■  正しいということ  ■


「……あれ、ロナウド?」
 白い枕に頭を沈めてうつらうつらとしていた彼が、ふっと目を開けた。
 薄いカーテンで仕切られ、パイプベッドと椅子ひとつに小さなキャビネットを納めただけの狭い空間を満たしている消毒薬の匂いは、いつも闊達で屈託のない彼には似合わないな、と思う。それを言いだせば、今のこんな状況すべてがまるで彼にはふさわしくない。
 ベッドのかたわらに立っている俺を見上げる彼は、まだ夢でも見ているような、あいまいでぼんやりとした表情を浮かべていた。少し伸びた前髪の下で、青く血管の透けるまぶたがゆっくりと上下する。
「ああ、そのまま寝ていてくれ、起きなくていい」
 わずかに身じろぎした彼をあわてて制止する。大げさだな、と苦笑混じりに彼が目尻を下げた。
「……っていうか、せっかく来てくれたんだったら声かけてよ。黙って人の寝顔見てるとか趣味悪いよ」
 すでにその語調は、寝起きの茫洋としたものから、馴染みのある明瞭で歯切れの良いそれへと変わっている。内心ほっとしながら、俺は頭を掻いた。
「いや……君の養生が第一だからな。俺が話をしたいからと叩き起こすのは申し訳ないだろう?」
「相変わらずくそ真面目だなあ、ロナウドは。まあ、変わりないみたいでよかったけど」
 しばらく見ないうちにごっそり削げたほおをゆるめて笑った彼に、君もな、とはお世辞にも言えずに、俺はなんとか笑い返した。
「ロナウドはまあ顔を見れたからいいとして、他のみんなも元気にやってる? 入院してると食べて寝るくらいしかすることなくてヒマなんだよね。色々話聞かせてよ」
「ああ、もちろんだ。それから、今日は君に差し入れを持ってきたぞ!」
 明るい声を意識して、俺はパイプ椅子の上に置いてあったボストンバッグを開けた。
「これは、ジョーからのチョコレート菓子……む、これはウイスキーボンボンじゃないのか? 病人に酒なんてしょうがないヤツだな……まあいい、こっちはダイチくんからだ、毛糸の腹巻き……黄色か、明るいいい色だな!」
「いや、それ多分、腹巻きじゃなくてスヌードだからね」
「そ、そうか、すまない! あー、ええとだな、それからこっちは……」
 仲間たちからのちょっとした、それでも心尽くしとわかる見舞い品を順に取り出し、白いシーツの上に積み上げていく。
 最後に俺は、いつものひょうひょうとした笑みでそれを眺めていた彼に、ジャケットの内ポケットを探って小さな紙包みを差しだした。
「……それから、これは、俺からだ。このあいだの火災の影響で、鎮痛剤が不足していると聞いた。どうしても辛い時には飲むといい。君の受けている投薬と重なっても飲み合わせには問題ないそうだ。柳谷さんのお墨付きだから、そこは安心してくれていいぞ」
 言い終わった時には、それまでずっと笑顔だった彼の表情から色が抜けていた。
「ロナウド……」
 ふっと息を落として、それから彼は小さく苦笑した。
「ごめん。気持ちはすごくありがたいけど、それはもらえない」
「どうして! 先生からも聞いたんだ、君の症状は……」
 身を乗り出して言いつのろうとした俺に、彼は重たげに腕を上げた。ジャケットの袖にその骨張った指が軽く引っかかる。
「おんなじように痛いのを我慢してる人が、ここにはいっぱいいるんだ。俺だけいい目を見ていい理由がないよ」
「だからって、じゃあ、君は、君は俺に、君が辛い思いをして苦しんでいるのを黙って見てろって言うのか……!?」
 彼の苦笑が深くなる。激昂した俺をなだめるように、幾分ひそめた声でうなずいた。
「そうだよ。そう言ってる。俺と同じ病気で、薬が足りなくて苦しんでる人の前で、ロナウド、堂々とそれ出せる? ……だったら、そんなことしちゃいけない」
 途中で愕然とした俺の表情を見たのだろう。やさしい、子どもを諭すような声音で彼は続けた。
「何も、ロナウドが俺を思ってくれる気持ちにダメ出ししてるわけじゃないんだって。みんなおんなじに苦しいんだってわかってるから、みんな我慢できる。頑張れるんだ。なのに、誰か一人だけ優先されてたら、いくら出所がちゃんとしてるって聞かされたって、何でそいつだけって……頑張ってる人ほど、気持ちがくじけちゃうよ」
「そんな……自分が苦しいからって他人にまでその苦痛の共有を強いるなんて、正しい在り方じゃないだろう!」
 憤然と言った俺に、しょうがないなあと言いたげな顔で彼は笑う。
「うん。ロナウドは、そういう人だよな。でも、俺が言いたいのはそういうことじゃなくて……」
 息を継いで、ゆっくりと彼は言葉をつむぐ。
「どれだけ頑張ったって、まわりより分け前が多くなる訳じゃない。それが、誰のことも見捨てないで一緒に生きる、命の価値に順番をつけない、そういう正しさの対価なんだからって、みんな納得して生きてるんだ。だったら俺やロナウドが、その気持ちをひっくり返すようなことをしちゃいけない。……そうだろ?」
 確認するように問われて、俺は何を言うこともできずにただうなずいた。
 俺を見つめていた彼は、ほっとしたようにその表情を明るくした。朗らかな笑みを浮かべる。
「大丈夫、痛みで死ぬ訳じゃない。俺も頑張るよ、また、ロナウドの隣に、胸を張って立てるように」
「ああ、……ああ、そうだな!」
 俺はふるえるくちびるをひん曲げた。精一杯の笑顔に、なっていただろうか。
「いつまでだって……俺は、君を待っているからな。約束だ」

 空気をやわらげるように療養生活であったあれこれをおもしろおかしく話してくれた彼に、俺は俺で仲間たちの近況を伝えて、彼がおかしげに喉を鳴らす。
 そうこうするうちに疲れてしまったんだろう。その笑みをほんの少しだけ陰らせて、彼は大きく深い息を吐いた。
「ごめん……そろそろ、休ませてもらってもいいかな」
「……ああ、もちろんだ。すまない、俺こそ……」
 目を閉じた彼はくちびるにほんのりと笑みを浮かべた。枕の上で、かすかに頭が動く。
「色々言っちゃったけど、ロナウドさえ良ければ、また来て。差し入れなんていいから。……会えて、嬉しかった」
 その言葉を最後に、ほどなく彼は静かな寝息を立て始める。
 青ざめた目もとを見下ろしながら、俺はくちびるをかみしめた。
 これまでずっと君は、ともすればつっぱしる俺の感情に、ひとつひとつ理屈と方向性を与えてきてくれた。自分でもうまく言葉で表しきることができない感覚を、俺が信じる正しさを支え、多くの人に伝わるようにかたちを整え、歩むその先を明るく照らしてくれた。
 だから今回も、君の言うことは、きっと正しい。
 こんなのは違う、聞きたくないとわめきたてる自分を置き去りにして、君の言葉だけを胸に抱いて、これからずっと――俺は、一人で歩いていかなければならないのだ。

 小さく、彼の名前を呼ぶ。
 これがきっと、君が俺に教えてくれた最後のものになるのだろう。

 正しいことは、こんなにも苦しい。





Fin.

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