゆっくりとこちらに近寄ってくる。
 アプリの助けを借りずとも多少の術を行使するすべは持っているが、男は手抜かりなくこの身に封魔を施していったようだ。呪を口にしてもその効果は現れない。
 腹から鋭く息を吐く。唯一自由な脚に渾身の力を込め、巨体の横腹を蹴りつけた。
 弾力を持った青黒い肉がたわむ。苛立ったようにその背のコウモリめいたつばさが動いたが、こたえた様子はない。この悪魔の特性に漏れず、物理的な干渉は無効化すると見ていいだろう。
 その表面をおおう粘液にすべったつまさきを、巨体のそこここから生えた赤い肉の触手がぬるりと伸びて巻きつくように拘束した。驚くほどの力で足を前に引かれる。軸にしていたもう片方の足がすべり、体勢を崩されて私は舌打ちをした。
 胴の裂け目からずるりと伸びた巨大な舌が、抱きこむように背を巻き取ってくる。壁につながれた鎖とその先の腕とが、前に引かれた身体に引きずられてぴんと張った。
 半ば呑まれるように、人の身の丈ほどあるその腔内へ身体の前面を押しつけられる。裂け目を縁取るように並んだ白く短い牙が、とっさに肉壁からそむけたほおをかすめてかすかな痛みが走った。
「……ッ」
 つまさきだけがわずかに床に触れている。赤黒くぬめった肉のふちが、巻きこんだ身を咀嚼するように動いた。コートやシャツにいくつもの裂け目を作り、間もなくその下の身体にも牙が及ぶ。ちりちりとした痛みの上を、ぬるりと生温かい粘膜がすべっていくのに、思わず私は顔をしかめた。
 何度も、何度も、執拗に繰り返される咀嚼でかたちを崩した衣服にぬめりけのある体液が染みこんで、濡れた生地が肌にこすりつけられる。不快さに身をよじったが、もとより肉にうずもれたような状態では甲斐もない。
 そうしてぬるぬると単純な動きでこすりつけられていた肉の一部が、不意に意志を持って動き始める。背中を悪魔の腔内へと押しつけるように巻き取っていた赤黒い舌が、ずるりと衣服の上を這った。その半ばから先の部分が腿へと巻きつくのを感じる。
 肉壁にほおをこすりつけ、無理やり首をひねって見やったそれの表面は、小さな水疱としたたる粘液におおわれ鈍く光を反射していた。見下ろす先で、その先端が牙に切り裂かれたスラックスの切れ目から衣服の内側へともぐり込んでいく。無理やりねじこまれた質量に、音を立てて生地の裂け目が広がった。そのまま這い上がり、下穿きの上からゆるゆると形をなぞるように動く湿った感触に、私は息を詰めた。
「………っ」
 何度か行き来した後、ぬめる肉塊が下穿きを押し下げるようにしてさらに内へと入りこんだ。生温かい粘膜が、下肢を刺激するように包み込み、分厚い肉をうごめかせる。
「……く、あ……ッ」
 不快極まりない刺激にもがけば、ガチャガチャと手枷が鳴った。
 無機質なコンクリートの壁面に濁った水音がひびく。荒れた息を整えようとするそばから、悪魔の舌先がゆっくりと移動していった。見えないところへ這い入っているそれは、半ば立ち上がりかけた部分を刺激しながらさらに後ろへと動く。
 這い寄り、こじ開けられる。私は強く唇を噛みしめた。
 腿に巻きついた水泡だらけの赤黒い肉が、ミミズか何かのように蠕動する。そのたびに、舌端が更に奥へとねじこまれていくのがわかる。
 気色の悪い異物感とともに、その肉塊の表面をおおっていた水泡が内臓の圧に押されて次々とつぶれる感触があった。足の付け根から太股へと、なま温かい粘液のようなものが垂れ落ちていく。
 私は思わず小さなうめきを漏らしていた。
 悪魔の体液が、体内の粘膜から吸収されていく。温感などないはずの腹の内側がかっと熱を持った。
 唐突で不自然な昂揚と共に、奥のほうからじりじりと灼けるようなもどかしさが這い上がる。たまらずにぎりしめた手のひらに爪を立てた。
「ふっ……」
 腰を引こうともがくたびに、中でうごめく肉と内壁がこすれ合う。こみあげる感覚に脚が跳ね、床に触れていたつまさきがコンクリートを軽く打った。
 つぶれた水疱からあふれる体液の助けもあってか、内臓を押される圧迫感こそあれども痛みはない。すっかり濡れそぼって肌にまとわりつくコートの陰からは、ひっきりなしにぐちゅぐちゅとけがらわしい水音が上がっている。
 のどを反らして、熱い息を吐く。鎖で戒められた手のひらに強く爪を食い込ませ、かすかな痛みを得たところで、もはや己を侵す感覚は否定のしようがない。ずるりと、奥に向かってこすり上げられる。
「うあ……っ!」
 腕が自由になるものなら、己で己の首を絞めたくなるような声が口を突いて出た。とっさに唇を噛む。
 巻きついた舌が身体を締めあげた。仰け反った身の奥を何度も強く突かれる。その度、悪魔とつながった部位からぐぷぐぷと泡立つような音がする。
「……っ、ん、うっ」
 必死に抑えた喉が鳴った。うごめく肉壁に揉まれて濡れたシャツと肌の摩擦や、喉をこするぬめった感触すら、いまやたまらないほどの快感をもよおす刺激へと変じていた。立ちあがった部分を肉厚の舌にはさまれ、その先端をぬるぬるとした肉でなぶられる。全身の筋肉が不随意に跳ねた。
「う……あっ、ああ……!」
 鎖が耳障りな音を立てる。その音に紛れて、たまらず私は声を上げていた。
 血臭に混じって、不快な青臭い匂いが鼻を突いた。脱力する間もなく、前と後ろで悪魔の肉が動き始める。
 欲を吐きだしてなお、この身を侵す熱は冷めるどころかますますその温度を上げていく。にゅるにゅると中をこすられるたびに込みあげる快楽に、ぬめる肉の中にうずもれた身体を必死にひねり、よじらせる。それが、逃れたい故の抵抗か、それとも更なる刺激を求めての所作なのか、そんなことすらもはやわからなくなり始めていた。
「っ、ふ……」
 粘着質の水音と、私の喉から漏れる音が混ざり合って耳を打つ。
 けがらわしい、耐えがたいと思う思考の一方で、肉体のコントロールが効かなくなってきていた。
 尽きることなく身体の内側を灼く熱は、私に何かを連想させた。ぼんやりと記憶を探ったところで、混濁していた意識が一瞬覚めかける。
 そうだ、これは、龍脈に身を任せた折の昂揚に似ている。
 まずい、と思った。精神のそれとともに己の霊力のたがが外れかけている。律するものを失って方向性を失った力が、身の内からこぼれ落ちていくのがわかった。かすむ目をこらし、視線を周囲へ走らせる。力の気配に引かれたか、日が落ちてようやく形を現せるような有象無象の小物たちが闇の中から沸きだしていた。
 このまま制御を失った状態で、生きながら悪魔に食われては、この地に霊的な歪みを呼ぶことになってしまう。
 とっさに、私は口を大きく開けた。舌をねじ曲げ、挟んだ歯に力を込めようとする。その動きを察してか、悪魔の身体から生えた肉棘の一本が伸びた。強引に口内へと突き入れられる。
 無遠慮にのたうつ肉に顎を押し開けられた。喉の奥までを生温かい肉に侵され、えづきが込み上げる。
「う、うぅ……っ」
 うめいた私を、呵責のない動きでふたたび悪魔が揺さぶり始めた。あっという間に思考がぼやけ、不本意な快楽の中へと意識が沈んでいく。
 倦むことを知らぬ動きでひっきりなしに突き上げられ、ぬめった肉と濡れた衣服で肌をこすられる。そのたびにくぐもった声が漏れた。下肢からぐちゅぐちゅと漏れ出す水音と、身の内にわだかまる熱が理性を溶かす。
「ん、んん……っう、……ん!」
 不意ににごった水音よりもひときわ大きな破裂音が響いた。悪魔の身体が大きくふるえる。身の内に飲みこんだぬめる舌が激しくのたうち、腹の中をかき回される感覚にたまらず私は背筋を反らせた。手足の先が痙攣する。
 その刺激と音にまぎれて耳に触れたのは――いや、それともただの空耳か。彼の、私を呼ばわる声。そんな錯覚とともに、私は意識を闇に落とした。



◆       ◆       ◆



 一点に集中させた衝撃波が、悪魔の頭部をざくろのようにはじけさせた。
 こちらに背を向けていた青黒い巨体が大きく跳ねる。一瞬の後、動きを止めてずるずると崩れ落ちた。息絶え姿勢を崩した悪魔の陰から、銀髪に黒いコートの青年の白い顔とその上体が現れる。腰から下はその痩身を押しつぶすように倒れた悪魔にいまだ呑まれたままだ。
 手首を戒める拘束具に吊られた身体は、ぐったりとうなだれたままぴくりともしない。
「――ヤマト!」
 たまらず、俺は声を上げた。
 周囲に沸いていた下級の悪魔たちがあからさまな敵意を向けるなか、俺はかまわずヤマトへ走り寄った。代わりに、連れていたケルベロスがどう猛なうなりを上げて跳躍する。逃げようとした甲虫のような姿の悪魔を押さえこむと、その牙で一息にかみ殺した。
 彼我の力の差を悟ったのか、潮が引くように悪魔たちの気配が消えていく。それを背中で感じながら、俺はヤマトに呼びかけた。
「しっかりしろよ、ヤマト!」
 つぶれた悪魔の肉片と体液を頭からかぶってうつむく彼は、そのまぶたを落とし、俺の声にも反応を見せない。
 そのあごをつかみ鼻先を寄せる。かすかに相手の呼気が触れて、安堵に座り込みそうになった。
 落ちかけた膝に力を入れて、ヤマトの手首を拘束する黒いベルトに手を掛ける。
「待ってろ、今、降ろしてやるから」
 元からかなりきつく巻かれていた革製のそれは、濡れてしまってますます外しづらくなっていた。血の気を失ったヤマトの指先は、白を通り越して紫色になっている。
 苦労の末になんとか拘束をほどき、俺は崩れ落ちるヤマトの身体をその場から引っぱり出した。それに連れて、最後までからみついていた赤黒く巨大な悪魔の舌がずるりとその衣服の下から引きずり出される。びくんと、腕の中でヤマトの痩身が跳ねた。
「……ッ」
 苦しげなうめき声に、俺はヤマトの顔をのぞきこんだ。意識の戻った様子はない。
 喉を反らした彼の口もとは、悪魔のものだろう粘液で濡れていた。伸ばした袖でぬぐってやれば、うすいくちびるを割ってかすかに息が漏れた。閉じられたままのまぶたがふるえる。
 ぐちゃぐちゃになった衣服の裂け目からはいくつもの裂傷が見て取れたが、すぐに命に関わるような傷は見当たらない。とりあえずコンクリートの床にその体を横たえると、横に片ひざをついたまま携帯で回復魔法を発動させる。
 目に見える部位は癒えても、変わらず紙のように白い顔色を見下ろして、俺はくちびるを引き結んだ。
 霊鳥を使うにせよ魔獣に運ばせるにせよ、意識のない人間相手に乱暴な移送手段を取るよりは、こちらに人を呼んだ方がいいのかもしれない。
 迷いながら携帯を開いたところで、ヤマトが小さくうめき声を上げた。はっとして視線を戻す。開かれたくちびるが浅く息を吐き、少しの間を置いて、そのまぶたがうっすらと開かれる。
「ヤマト、気がついた?」
 二度、三度と緩慢なまばたきを繰り返してから、ヤマトのくちびるが動いた。
「どうして、お前がここに……」
 問いかけの半ばで不意にその肩が跳ねた。苦しげにその眉が寄せられる様子に、声量を抑えて問いかける。
「……まだどこか痛む? とりあえずケガは治したつもりだけど」
 何度か呼吸をくり返して、ヤマトがわずかに首を振った。
「すまないが……」
 しぼりだすような声がその喉から漏れる。
「君が連れているなかで、人型の悪魔はいるか。意思疎通が齟齬なく成立するだけの知能があって、できれば手先の器用なものがいい」
「人型っていうと、せいぜいニャルラトホテプくらいしか……」
 今携帯に入れてあるのは長距離移動や攻撃に特化した悪魔ばかりだ。ヤマトは顔をしかめ、それでもうなずいてみせた。かすれた声で言う。
「仕方あるまい。……ではそれに対して、しばらく私の指示に従うよう命令を下すことはできるか?」
「うん、それは大丈夫だけど……」
 言外に問いかけを含めれば、ヤマトがわずかに表情を強ばらせた。携帯を手にしたままヤマトを見つめる俺に、不承不承といった様子で口を開く。
「……体内に入り込んだ、悪魔の体液を掻きださせる。自分で済ませたいのはやまやまだが、手先の感覚がやられていて思うように動かせそうにないのでな」
 淡々と口にされた内容に思わず絶句する。俺の反応をどう取ったか、ますますヤマトの表情が固くなった。
「君が気づいていたかどうかは知らんが……人間に、否応なく性的興奮を催させるたぐいのものだ。出せる分だけでも処理をすれば、動ける程度には症状も落ちつくだろう」
「や、ちょ……ちょっと待て! そんなこと、本当に悪魔にやらせるつもりなの?」
「必要な処置だ。多少負傷したところで、後で回復すればいい」
「なにとんでもない無茶しようとしてるんだよ! ……掻きだせばいいんだよな。わかった、それなら俺がやるから」
「何を……」
 ヤマトがぎょっとした顔になった。苦しげに息をつき、ついで険しい表情で俺をにらみあげる。
「助けられておいてこんなことを言う無礼は百も承知だが、お前は、自分が何を言っているかわかっているのか? 私とて、こんな後始末にお前の手をわずらわせるくらいなら、悪魔を使ったほうが遥かにマシだ」
「……あのさ、ヤマト」
 大きく深呼吸をした。できるだけ落ち着いた口調を心がける。
「俺に触られるのは怖い? それとも、気持ち悪いって思う?」
「そんなことは……だが」
 ヤマトが返答につまる素振りを見せる。
「じゃあ、単なる応急処置だと思って気にするなよ。俺も、気にしない」
 反論を封じるように断言する。まだ何か言いたげな様子を無視して、俺はヤマトの肩に手を掛けた。


 動きの鈍いヤマトを支えてコートを脱がせ、黒衣の膝を床につかせる。そのまま腰を折らせ、上体をパイプ椅子の座面に伏せさせた。その背後に膝を突く。
 重ねた手の上にひたいをつけ、すっかり顔を伏せてしまっているヤマトの表情はわからない。スラックスと下着を途中まで下ろし、太股の内側に手を掛けると手のひらの下でぴくりと筋が動くのがわかった。
 内側にじわじわと指先をもぐりこませる。広げた二本の指で入り口を開いて、できるだけ内部の粘膜を刺激しないように、もう一方の手の人差し指を奥から外へとそっとすべらせた。粘り気はあるがゼリーよりはゆるい半透明の粘液が、白い内股を垂れ落ちていく。俺は大きく息を吸って意識的にゆっくりと吐きだした。
 掻きだそうと指を動かすその度に、伏せたヤマトの背がふるえた。必死に押し殺しているのだろう、時折小さく空気が揺れる。ふっ、ふっと苦しげに漏れる浅い息と、こらえきれずに鼻から抜けるくぐもった音。
 そうまでしてこらえなくても、無理せず声を出せばいい。噛み殺されたそれが床へと落ちる度、口をついて出そうになる言葉を俺は飲みこんだ。
 同じ場所に並び立つ相手だからこそ、弱った姿を見せたくない、自分の失態の後始末をさせるわけにはいかない。ヤマトならそう考えるだろうとわかっていて、それでも俺は、まるでヤマトのことを思っているかのような面で手を出したのだ。
 今、自分を動かしているのは、思いやりやいたわりとは正反対の感情でしかない。ヤマトが盟友以外の俺を見てくれないことには耐えられても、そのヤマトが俺以外の存在に身を任せるなんて許せない――そんなエゴだ。 

 だから、俺は、あなたが信じてくれたような人間じゃない。
 絶望して嘆いて、それでも最後に俺にチャンスをくれた人を、俺は泣きたい気持ちで思い返した。



 名古屋駅に着いたのを見計らったようなタイミングで入った着信は、彼からのものだった。
「もしもし、俺だけど…………高見さん?」
 通話ボタンを押して、けれど沈黙している携帯電話へと俺は呼びかけた。
 人の少ない通路へ移動しながら、もしかしてお土産のリクエスト?と軽口を叩いた俺にようやく応じたのは、冗談の気配もない沈んだ声だった。
『あなたに、おいとまを言わなければと思って』
「……どうしたの、突然。何かあった?」
 彼が小さく、笑うような息をついた。
『つい先ほどまで、局長と一緒に、妹が殺された場所にいたんです』
 とっさに何も返せなかった俺の言葉を待たずに、彼は静かに続けた。
『このまま局長が亡くなったなら、きっとあなたがこの社会の次の指導者になるんでしょうね。……あなたのようなやさしい人が世界を導くというなら、それでも私はかまわない。ただ……』
 苦しげにゆがんだ声が、携帯の向こうから届いた。
『もしもあなたがそれを望まないなら……私は、……あなたのような人を、私と同じようにはしたくないんです。だから、頂点に立つことよりも彼の命のほうが大切だとあなたがそう思っているなら……今すぐ、一人でここへ来てください』
 ぷつりと切られた通話の規則正しい電子音で、俺は我に返った。
 胃がひっくり返りそうな恐怖と焦りで脚をもつれさせながら名古屋支局へと駆けこんだ。休止状態だったターミナルを居合わせた人間の制止を押しのけて起動させ、霊鳥を駆って彼の言った場所へ飛んだ俺がその背から飛び降りた時には、かたむいた太陽の最後の光が足下を赤く染めていた。



◆       ◆       ◆



 ヤマトを連れてようやく廃ビルを出た時には、あたりはすっかり暗くなっていた。
 いまだ足下のおぼつかないヤマトを、待たせていた霊鳥の上に押し上げる。羽毛に覆われた背に伏せた痩身の横に自分も横たわって、その背の上から命綱のように腕を回した。
 俺が声をかけると、霊鳥は翼を打ってあっという間に宙へ駆けあがる。ある程度の高度を取って速度を上げ始めたその背で、びゅうびゅうと鳴る風の音を聞きながら、俺は口を開いた。
「あのさ、ヤマト……お前があそこにいるって俺に連絡してきたのは、高見さんなんだ」
 強風の中で、それでもヤマトは俺の言葉をはっきりと聞き取ったようだった。
「そうか……」
 しばらく黙ったあとで、静かに息を吐く。
「元より、行方を追わせるつもりはない。放っておいたところで害を為す可能性はまずあるまい。……弱い男だ。この社会が許せないのならば、戦い、変えていく以外に道などないというのに」
 伏せていた上体をゆっくりと上げて、俺を見たヤマトがその目をすがめた。
「……今のお前はまるで、あの男と同じような顔をしているな。何事かに惑い、指針を失いかけた者の目だ」
 耳元でごうごうと夜風が鳴り、羽織ったパーカーのフードが背中を叩いて乾いた音を立てる。 
 俺は、ほおにぶつかり流れていく冷えた空気を深く吸いこんだ。喉がひりつくように痛む。
「大丈夫。俺は、お前がいるなら迷わないよ」
 ヤマトの目が射貫くようにこちらを見つめる。それならば、という無言の問いを読み取って俺は苦く笑った。その顔から視線を外し、真っ暗な前方へと目を向ける。
「………、お前は」
 名前を呼ばれて、知らず肩に力が入った。うすい色のひとみが、闇の中でじっと俺を見つめている。
「お前は私と同等の……いや、同等以上の能力を持つ、数少ない人間の一人だ。だからこそ、死を意識してなお私は平静でいられた。たとえ私の身に何があってもお前がいる。ならば、後顧の憂いなど存在すまいと……だが」
 ためらうような気配のあと、俺の視界の隅でヤマトは一度くちびるを引き結び、それからまた口を開いた。
「私の頼みとするお前もまた、添うべき他者の存在をその力とするのだというならば……たとえどれほど無様であろうとも、生きてお前の傍らにあるべく、私も最後まで力を尽くそう。それが……私が君に示すことのできる、ただひとつの返礼だ」
 それ以上の約束はできない。そう告げると、ヤマトは手の甲を俺の胸に触れさせた。
 ヤマトの背中に回していた腕に、俺は力を込めた。声がふるえそうになるのを必死になって抑えこむ。
「うん。……それで、もう十分」
 お前が精一杯生きようと望んでくれてそれでも避けられない終わりだったら、俺は、もっとマシな選択肢がどこかにあったんじゃないかって悔やまずに――お前の理想を憎まずにいられる。お前の望んだ世界を支えることを支えにして、きっと生きていける。

 ヤマトが、その目をまっすぐ前へと向けた。
 その先にあるのは、ヤマトが創り上げた世界の中心、天に突き立つ柱のような摩天楼だ。幾筋も走るサーチライトが、夜を切り裂く剣のように上空を照らし出している。
 その姿は、どんな弱さも寄せつけず許すこともないかのように容赦がなく、そして美しい。
 けれどその足下を飲みこむ闇の中に、ヤマトが決して口にすることのないあいまいでやわらかなものも確かに存在しているのだと信じたくて、俺はゆっくりと目を閉じた。





Fin.

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