■  こぼれた白の対岸で  ■


「おーい、三時の方向、次のお客さん来ちゃってるよ……っと!」
 ジョーの軽い口調には、隠しきれないあせりがにじんでいた。
 俺たちが背にしている発電施設入り口を目がけて、口笛のような鳴き声を後ろに引きずりながら、金の燐光をまとった霊鳥が突っこんでくる。
 俺が迎撃に選んだスキルの発動よりも、一瞬、相手の到達が早かった。となりにいたフミの細い身体が、体当たりを食らってふっ飛ばされる。
 つばさを打って離脱しようとする悪魔へ、眼前に呼びだした魔力の炎がおそいかかった。その身体が、甲高い絶叫とともに炎の渦につつまれる。間もなくして悲鳴は途絶え、炭のようになったかたまりがぼとりとアスファルトに落ちた。
「フミ、大丈夫か!?」
 ふり返らずに問えば、背後から小さくせきこむ音がした。
「あ〜、こりゃ、キッツイわ。腹と足やられた」
 俺は、携帯をかまえたままで周囲を見渡した。死角になるような他の建造物は遠く、見える範囲に敵の姿はない。
「まだ余裕あるよな、ジョー。フミの回復頼めるか」
「りょーかい。フミちゃん、いまそっち行くから動かないでね」
 ようやく背後に視線を向けると、施設の壁ぎわに、左足をかばうようにしてフミがうずくまっていた。まとうチャイナドレスのすそが、あふれる血を吸いこんで、ぺたりと白い脚にはりついている。
 駆けよってきたジョーが、手ばやく手にした携帯を操作した。
「は〜……メンドクサイ。やっぱ現場向きじゃないんだよねえ、アタシ」
 本人の申告通り、フミは根っからの頭脳労働者だ。
 適材適所が大原則のこの社会で、世界が変革をむかえた直後の混乱もおさまったあとは、ほとんど戦闘に連れだすこともなかった相手だ。それだけに、余計に申しわけない気持ちになる。
「ごめん、フォローしきれなくて」
「あ〜まあ、責めてるワケじゃないから。アンタはよくやってると思うよ。てか、それでこのありさまじゃ、指揮官不在の別働隊のほうがどうなってるかって話だよね」
 肩をすくめてみせたフミに、今度こそ俺はことばにつまった。
「うーん、さっきのでここらの敵さんはあらかた片付いたっぽいし……こっちは俺らにまかせてさ、裏口のほうに応援に行ってくれてもいいよ?」
 回復を終えて、ぱちんとジョーが携帯を閉じた。思案げに他の仲間たちが陣取っているはずの方面を見やる様子に、俺は首を振った。
「その分、向こうには人数を振ってるから。本気でヤバイと思ったら連絡くれるように頼んであるし、あっちの判断を尊重する」
 部隊ごとの安定性を重視したあちら側の編成に比べて、俺も含めて先手必勝、速さと火力にすぐれたメンツでそろえてあるこちらには、一手判断をあやまればくずれるもろさがある。
 まとわりつくすそを払いのけながら、フミがふらりと立ちあがった。
「そういや今さらだけど、今日ってなんで局長いないんだっけ? ここの施設の稼働いったん止めて、ちょっかいかけてきてる悪魔を一掃するって、けっこう前からの計画だったよね。まあアタシは直前までメンツに入ってなかったから、よく知らないけど」
「悪魔除けの結界にわざわざほころびまで作ってやった上で、おびき寄せて一網打尽って、けっこう大がかりだよねえ。今回の作戦に遅刻した場合は相応の処分を覚悟しておけって、峰津院に口酸っぱくして言われてたからさ、俺もホラ、今日は時間どおりだったでしょ?」
 自慢にもならないことを堂々と言ってから、ジョーがふと付けくわえた。
「ていうかさ、そういうトコ丸くなったよねえ、峰津院。正直意外だったなあ」
「今の話のどのあたりで、その結論?」
 あきれた顔をしたフミに、ジョーが苦笑した。
「ん〜? むしろ、こっちの想定通りに動けないなら来るな、って感じかと思ってたんだよね。それとも、俺みたいのでも人数に数えなきゃなんないほど人材不足してるとか。それはそれで、そんな状況でも切れずにガマンして俺の相手してくれてるってのがエラいよなあ」
 ヤマトが聞けばさすがに血管の切れそうなことを口にして、のんきにジョーが笑った。
「で、そんだけ気合い入れてた話に峰津院本人が来れなくなるってんだから、よっぽどの事情だと思うね。まあ知らないけど」
「あっそ。アンタは何か聞かされてるワケ?」
 適当な私見で話をしめたジョーに、フミが今度はこちらへ水を向けてくる。
「ああ、うん……」
 思わずあいまいに口をにごした俺に、ふうん、とフミは気のない相づちを打った。
「ま、いいや。やることに変わりないし」
 そのまま、興味を失った顔で歩きだす。おや、とジョーが眉を上げた。
「あ〜……休憩時間は、オシマイみたいだね」
「アンタもちゃんと働いてよね、ジョーンズ」
 面倒そうな表情で彼女が見やった先には、すでに次の『お客さん』が姿を現していた。



 聞かされているといえばいるし、いないといえばいない。
 フミに問われて浮かんだのは、ヤマトから入った突然の連絡だった。

「もしもし?」
 勤務時間が始まるより少し前だ。局長室へ向かって歩きながら、思わず出そうになっていた生あくびをかみ殺して応じた俺に、ヤマトの低い声が告げた。
『私だ。……急な話で悪いが、君に、伝えねばならないことがある』
 回線の向こうで、めずらしく歯切れの悪い口調の相手に、俺は首をひねった。
「午後の作戦のこと? だったら、もう準備してあるけど」
 かなり前から細部までかため、打ち合わせも重ねてきている。参加するのはセプテントリオンとの戦いを経てともに在る仲間たちを主に、ジプス局員のうちでも選りすぐりのメンバーで、そうそう不安要素はないはずだ。
 というかそもそも、これからすぐ顔を合わせるはずの自分に、どうして電話をしてくるのだろう。
『ああ。実は……そのことなのだが、私が参加できなくなった』
「へえ、そうなん……って、はあ!?」
 俺の上げた大声に、周囲を歩いていたジプスの局員さんたちが立ちどまった。
 ちょうど、人通りの多いエレベーターホールを歩いているところだったのがまずかった。思いきり反響した俺のさけびに、視線が集まる。
 ごまかし笑いをまわりに向けてから、俺は空いている来客用の待合室のひとつに駆けこんだ。IDカードで扉にロックをかけて、ようやく息をつく。
「参加できないって……施設は停止しちゃってるし、職員の人も退去済みだし、何より結界! 今からじゃもう、解除は止められないぞ」
『承知の上だ。作戦は実行するしかない。君には負担をかけることになる……本当に、すまない』
 本気の謝罪だとわかったから、ため息ひとつで俺は腹をくくった。
「わかった。お前が抜けるのは正直痛すぎるけど、仕方ないな。追加で連れてく人を選ぶのと作戦の修正は、俺がやったほうがいいの? それともヤマト、お前がやれる?」
『君に頼みたい。実はもう局を出て移動しているところでな。人員確保に必要とあらば、君の判断でターミナルを起動してくれてもかまわん』
 あの一週間、どうでもいいような私事にまで使わせてもらっていたターミナルが、実はその運用に天文学的な費用を要するしろものだったと知ってひっくり返ったのは、もう一年近く前のことだ。今は基本的に休止状態のそれを、使用してもいいということは。
「そこまでしなくても何とかなると思うけど……もしかしてヤマト、お前もターミナル使う?」
『いや、私の向かう先は京都だ。あそこには直通のターミナル施設がないし、何より……』
 そこで、またヤマトが口ごもった。
『……一分一秒を争う事態でもない。午前中に着けば問題ないと思っている』
 妙な話だ。それなら、京都行きの日取り自体を改められないのだろうか。言いづらそうにしているあたり、ヤマトにもその自覚があるのだろう。
 俺は、がりがりと後ろ頭をかいた。
「その……事情を聞いてもかまわない? なにか役に立てるかもしれないし」
 沈黙が落ちた。話せないことなら、と言おうとしたところで、ヤマトが口を開いた。
『………峰津院の長老がたに、呼びつけられてな』
 へっ、と気の抜けた声が出た。
「長老って……初めて聞いた。どういう仕事を任されてるの、その人たち」
 局長のヤマトと同じくらいとは言わないけれど、ジプスの中のことならそれなりに把握しているつもりだった。純粋な疑問から出たことばに、ヤマトが戸惑うような声で答えた。
『いや……私の知る範疇ではないな』
「ええ? じゃ、今日は何の用件で?」
『聞かされていない。……こちらの事情は説明した上でなお来いというのだから、もちろん、余程のことだとは思うが』
 取って付けたように言われて、俺は唖然とした。その気配が伝わったのだろう。ばつの悪い様子で、ヤマトが言い訳らしきことを口にした。
『当主と言っても、私はまだ若輩だ。彼らには頭が上がらなくてな』
「………峰津院の当主って、一番強くて偉い人だと思ってたんだけど」
 ようやく出てきたのは、いささか的外れな、けれど心の底からの感想だ。
『…………ああ、そうだな』
 しぼり出すような声音だった、と思う。
『すまないが、もうすぐトンネルに入る。何かあればまた連絡してくれ』

 そうして、通話が切れたことを示す、無機質な電子音が流れる。
 もう相手のいない携帯を手に、俺はしばらく立ちつくしていた。



◆       ◆       ◆



 参加した全員がまんべんなくへろへろのボロボロになりながらも、なんとか死者もなく戦闘を終えたその夜。日没過ぎに戻ってきてから、俺はジプスの中にあるヤマトの私室の前で、ずっとその帰りを待ちかまえていた。
 施設の結界の張りなおしまで含めて終わらせたあと、報告のためにヤマトの携帯にかけたところ、留守電になっていたのだ。伝言を吹きこんだしばらく後にメールで、ねぎらいと謝罪、今日中には戻る予定だとの返答。それっきりだ。
 正直疲れていたし、腹も減ってるし、風呂にだって入りたかったけど。
 どうしても今日、ヤマトと話をしなきゃならない。そんな強迫観念にも似た直感が、どうしても振りはらえなかった。

 三、四時間は経っただろうか。俺はいつのまにか、扉に寄りかかったままでうとうとしていたようだった。
「……おい、まさか眠っているのか?」
 そっとかけられた声に飛び上がる。
「うわっ!?」
「……人の部屋の前を占拠しておいて、何だその驚きかたは」
 眉根を寄せ、腕組みをしたヤマトが目の前に立っていた。口もとが濡れて冷たいのに気づいて、よだれをぬぐう。
「そもそも君も疲れているだろうに、何のためにこんなところで立っていたのだ。どうやら火急の用向きではなさそうだが、それならそれで、明日でも良かろう」
 そのことばには、呆れたというよりは、気づかうような気配があった。俺は照れかくしに笑ってから、早口にたずねた。
「ええっと、あ、もうヤマトは晩飯食べた?」
「いや……ああ、だが、先ほど志島によくわからないものを食べさせられたので、腹はふくれているな」
「そっか。うん、その……用事っていうか、話がしたかったっていうか」
 完全にいつもどおりのヤマトを見ていると、自分が何をそんなにあせっていたのかがわからなくなってくる。ことばをにごした俺に、ヤマトは苦笑をこぼした。手を伸ばし、俺が背にしていた扉を開ける。
「続きは中で聞こう。さあ、入りたまえ」

 インスタントのコーヒーでも、ただよう香りは香ばしい。
 ヤマトが出してくれたそれに、ポーションのミルクとスティックシュガーを入れる。ひとくち飲んで、大きく息をついた。急にどっと疲れが押しよせて、応接セットのソファーに背中が沈む。
「もしや、君は夕食がまだなのか?」
「え? ああ、うん」
 そうか、とヤマトは向かいのソファーから立ちあがった。ほどなく銀盆を手に戻ってくる。
「こんなものしかないが。腹の足しにはなるだろう」
 テーブルの黒に映える白い皿にちょこんと載せられたのは、ケーキ屋でもよく見るような、貝の形をしたきつね色の焼き菓子だった。
 ありがたくパクつきながら、ふと顔を上げると、幼児をほほえましく見守るような顔でヤマトがこちらをながめていた。思わず顔が熱くなる。
「今日は苦労をかけたな。それで、私に何か話があるのだろう?」
 その熱をごまかすようにコーヒーをあおって、俺はうなずいた。
「うん。結局、何の用件だったのかと思ってさ。お前の様子もちょっとヘンだったから、心配で」
「ああ……そのことか」
 ため息混じりにヤマトが返した。明らかに気乗りのしない様子で、テーブルに両のひじをつく。
 話せないことならいいよ、という一言を、俺は飲みこんだ。心配だというのも本心だ。けれどそれ以上に、今日のヤマトとのやり取りを日常のなかにまぎれて流してはいけない、そんな気がしていた。
 じっと見つめつづけた俺に、観念したようにヤマトが口を開いた。
「………子を」
 聞こえたことばの意味を取れずに、俺は間抜けな声を上げた。
「へっ?」
「いいかげんに伴侶を選び子をなせ、とな」
 数秒遅れて、ようやくヤマトの発言を理解する。
「……そんなばかげた話をするために、よりにもよって今日この日に呼びつけたのか? 親戚のおせっかいなおばちゃんじゃあるまいし。いやまあ、親戚は親戚なんだろうけど……なに考えてんだ、その人たち」
「君には迷惑をかけたと思っている」
 ふざけた様子のかけらもなく、真面目な顔でヤマトは続けた。
「だが、彼らの懸念自体はもっともだ。当主であること以前に、この身は、峰津院の血を満たした器なのだからな。私には、この名を次代へつなぐ義務がある」
 本気で、言っているのだろうか。
 信じられずに、俺はヤマトの顔を凝視した。とんでもないことを口にしながら、けれどヤマトの態度はいたって普通のもので、おかしなことを言っている自覚はないようだった。

 能力ある者、強い者を生みだし育てたい、ならまだわかる。
 この国を守ってきた父祖の行いに、誇りを持っていたことも知っている。けれど。
 単なる血統主義、実の伴わない格式こそを、彼は忌み嫌ったのではなかったか。

 たしかに、はっきりとヤマト自身のことばでそう聞かされたことはついぞなかった。それでも、血でも名でもなく、ただ自身の力だけを評価されることを――だれかの愚かな欲望にふり回されるあやつり人形ではなく、狂おしいほど、それこそ血を吐くほどに、己自身として生きたいと――それこそが彼の願いなのだと、かつてともに駆けた一週間の中で、俺はそう感じていた。
 それは、間違いだったのだろうか。



 その後、何をどう話したのかは思いだせない。
 気がつけば、俺はひとり、ぼんやりと局内の共通スペースを歩いていた。
 ふと、食欲をそそるにおいが鼻孔に流れこんで、意識が引きもどされる。つられるように顔をあげれば、暗めに照明の落とされた通路の先にひとつ、灯りのもれている扉があった。その脇におかれているガラスケースとその中にならべられた料理の模型に、ああ、局員向けの食堂だと気づく。
 空腹に耐えかねて中をのぞきこむと、見慣れた茶色の後ろ頭が見えた。
「……ダイチ?」
 こちらに背を向けて座っていた幼なじみがふり返る。俺を見て、その大きな目が人懐っこくほそめられた。
「なんだ、お前も夜食食いにきたのかよ。今日はよく働いたしなあ、俺たち。そりゃあ腹も減るってもんだよな」
 屈託のない声音に、ほっと気がゆるむ。
「おばちゃーん、ごめん、焼きそばとたこ焼き、もう1セットお願いしてもいいかなー?」
 食堂の奥へと声を張り上げたダイチに礼を言って、そのとなりの椅子を引く。
 ちょうど焼きそばのほうを食べ終えたところだったらしいダイチが、鼻歌交じりに、となりに輪ゴムで閉じて置いてあった白いプラスチックトレイに手をかけた。そこで、ふっと俺の顔に視線を合わせる。
「……ていうか、どうかしたの、お前。なんか暗くない?」
 何をどう言えばいいのか迷って、俺はあいまいにほほえんだ。
 もちろん、人は変化するものだ。俺と出会ってからのたった数日でさえ、局長はずいぶん変わられたとマコトは口にしていた。
 だけど、今日ヤマトが見せたものは――俺の思うヤマトの本質とは、あまりにかけ離れている。
「あのさ、ダイチ……実は、ヤマトのことなんだけど」
 たまらず声に出してから、ふいに俺は、現状に気づいて愕然とした。
 でも、いまここにいる俺たちのうちいったい誰が、そこまでかつてのヤマトを知っていただろうか。
 ヤマトの変化を戸惑いと安堵をこめて語ったマコトは、あの一週間の最後、一般人を保護する任務のなかで命を落とした。口を開けばヤマトさんはあなたの話ばっかり、なんて笑っていたオトメも、行方知れずのままだ。
 フミはあの性格だし、仇と信じてヤマトを追っていたロナウドも、ヤマトの一族に力を与えてきたという、最後のセプテントリオン――『憂う者』と名乗った彼も、もういない。
 動揺する俺のとなりで、ダイチがのんびりと口を開いた。
「え? ヤマト? そういやアイツ、意外と可愛げあるよな。今日来れなかったのも、なんかあったんだろ? さっきさ、めちゃめちゃ疲れた顔して歩いてたから、思わず声かけちゃったんだけど。これ勧めてやったら、素直に食べて、貧相な見かけによらずうまいなとか、笑った顔とか見るとそういえばコイツ年下だったんだっけー、みたいな。つーか、たこ焼きも知らないとかどんな青春送ってきたんだよっていう……あー、そうだよな、ヤマトだもんな」
 言いながら、ダイチが箸で指したプラスチックトレイの中身は、すでに半分ほどが空になっていた。

 俺は、その空白を見つめながら、知らず息を止めていた。
 そんなことがあるわけない。あっていいはずが、ない。
 けれど、彼は――『憂う者』は、おかしなことを言わなかったか。
 ふいに、一年以上前の会話が、鮮明に思いだされた。

 あの戦いの最後の日。迎賓館の前で出会った彼は、俺のとなりに立つヤマトを見て、不思議そうな――まるで、ここにあるはずのないものを見ているような顔をした。
『おや……輝く者。これはいったい、どうしたことかな』
 続けて何か言おうとしたところに、ヤマトが割って入った。すると彼はいつものつかみどころのないほほえみで考えこみ、それからこう言った。
『いいだろう。仔細はどうあれ、君たちは、信念を曲げる気はないようだ。ならば、その実力を試させてもらうよ。君にも、それなりの覚悟と力があるのだということを、私に見せてほしい』
 君たちに、ではなかった。君に、でもなかった。それは、誰を前提としての『君にも』だったのか。

「おーい。……なあ、どうしたんだよ。冷めちまうぞ?」
 ダイチの、困惑しきった声がした。
 はっと気づけば、いつのまにかダイチの注文してくれた軽食が目の前に置かれている。俺は、バネ仕掛けの人形のような勢いで立ちあがった。
 食堂を飛びだす。おどろいたダイチが、背後で何か言っている。
 全力で駆けて、与えられている自分の部屋へと飛びこんだ。真っ暗な中、頭から毛布にもぐり込む。

 どうすればいいのかわからない。何も考えたくなかった。身体を丸めて、かたく目をつぶる。
 そうして、いつのまにか、俺は眠りに落ちたようだった。



◆       ◆       ◆



 これは夢だ、という自覚があった。

 俺は、ヤマトの私室でソファーに腰をかけていた。
 部屋の奥では、コートを脱いでくつろいだ姿のヤマトが、機嫌の良さそうな顔で午後のお茶の準備をしている。
 紅茶のいい香りがした。まもなくこちらへ歩いてきたヤマトが、俺の目の前に白いティーカップを置いた。ローテーブルをはさんで向かいの自分の席の前にも同じものを置き、ゆったりと腰を下ろす。
「ヤマト……」
 小さく、その名を呼んだ。ゆるやかに目を細めてヤマトが笑う。
「どうしたのだ。幽霊でも見たような顔をして」
 くつくつと小さくのどを鳴らすヤマトに、俺は歯を食いしばった。こぼれそうな嗚咽を飲みこんで、笑いかける。
「お前に会えて、うれしいんだよ」
「そうか。それは光栄だな」
 ふふ、とかすかに笑んで、ヤマトがカップを手にした。ゆっくりと口をつけてソーサーに戻す。
 そうしてから、ふと気づいたように、小さな銀のミルクピッチャーを取った。
「君はたしか、ミルクティーが好みだったろう」
 そういえば、いっしょにたこ焼きを食べた帰りに、奇跡的に動いていた自動販売機で缶のミルクティーを買った覚えがある。ちなみにヤマトはストレートティーを飲んで、甘ったるいと顔をしかめていた。
「あ……うん。よく覚えてたね」
「当たり前だ。他ならぬ君のことだからな」
 差しだされたそれを受けとろうとして、手がすべった。受けとりそこねたピッチャーが転がり、中のミルクが、黒いテーブルに流れだす。
 ヤマトが眉を寄せた。立ちあがり、席を外そうとする。とっさに俺はテーブル越しに手を伸ばした。
「……どうした?」
 下から腕をつかまれて、おどろいたように動きを止めたヤマトが、俺を見下ろしている。
 息がつまった。ふるえそうな声をこらえて、問いかける。
「なあ、ヤマト。いま俺のとなりにいるのは、誰なんだ」
 ヤマトのおどろいた顔が、ゆるゆると苦笑じみたほほえみになった。
「……さあ、私も知らんな。あれだけ外見が似通っていて、霊力の質にも違いがないのだ。近しい血縁と見るのが妥当だろうが」
「じゃあ……やっぱり」
 俺は、もつれそうな舌を動かした。
「やっぱりお前、ほんとうは、あの時に………」
「ああ、そうだ。すでに私は死んでいる」
 言えなかったその先を、ヤマトがあっさりと口にした。
 力のこもった俺の指を、ヤマトの日焼けを知らない白い手が押さえた。なだめるような仕草に、知らず指がほどける。ずるりと落ちた腕に添って、俺はうなだれた。
「ヤマト、俺……」
 どうして、という気持ちが胸の中であばれている。ソファーにかける自分のひざを見つめながら、泣き声にだけはすまいと、のどに力を込めた。
「ヤマトの力になりたかったんだ。お前が払わされてきたその分だけ、お前の望みを叶えたかった……」
 ふと、頭の上にやさしい吐息が落ちた。
「そうか……お前は、そう思っていたのだな」
 顔を上げる。わずかにゆがんだ俺の視界で、ヤマトがそのひとみを細めていた。
「ならば、負い目を感じる必要はない。私は、もう十分にお前に報いてもらっている」
 何のことだ、と問う気持ちが顔に出ていたのだろう。ヤマトは続けた。
「忘れたのか? お前は、私の一番の願いを叶えてくれたろう」
 伸ばされた指が、いつくしむように俺のほおに触れる。ヤマトの指先は、水のようにひんやりと冷たかった。
「この国を守ってくれと。それどころかお前は、私の夢見た世界を現実にした。……そうだな、お前という男の盟友の席を他の者にゆずらねばならん、そのことだけは口惜しいが……己の望んだことわりにならば、私はよろこんで従おう」
「だけど、俺は……」
 納得も、けれど反論もできずにことばをつまらせた俺に、ヤマトは苦笑した。
「……では、こういうのはどうだ。我が定めの星はもはや砕けて散った。さしずめ、人間という名の屑から、天にばらまかれた星の屑へと身を変えたわけだ。……だが、知っているか。星屑のつどう天の川は、地表に影を作りだせるほどの明るさを誇る」
 話の転換に、俺はとまどいながら首をふった。
「……初めて聞いた」
 そもそも俺は、星座や天体にはくわしくない。ドゥベやメラクの名前だって、ヒナコに言われて初めて星のそれだと知ったくらいだ。
「そうか。私は君からさまざまなことを教えられたものだが、その君に、私が教えてやれることがあるとはな。まったく、愉快でならないよ」
 ひとしきり笑ってから、ヤマトは続けた。
「あの戯れ言ばかり抜かした男ではないが……そこから私が、お前の往く足もとを照らしてやろうというのだ。これで文句はあるまい?」
 偉そうに腕組みをしたヤマトが、どうだと言わんばかりの顔でこちらを見下ろしている。
 小さく俺は吹きだした。たぶん、泣き笑いのような顔になっていたと思う。
「ヤマトに、そんなロマンチックな発想ができるとは思わなかった」
「フフ、……やっと笑ったな」
 見下ろす双眸にわずかに茶目っ気をにじませて、ヤマトが笑い声を立てた。
「強者が能力を認められ、表舞台で――陽の当たる場所で生きていける世界を、私は望んだ。だから、私は満足しているよ。願わくば、君にとってもそうであってほしい」
 俺には、うなずくことしかできなかった。
 それが、ヤマトの本心からのことばだと思えたからだ。それなら、他にどんな答えが返せただろう。
「そうか」
 ヤマトの表情が、本当に満ち足りたものになる。
「ならば、私の話はこれで終わりだ。……それではな」
 おもむろに、ヤマトがきびすを返す。
 毛足の長い絨毯を踏んで、その痩身が出口の前に立った。銀のノブに手を掛ける。俺は立ちあがった。
「……ヤマト!」
 行かないでくれ、と言いたいのに、声が出せなかった。その背中を凝視する。
 ヤマトは一度だけふり返った。かすかに笑って、扉を開ける。
 ぱたん、と別れを告げる音がひびいた。



◆       ◆       ◆



 俺は、ベッドからゆっくりと身を起こした。
 ひどく肌寒い。首をめぐらせれば、室内はまだ暗かった。冷気の原因は、朝部屋を出ていくとき、換気のために開け放しておいた窓とカーテンだ。
 そこからうっすらと差し入ってくるひかりは、星ではなく、深夜でさえ眠ることのない人の営みのそれだった。
 抱えたひざの上で手を組み合わせ、こぶしにひたいをつける。
 そうして俺は、夜が明けるまでずっと、考えつづけた。




「……私だ。今日も良い朝だぞ」
 ノックとともに、部屋の扉が開く。羽織ったパーカーの釦を止めて、俺はそちらへとふり向いた。
「昨晩、君の様子がおかしかったから気になってな。調子は……」
 言いかけたところで、こちらを見る色素のうすいひとみが不思議そうにまたたいた。
「めずらしいな。君が、起こされる前からすでに目を覚ましているとは」
 まっすぐに視線を合わせる。俺はうなずいた。
「うん、起きた。……これまで、夢を見せてくれて……ありがとう」
 切れ長の目が見開かれ、動きが止まる。俺は、噛みしめるように続きを口にした。
「君は、ヤマトじゃない。そうだよね」
 しんと、部屋が静まりかえった。
 うすいくちびるがふるえた。今にも消え失せそうなほど、その顔色が真っ白になる。
「な、何を言って……」
 一歩後ずさる腕を、俺はつかんだ。
「逃げるな!」
 ひゅっと白いのどが鳴る。やがて、そこからかすれた笑い声が漏れだした。
「フ、フフフ……」
 ひとつ大きく息を吸いこみ、こわばった顔が笑みを作る。
「………よく、気づいたものだな。そうだ、私は……彼の双子のかたわれだよ」
 ほんの少しだけ、俺はつかむ手の力をゆるめた。
「そっか。……じゃあ、君の名前を教えてくれないか」
 ためらう間があった。やがて、小さな声が床に落ちた。
「ミヤコ。名を、峰津院都、という」
 うつむいた顔は、本当にヤマトによく似ている。いまでもまだ、そう思えた。
「ミヤコ、だね。ありがとう。……あのさ、話をしたいんだ。これからの俺たちの話を。君に、俺の思うヤマトを押しつけたくないから」
 つかんだ腕にぎゅっと力を込めて、それからゆっくりと手を離す。俺のそれよりもすこし高いところにあるひとみが、困惑にまたたいた。
「何を、言っている。私はこれまでずっと……君をあざむき、裏切っていたのだぞ」 
 俺は首をふった。それは、気休めのつもりでも嘘でもなかった。
「違うよ。君がいなければ、きっと俺はあの時に、もう立ち上がれなくなってた」
 ヤマトと歩いていくつもりだった。それでも。
「……これまで、ここまでいっしょに辿りついたのは、目の前の君なんだ」

 信じられない、と目を見開いたその顔に、同じなんだ、と思った。ヤマトと同じように、この国のためにすべてをささげることを強いられた、ヤマトの半身。
「君から奪われたものの代わりになれるだなんて、思わない。でも、君が俺の手を取ってくれるなら……」
 大きく息を吸った。想いを込めて、告げる。
「俺だけは、ほかの誰でもない、君のものになる。約束するよ」

「……本気で、言っているのか」
 呆然とつぶやいたもう一人のヤマトのまなざしを、俺はまっすぐに見つめ返した。
 うすい色のひとみがかすかに揺れる。
 どれだけ時間が経っただろうか。やがて、おずおずと、白い手袋に包まれた手が伸ばされた。
 触れた指先を、俺はそっとにぎりしめた。薄い布ごしにほのかな熱が伝わってくる。
「……ずっと」
 ぽつりと、ミヤコのくちびるから、ふるえる声がこぼれ落ちた。
「ずっと、私は……貴方に暴かれる日が来ることが、恐ろしかった」
「うん、……うん。ごめんな、気づいてやれなくて」
 空いた方の腕を伸ばし、うすい背中を引き寄せた。肩に伏せられた頭を抱いて、その髪をゆっくりと撫でる。
「……ありがと、な」
 俺は小さく笑って、それから、こらえきれずに少しだけ泣いた。




Fin.

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