■  真珠星は手のひらに  ■


「あのさ、ミヤコ、ちょっと聞きたいんだけど」
 俺は拾い読みをしていた書面から顔を上げて、デスクに座る相手に声をかけた。座面に手を突き、ソファーから立ちあがる。
 シンプルな黒革張りのオフィスチェアで、手にした書類とにらめっこをしていたミヤコが顔を上げた。
「ん……どうした?」
 局長室の壁に広く切られた窓から入ってくる昼の明るさが、その輪郭と書類の白をふちどっている。
 薄型のファイル片手にデスクの横に立つと、よほど煮つまっているのかいつもより深い眉間のしわが、俺の顔を見上げて少しだけゆるんだ。
 その口もとから、疲労の色が濃いため息がこぼれ落ちる。ネクタイの結び目に指をかけ、ぐいと引っぱってゆるめてから、椅子を回してミヤコはこちらへと向きなおった。
「何か不明な部分でもあっただろうか」
 デスクに置かれた書類にちらりと目をやると、俺が提出した、ここ一年の治安維持活動における所見をまとめた報告書だった。ちなみに俺の方は、思うところがあれば言ってくれとミヤコが寄こした局内人事の草案だ。
「不明っていうか、悪い、これっていつぐらいを目途にまとめる話だっけ?」
「ああ……それはな」
 椅子にかけたままで上半身をこちらへ乗りだして、俺の手もとの書類を繰るミヤコの頭に、ふと俺は目を止めた。
「あれ、ミヤコ、髪に何かついてるよ」
「……何だと?」
 見当違いのところを探る指に、梳かしつけられた髪が乱れる。俺は小さく笑った。
「ちょっと動かないで」
 手を伸ばす。かるく指先で梳いて、くっついていた白い何かをつまんだ。目の前に持ってきて、眺めてみる。
 そうして、ああと得心した。ミヤコの午前の予定は新たに設置された支局の視察だったはずだ。
「もう、すっかり春だね」
 移動中に春風に乗ってその頭までたどりついたのだろう小さな綿毛を見せると、ミヤコはひとみをまたたかせた。
「何だ、これは」
「タンポポの種だけど。知らない?」
「……ああ」
 不思議そうな表情をしていたミヤコが、恥じいるように目を伏せた。
 道ばたの草花の生態なんて、ミヤコにとっては得る機会もない、知らなくて当然の知識だろう。そのことに生きてきた世界のへだたりを感じてさびしく思いこそすれ、あきれたりなんてするはずもないのに。
 うつむいたミヤコのつむじがよく見える。俺は何か言おうと大きく息を吸った。
「ん、………んん?」
 吸いこんだ、甘い香りにことばを飲みこむ。
「ん、んー……あ、ミヤコからか」
 すんすんと鼻を鳴らして、甘い香りの出所を確認する。それは、目の前のうすい色の髪から香ってきていた。
「……どうかしたか?」
 急に顔を寄せた俺の挙動を大人しく受けいれていたミヤコが、首は垂れたまま、目線だけで俺を見上げた。
「あー、なんかミヤコの髪って、いいにおいするなと思って」
 はっとした顔をしてから、ミヤコがその髪を押さえた。
「そうか……そうだな、気づかなかった。昔と同じ洗髪料を使い続けていたからな。いいかげん、他のものに変えなければ」
「はあ? なんでそうなるの」
「その……おかしいだろう。男がこんな香りをさせていては」
 生真面目に言われて、俺は首をかしげた。
「別にいいんじゃない。言われてみれば、女の子みたいなにおいかなって気もするけど……いい香りだし、似合ってるよ。ていうか、これまでは普通に使ってたんでしょ?」
 いや、とミヤコはかたくなに首をふった。
「男性は、女性に比べて皮脂の分泌量が多いのだろう? ならば、洗髪料も男性用の製品を使用する方が理にかなっている」
「へえ、そうなんだ……っていうか……うん?」
 なんだか、おかしな言い回しじゃなかったか。
「あのさ、ミヤコ」
 じっとそのひとみを見つめると、ミヤコがたじろいだ。うすい色のまつげが、小鳥の尾のようにせわしなく上下する。
「……また何か隠してない? ミヤコのことをちゃんと知りたいから、何でも話してほしいって、俺、何度も言ってるつもりなんだけど」
 少しトーンを落とせば、ミヤコの動揺が深くなる。
「あ、いや、その……隠しているというか……大したことではないのだ、今さらでもある」
 言いわけがましく言いつくろってうつむく相手に、俺はことばを重ねた。
「うん、隠してるつもりじゃなかったんだね。……で?」
 観念したように目をつぶったミヤコが、ゆっくりと口を開いた。
「その……実は……」
「うん」
 俺は、できるだけやわらかくあいづちを打った。
「私は以前、女だったのだ」

「…………………はっ?」
 バカみたいに口を開けて固まっている俺に、ミヤコは話し続ける。
「いや、意図的に伏せていたわけではない。今はもう完全に男として生きているのだから、そのことについて君に話しておく必要はないかと思ってだな……」
「……………へっ?」
「その……兄が失われてしばらく後に、龍脈の力を得ることができただろう。ターミナルの作り替えに比べれば、人の性別を移ろわせることなど、その力の余剰で十分足りる程度のことであったから。君にしてみれば、気色の悪い話かもしれない。……すまなかっ」
「って、ええええぇええ!?」
 俺の絶叫は、おそらくはワンフロアのほとんどに響きわたったことだろう。


 仰天して駆けつけた局員さんを(しかし、局長室に自己判断で押しかける行動力は大したものだ。心のなかの『有事に頼れそうな人材メモ』に、その人の名前を俺はしっかり書きこんでおいた)穏便にごまかして、ふたたび二人きりとなった部屋で、気まずそうにしているミヤコを、俺はまじまじと見つめ直した。
 頭のてっぺんからつま先まで、どんなに見つめてみても、男にしか見えない。
 今は、いつものしっかりした生地のコートは椅子の背にかけられている。ゆるんだネクタイと一番上のボタンを外されたシャツの襟からのぞく喉ぼとけは、しっかりとそのでっぱりを主張しているし、胸だってない……ない、と思う。下は、さすがにスラックスの上からじゃ……
 そこでようやく、透視できそうな勢いでその身体を凝視していたことに気づいて、俺は首を振った。
「で、その……えーと」
 ごくりと、つばを飲む。
「ミヤコ………、が、おんなのこ」
「いや、だから、今は男だと」
 真面目な顔で、ミヤコが訂正をしてくる。
「そ、そっか、そういう話だっけ……っていうか、ありなのかよそれ!」
「あるからこそ、今の私があるのだ。……すまない。どうやら、君を不快にさせたようだな」
 さびしげにミヤコが笑う。あわてて俺は首をふった。
「あ、いや、そういうんじゃないから。さすがにちょっと驚いただけ。こっちこそ、ごめんな」
 謝罪のことばとともに思い切り下げた頭を上げると、ミヤコは切れ長のひとみを少し大きくしていた。やがて、ほんのりとほほえむ。
「君が詫びることはない。むしろ、私が礼を言いたいくらいだ」
 誤解が解けたのを察して、俺はほっと息をついた。やわらいだ空気にまかせて訊ねてみる。
「ていうか、俺は、ミヤコが女でも男でもかまわないけどさ……ミヤコ自身は、嫌じゃないのか?」
 たとえば俺が、今日から女として生きてくれって言われたら、……ダメだ、想像できない。
「俺、ミヤコは一卵性の双子だってずっと思ってたから、考えもしなかったけど。今なら、本当のミヤコに戻ったって問題ないと思うよ。元通りにするのって、無理なのか?」

 幸いにもこの社会では、『能力以外のどんな属性も、その人物の評価に影響を及ぼすべきではない』という考えかたが、常識として受け入れられている。
 かつて、ヤマトと入れ替わったというミヤコの告白を聞いた俺は、災害以前からジプスに所属していた人たちには、個別にある程度の事情を話し、その上で残るか去るかを決めてもらった。
 もともと各支部の人員すべてを集めても百五十人もいなかったうちで、あの八日間を生き残り、さらに実力主義を掲げたヤマトに従うことを選んだ数少ない人たちだ。複雑な心情こそあっただろうが、そのほとんどが、ここまでの復興を成し遂げた事実でもってミヤコを認め、ついてくることを選んでくれた。
 新しくジプスに採用された人たちは、トップが何らかの事情で引退し、その弟が後を継いだのだと理解をしているだろう。
 たとえ、古株の局員から事実が広まったところで大勢に影響はない。後継が実力者であることに変わりがないのならば――ありがたく思うべきなのだろうその現実は、少なからず俺の胸をきしませもしたが――交代劇の内実など、この社会においては、何の意味もないことなのだから。
 そしてまた、彼らは彼らなりにこの国を思ってのことであれ、この時世とは感覚のずれてしまっている峰津院の御老体がたには、俺が直接おもむいて、今後の口出しを止めてもらうように話をした。
 ……本心から納得してもらえたとは思わない。ポラリスが人の抱く『常識』を変えてしまっても、その人ひとりひとりが積み重ねてきた人生そのものをすげ替えたわけではない以上、その常識と折り合いをつけることのできない人は、もちろん残っている。良い意味でも、悪い意味でもだ。
 ともあれ、結果として、現在のジプスのトップは「峰津院都」という名の青年なのだということは、広く知られ、受け入れられてもいる事実だった。
 この際、そこに峰津院都が女性であるという情報が加わったところで、さしたる問題もないだろう。

 俺の質問に、ミヤコは、思ってもみないことを言われたという顔をした。
「龍脈の力は、時の経過とともに再び蓄えられてきている。もちろん、不可能ではないだろうが……」
「何かまずいことでもある?」
 少し首をかたむけて、ミヤコが答えた。
「子をなすことを考えるならば、そうだな。やはり男の身の方がやりやすいと……」
 ことばの途中で、ミヤコはしまったと言いたげな表情になった。
「……もうそういうのは関係ないんだって、俺、言わなかったっけ」
 たぶん、目が笑っていない笑顔、というやつになっている自信がある。
「あ、ああ……そうだったな。すまない。頭ではわかっているつもりなのだが……」
 こればっかりは、ミヤコを責めるべきじゃない。俺はため息一つであきらめて、話を元に戻す。
「それで、ミヤコは男として生きることに不満とかはないの? だってほら、それこそ、子どもを作るとか、そういうことになると……その」
 言いよどんだ俺を、ミヤコが引きついだ。
「元は同性であった存在と交わることに違和感があるのではと、そういうことか?」
「ものすごいぶっちゃけたな! ……うん、まあ、……それ以前に、そういうのってやっぱり、好きな人としたいものっていうか。俺の感覚だから、押しつけるつもりはないけど」
「好きな人と、……か」
 おどろいたように、そのひとみがまたたく。
「君にはそういう、枕を交わすような相手がいるのか?」
 さらにぶっちゃけた質問に、俺は吹きそうになった。こちらを見ている表情が真摯なものであることに気づいて、恥ずかしさをこらえて返答をする。
「いない。いないけど、するなら俺は、そういう相手としたいって思う」
 しばらくだまりこんで、ミヤコは俺をじっと見つめていた。
「……ミヤコ?」
 ふっと息を落として、ミヤコはうなずいた。
「わかった。この件については、少し考えることにしよう」



◆       ◆       ◆



「ごめん、ジョー。ずいぶん待たせた?」
 簡易の休憩スペースに、鳥打ち帽の後ろ頭を見つけて歩み寄る。
 首をひねってこちらを視界に入れたジョーが、ひょうひょうとした笑顔を浮かべた。
「いやいや、急に押しかけたのはこっちのほうだから。ホント久しぶりだねぇ。元気そうでなによりだよ、うん」
 ブースに置かれた長椅子から立ちあがって手を振ってくる。俺もかるく手を上げかえした。
「三ヶ月ぶり? ジョーが東京まで出てくるなんてめずらしいね」
「あーうん、ほら先週さ、名古屋でけっこう派手な悪魔の掃討作戦があったっしょ? で、我ながらがんばっちゃったから、自分へのご褒美?ってことで、骨休めにまとまった休暇もらってさ〜。せっかくだから、君とかダイチくんとかの顔を見るついでに、東京見物でもしようかなって。あ、そいでこれ、オミヤゲね」
 足もとのボストンバッグから出してきた紙箱を受け取る。すこししわの寄った包み紙には、金ピカの魚にちょんまげの男の子の頭をくっつけた、何ともコメントしがたいフォルムのキャラクターが印刷されていた。
「しゃち丸くんまんじゅう、頭としっぽ、どっちから食べるか迷っちゃう一品だよ〜」
「あ、うん、そう、ありがとう……。あと、ダイチは昨日から現場に出てていないから。明日には戻ってくる予定だけど」
「そっかぁ。俺も明後日くらいまではこっちでぶらぶらしてるからさ、明日の夜あたり、改めてメシでもどうかな?」
「たぶん、大丈夫だと思うけど……」
 スケジュールを確認しようと、パーカーのポケットに手を突っこんだ。取りだした携帯を操作していると、向かいに立つジョーがおや、と眉を上げた。
「あれ、峰津院だ。もしかして、君を探してるんじゃない?」
「うん?」
 ふりかえれば、通路奥からミヤコが歩いてくるところだった。俺と目が合うと、迷いのない足取りでこちらへやってくる。
「やはりここだったか。君のところの人間が、秋江が訪ねてきたと言っていたのでな」
「やっほ〜、ジョーおじさんですよっと。久しぶり、峰津院」
 適当に指をそろえ、ジョーがくずれた敬礼まがいのあいさつをした。ミヤコの視線がそちらへ動いて、かるいうなずきを返す。
「先日の働きは聞いている。なかなかの成果を上げたようだな」
「ありゃ。峰津院にホメられるなんて、俺もまだまだ捨てたモンじゃないねぇ」
 サングラスの向こうでパチパチとまばたきをしたジョーが、次いでへらりと笑ってみせる。ミヤコが思案げな顔をした。
「君の能力に関しては、以前から評価しているつもりだが。……ふむ、ちょうどいい機会だ」
 うなずくと、ミヤコはジョーへ向き直った。腕組みをして、数センチの身長差にあごを上げる。
「以前から気になっていたのだが、秋江、君は休みかたにムラがありすぎる。それがなければより権限ある職務を任せることができるものを……私は正直、惜しいと思っているのだよ。その気になったなら遠慮なく言いたまえ。相応の立場を宛がう用意はある」
 ジョーの笑顔が苦笑に変わる。へにゃりと眉を下げて、こめかみをかいた。
「あ〜、まあね、それはおいおいっていうか……俺としては、峰津院のほうが働きすぎなんだと思うなぁ。ぜんぜん休みとか取ってないっしょ? ちょこっと息抜きしたほうがさ、効率いいって。あ、そうだ、チョコ持ってるけど食べる?」
 言いながら、ジャケットのポケットからスラックスのそれまで、上から順番に手をつっこんで探しはじめる。
「……いや、結構だ」
「あ、そう? ほら、なんかうすっぺらくなってない、肩とか背中とか。ちゃんとメシ食ってるか、オジサン心配になっちゃうよ。もうちょっとさぁ、皮下脂肪つけたほうがいいって絶対」
「栄養補給なら問題なくおこなっているのだが……」
 何とも言えない顔をしているミヤコに、ジョーがひょいと手を伸ばした。
 ぺたぺたと肩をたたいて、うーんと首をひねり、今度は正面からぎゅっと抱きしめる。
「ほら、やっぱり骨っぽいっていうか。痩せすぎでしょこれ」
「ちょ、……ちょっと、ジョー!」
 俺は、とっさに声を上げていた。
「うん?」
 ミヤコの肩口にあごをのせてうなずいていたジョーが、きょとんとした顔でこちらを見た。ミヤコのほうは、あからさまなあきれ顔でジョーの抱擁を受けている。
 続けることばを見つけられずに、俺は口ごもった。
「あ、ええと、いや、その……」
 ジョーの表情に、遅ればせながら何の他意もないのだと悟る。
 そういえば、以前に自分やダイチが同じようなことをされた時だって、もともと親しい同性には気軽にスキンシップを取ってくるたちだとわかっていたから別段気にもしなかった。まあ、ミヤコとそこまで気安い間柄になっているとは知らなかったけれど、そのおどろきだけなら、ここまで動揺はしていなかっただろう。
 わずかに反らされたミヤコの背にかかる長い腕。ジョーの首すじに触れているうすい色の髪。
 黒を基調とした格好の、長身ですらりとした体型の二人が寄り添っている姿には、妙に雰囲気があった。
 そのままことばを継げずにいる俺に、ミヤコも不審そうな顔になる。
「おい……どうした?」
 ジョーの腕から抜けだして、俺の前にやってくる。
「あー……ジョー、じゃなくてその、ミヤコは、俺に何の用事だったの? 急ぎじゃなきゃいいんだけどさ」
 苦しい話のつぎ方に、あっさりと納得した様子でミヤコがうなずいた。
「ああ、そのことか。休憩中にすまないが、君に確認してもらいたい案件があってな」
「それなら、時間をもらって抜けてきてるから午前いっぱいは空いてるし、今からすぐ行くよ」
「では、ついてきてくれ。それではな、秋江」
 コートの裾をひるがえし、ミヤコは歩きだす。
「悪い、ジョー、また連絡するから」
 あわててその背中を追いかける。ふり返って声を上げれば、面白がるような顔つきで片眉を上げたジョーが、笑って手をふった。
「いやいや、こっちこそゴメンっていうか。つもる話はまた明日ってことで、よろしくね」



 局長室のソファーに深く身を沈め、渡された書類に目を通していく。
 ちらりと見やれば、ミヤコのほうは立ち上げたPCのモニターに向かっていた。
 まもなく、キーボードを叩く音がひびき始める。文面を練っているのか、時折その音が途切れ、また再開する。
 俺は、小さく息を吸った。書面に目を落としたままで、口を開く。
「そういえば、このあいだ話してたことなんだけど……」
 キーボードの音はそのままに、こちらへと視線を向ける気配がする。
「ほらあの、元に戻るかどうか、考えてみるっていう。結局、どうすることにしたの?」
 思いだそうとするような間があって、ああ、とミヤコが返事をした。
「あの件か。いや……考えてみると、意味がないと思ってな。君は、契りを交わすのであれば好いた相手と、と言ったではないか」
 照れる気持ちを抑えてうなずく。
「うん、言った。それで?」
「だから、意味がないと」
 その一言で、あたかもすべての説明が終わったかのような調子で言われて、俺は顔を上げた。案の定、ミヤコはすでにモニターへと視線を戻している。
「ごめん、ちょっと話が読めないんだけど」
 ミヤコが、キーボードを打つ手を止めた。真面目な顔でこちらを見る。
「私は、君がどれほど兄のことを大切にしていたかを理解している」
 言いたいことがわからない、という俺の表情を読んだのだろう。一拍おいて、ミヤコはことばを継いだ。
「君は、兄のためにこの世界を創り、そして……兄のためのこの世界にひとり置き去りにされた。だからこそ、私のそばに在ろうと思ってくれた。当然のことだし、もちろん私はそれでかまわない。兄は男であったのだから、君のために、私もせめて男の姿でありたいと思うし……君の理屈でいうのならば、君が私をそのような意味で求めることはないのだから、女となる必要もないだろう」
 ミヤコの言い分を飲みこむには、すこし時間がかかった。何か言おうと口を開いて、また閉じる。そのまま絶句している俺に、ミヤコが眉を寄せた。
「……私はなにか、思い違いをしているか?」
 ぐしゃりと、手のなかで書類のたばが鳴った。
 つけた勢いでソファーのスプリングをきしませながら、俺は立ちあがった。ミヤコの座るデスク横まで大股で歩みよると、少なからずの戸惑いを浮かべたひとみが、こちらを見上げてくる。
 くやしさと情けなさにまかせて、俺は口を開いた。
「あのなあ! お前を、誰にもヤマトの身代わり扱いさせたくなくて、だから、俺は……っ!」
 そこまで言いつのったところで、ふとひっかかりを覚えた。
「……ていうか、待って。今の話って、俺が、好きな相手とそうなりたいって言ったのが前提ってことだよね?」
 俺の大声に目を丸くしているミヤコを、まじまじと見つめ直す。
「つまり、それって……ミヤコが自分の好きな相手としたいと思ったとしても、俺がミヤコを好きにならないなら女の子になる意味がない、……そういうこと?」
 俺の剣幕に固まっていたミヤコが、ふとまばたきをした。かすかに首をかたむける。
「……誰かと交わりたいという欲は、私にはよくわからない。だが、君との接触は……他の者とのそれとは違って心地が良いし、もっと触れてみたいとも思う。これが君の言う、好いた相手と、という感覚なのであれば……おそらくはそういうことなのだろうな」
 あまりに率直な返答に、ゆっくりと、俺は息を吐きだした。
「ミヤコの気持ちまでは、俺には決めつけられないけど。でも、ミヤコが望んでることなら叶えてやりたいって、いつも……今だってそう思ってるよ。幸せになってほしいんだって」
 自分自身の気持ちを探りながら、俺はそれをことばにする。
「だから、そっちがどうあれ……少なくとも、俺は、ミヤコのことが好きなんだと思う。寝たいと思ったことは、これまではなかったけど」
 ミヤコが、心底おどろいた顔をした。
「それは……偽りなく君の本心か? 兄ではなく、……」
 口ごもったミヤコに、俺はことばを重ねた。
「ヤマトはヤマト、ミヤコはミヤコだよ。俺にとって、ミヤコはヤマトの代わりじゃない。なんか勘違いしそうだから念のために言っておくけど、優劣の問題でもないからな。俺は、ミヤコはミヤコとして大切に思ってるんだから」
 唖然としていたミヤコの首すじが、徐々にのぼる血の気で赤くなる。
「では……君に、私自身を想ってくれるところが少しでもあるというのならば」
 しばらくためらうそぶりの後で、ミヤコがかるくくちびるを湿して続けた。
「その、……君に、触れてみてもいいだろうか。もし、君が嫌ではないのなら、だが」
 俺は、だまってうなずいた。
 ミヤコが椅子に掛けたまま、こちらへ両手を伸ばした。上体をかがめた俺のほおをはさみ、ひたいを合わせて見つめあう。緊張にのどが鳴る。
 俺はそっと片腕を伸ばして、ミヤコの後頭部に手をかけ、最後に残された少しの距離を詰めた。
 くちびるで触れた肌は、さらさらしていて心地好い。
 ためらいながら口を開けて、そのくちびるを舐める。おどろいたように開かれたそこにすべりこませた。熱くてぬるぬるする舌をこすりあわせる。ぞわりと、背筋がしびれるような快感が駆けのぼる。
 交わす唾液は甘かった。そっと、くちびるを離す。
「あ………」
 無意識だろう、吐息混じりのかすれた声が、熱を帯びて俺の首すじをくすぐった。
 こちらを見あげるミヤコの、目のふちが赤い。白いほおもわずかに血の気が差して、やわらかく色づいている。
 しばらく見つめ合って、俺はひとつ深呼吸をした。
「……もうちょっと先まで、試してみる?」
 ためらうような沈黙の後、応えが返った。
「………少し、時間をもらえないか。……嫌だという意味ではない」
 うつむいたミヤコの、髪の合間からのぞくうなじは赤かった。
「君と触れあうのならば、身を清めたい。……それに、その、どうせ触れるなら、女性のからだの方がよいのではないか、と……」
 どんどん小さくなっていく声に、俺も釣られてどもりながら返事をする。
「えっと、……うん、じゃあ……その、また、今晩、とか」
「あ、ああ……そう、だな」
「うん、わかった。それじゃ」
 俺は、くるりとミヤコに背を向けて、歩きだした。座りなおしたソファーで、ずっとにぎりしめたままでしわくちゃになっていた書類をなんとか広げる。
 あとは、双方ともに黙りこんで、終始もくもくと書面と画面にそれぞれ顔を埋めていた。




 その夜、俺がミヤコの私室を訪ねたのは、日付の変わる少し前くらいの時間だった。
 風呂上がりで、スラックスに上はシャツだけの軽装だ。その襟もとを指先で直してから、扉の前で息を吸う。持ち上げたこぶしの背で、こつんとノックをした。
「……ミヤコ、起きてる?」
 耳をすますが、応答どころか、人の動くような気配もなかった。しばらくの静寂のあと、インターホンのパネルについているキーロックのランプに、俺は目を止めた。ついているのは、解除状態のグリーン。
「……って、おい」
 思わず声が出る。解除操作にともなう電子音は聞こえなかった。ということは、ずっと開けっ放しになっていたのだろうか。
 このタイミングでアクシデントもないだろうが、あわてて俺は扉を開けた。
 足を踏みいれた室内は、灯りが落とされていて真っ暗だった。背後で扉を閉め、しばらく立ちつくす。
 一分くらいはそうしていただろうか。ようやく目がなれて、ブラインドの向こうにある夜景のうっすらとした灯りで、家具の輪郭が見えてくる。
 俺は、ゆっくりと首を巡らせた。
 毛足の長い絨毯を踏んで、歩き始める。短い移動のあと、さらに奥、寝室へとつづく扉の前に立つ。
 よく見ると、黒々とした扉の下のすき間に、光がひとすじ細い線を浮かばせていた。
 ひとつ息を吸いこむ。
「入るよ、ミヤコ」
 手を掛けたノブはひんやりと冷えていた。ゆっくりと押し開ける。
 漏れだす明るさに、俺はまばたきをした。人が活動している場所のぬくもりがほおに触れる。今度は見回すまでもなく、訪ねてきた相手が視界に入った。
 壁につけて置かれたシンプルなかたちのベッドに、頭を垂れてかけている。寝間着なのだろうシャツに、ゆったりしたズボンの裾からのぞく素足が寒そうに見えた。
「ミヤコ?」
「ああ………すまない。足労をかけたな」
 ようやく返ったのは、これまで聞いてきたものよりも高く澄んだ声だった。
 伏せられていた顔が、ゆっくりと上がる。緊張の色を宿したその顔つきは、その声の変化に比して、おどろくほどに変わっていない。あごの線が細くなったような気もするが、それこそ気のせいかと思える程度だ。
 それもそうか、と内心で考える。始めのうちは、龍脈の力を使うことなくヤマトとしてふるまっていたのだ。
「横、座ってもいい?」
 ミヤコが、ごくりと息を飲む動作をした。薄手の白いシャツの胸もとに、かすかな陰影が浮かんでいる。
「……ああ」
 二人分の体重に、スプリングが鳴った。
 間近に見ると、その喉もとは女性らしくなだらかになっていた。襟からのぞく鎖骨が目について、俺は床のほうへと視線を落とした。
 今度は、ズボンの裾から出ている白い足首が視界に入る。その足の指先が、ぎゅっとかたく丸められているのを見て、口を開いた。
「別に、無理する必要はないんだからな。……俺も、こういうのはあんまり慣れてないし」
 そっけなく聞こえてしまっただろうかと、一言付けくわえる。ミヤコが首をふった。
「そうではないんだ、ただ……」
「うん」
 俺は、ゆっくりうなずいた。
「………私はもう、兄のふりはできない。君は、それでいいのか」
 たぶん、と俺は思う。
 どんな返事をしたって、ミヤコの不安を消しさることなんてできはしない。俺にやれることのすべてを、何度も何度も繰りかえして、積みあげていくしかないんだ。ことばで、表情で、つなぐ手で。
 それでもミヤコは、自分を取り戻すことを選んでくれた。もっとさかのぼれば、俺と生きていくことを選んでくれた。だから、今、足をすくませる彼女に俺はほほえみかける。
「それでいいよ。っていうか、そうなってほしいんだ」
 目の前で、色素のうすいひとみがゆれた。
 並んでベッドのふちに座る肩へ、おどかさないように手を掛ける。
 首をかたむけ、ほおにくちびるを触れさせた。ふるえながら降りたまぶたに、すじの通った鼻先に、かるく口づける。
 小さな吐息があごに当たって、俺はゆっくりとくちびるを重ねた。一瞬触れさせてから、もう一度。肩と背中を抱いた俺の手に応えるように、ミヤコの腕がゆるく背に回った。
 うすく開いたくちびるに、舌を差しいれる。歯列をなぞって、触れた舌先を舐めた。伸ばされたそれを吸って、逆に口内へと引っぱりこむ。
「ん……っ」
 おどろいたように、ミヤコがくぐもった声を上げた。
 頭が後ろへと引かれる。離れようとした身体がバランスを崩して後ろへかたむいた。あわてて引き戻したせいで、その身体が俺の胸にぶつかる。
 ミヤコのシャツを押し上げるふくらみは、見た目にはよくわからない程度のものだったけれど、密着するとたしかにやわらかな感触があった。
 おたがいしばらく固まったあと、少し身を離す。
「ええと……その、ごめん」
「いや、大丈夫だ」
 ミヤコが小さく首をふった。息を吸って、吐きだす動きに合わせて、その胸がかすかに上下する。
「………続けてくれ」
 伏し目がちに言われて俺はうなずいた。大きく深呼吸をひとつ。
 その肩に置いた手を、ゆっくりとすべらせていく。シャツの上から、少し固くなっている胸の先端を指先で押しつぶした。ミヤコの肩がふるえる。もう片方の手を、シャツのすそからすべりこませる。
 ミヤコの肌は、あたたかくなめらかだった。そっと、たしかめるように触れていく。
 シャツの外と内で動かしていた両手の指先が布越しに当たって、俺はそのままシャツのボタンを外しに掛かった。ボタンの間隔が広めだったこともあって、すぐにその作業は終わる。
 喉もとからへそのあたりまでが露出して、ミヤコが小さくささやいた。
「生白いばかりで、見て、楽しい身体ではないだろう」
「……俺は、きれいだなって思ってるけど」
 左手で背すじをなで上げながら、もう片方の手で、ささやかなふくらみをやさしくにぎる。
「ふっ……、く」
 ミヤコの背が反って、はだけたシャツが肩からずり落ちた。
 あらわになったもう片方の乳房に、俺は口をつける。小さな水音を立てて吸いあげてから、とがらせた舌先を押しつけるようにして、先端を舐めた。
 そのままの姿勢でミヤコの表情を見上げれば、うすく眉根が寄っている。
 開かれたくちびるから、苦しげな息が漏れた。右手でその胸の下を押さえてみると、鼓動が早まっているのがわかる。ミヤコの胸から口をはなして、俺はささやいた。
「さわられるのが恐くなったら、ちゃんと言って。それで嫌ったりしないし、嫌われてるとか思ったりも、ないから」
「……私を嫌っていないというのなら」
 うわずった声が応えた。背にまわされた腕に力がこもる。
「止める必要はない。……君に触れてほしい」
 俺は、思わずのどを鳴らした。
「あんまり、あおるなよな。俺だって、そんな自制心にあふれてるってわけでもないんだから」
 慎重にその背中をささえながら、ミヤコの身体をシーツの上に横たえる。おおいかぶさると、緊張を逃がすように、ミヤコが大きく息をついた。
 伸ばされたその腕が、俺の首にかかる。直に触れてきた指先は冷えていて、背筋がぞくぞくと泡だつ。引き寄せられるままにその首すじに顔を埋めれば、ひたいに熱を帯びた息が触れた。
 そのままお互いに手を伸ばし、触れあって、なでて、舐めて、腕のなかのミヤコの肌があわく上気してくる。
 切迫した呼吸とともにのけぞって突きだされた鎖骨を甘く噛みながら、俺はそっと下の方へと指をすべらせた。なだらかな下腹部をなぞって、さらに先、身じろぐうちに腰骨のあたりまで落ちてきているズボンのなかに手を入れる。
「……っ、あ」
 ミヤコが甘くかすれた声を上げた。
 さぐった場所は、熱く濡れていた。ぬるりとすべって、俺の指をはさみこむ。
 ゆっくりと前の方を行き来させると、引き結ばれたくちびるから鼻に掛かった声が押しだされた。
「っ……ん、んんっ……」
 ミヤコの様子を見ながら、爪の先をかるく当てる。
「あ、あっ!」
 俺の身体をはさんだ脚が跳ねあがった。押し止めようとするかのように、俺の腕に指がかかる。
「……ここ、気持ちいい?」
 答えは、腕をつかむ手にこめられた、痛いほどの力だった。


 たぶん、相当に余裕のない顔をしている。
 長い触れあいでミヤコの身体から力が抜けるまで待ってから、ようやくその中に入りこんで、それからまたしばらく俺は動きを止めていた。
 苦しげな息をしていたミヤコが、その俺の表情を見て、ほっとしたような笑みを浮かべた。
「君でも……そんな、追いつめられた顔をすることが、あるんだな」
 のばされた腕が、俺のこめかみあたりに触れる。伝う汗をぬぐう指先は、まるで子どもをあやすそれのようにやさしかった。
 息をととのえ、俺は口を開いた。
「……みっともなくって、がっかりした?」
「いや……むしろ、喜ばしい。私のために、無理をさせているのではないと……そう思えるからな」
 俺を受け入れた下腹に、ぎゅっとひきしぼるように力がこもった。俺に触れていない方の手は、指先が色をなくすほどにシーツをにぎりしめている。苦痛を逃そうとしてか、うすいくちびるがことさらにゆっくりと息を吐きだした。
 熱くてきつい感触にくらくらきている俺とちがって、俺の下で全身をこわばらせているミヤコが、身体を開かれたことで快感を得ているわけではないことは、なんとなくわかる。
 強引に動きだしたくなる気持ちを、俺はぐっとこらえて抑えこんだ。そういう意味で、無理をしているといえば言えるな、と情けないような気持ちで考える。
 かさねた身体はそのままで、俺はミヤコとくちびるを合わせた。そのほおを包んだ手の指先が耳もとに触れて、そこが失せた血の気で冷たくなっているのに気づく。せめてあたためようと、小さな耳を、俺は親指の腹でゆるくこすってやった。ミヤコが身体をふるわせる。
 何度か軽くくちびるを触れあわせた後で、口づけを深くした。引っこんでちぢこまる舌を舐めてからめているうちに、こわばっていた身体の力が抜けてくる。伏せていた目をうすく開ければ、ミヤコは閉じた目もとをうっすら赤く染め、まつげをふるわせていた。
 ん、ん、と、そののどから、小さく切なげな音が漏れる。
 そっと身体を動かしてみると、互いの身体の間で粘性の水音がした。さっきよりはずっと、こめられた力がゆるんでいる。
 離したくちびるから、か細いうめきが上がった。
「あ………」
 俺は、シーツの上で手を伸ばした。いつのまにか投げ出され、ゆるく開かれていたその手のひらと重ね合わせ、指を割って、にぎりしめる。
 手の中で、ミヤコの指がぴくりとふるえた。
「大丈夫か?」
 ゆっくりと、ミヤコが息を吐きだした。うすく水の膜が張ったひとみが、静かにこちらを見あげる。
「……君の、好きに動いてくれ。私と今こうしているのが、憐れみゆえでないのなら。君が、少しでも私のことを……」
 言いよどむミヤコに、俺はにぎる力を強くした。
「ミヤコのことが好きだし、大切だよ」
「そうか、……ならば」
 涙をためたひとみが、やわらかく歪んだ。その表面に映っていた俺の姿が、崩れて消える。
「……もうあと少しだけ、つきあってほしい」
 そっとにぎりかえされた指に、俺はきつく力をこめた。

 ゆっくりと、身体を進める。
 とたんに、両脇で立てたミヤコの膝に力がこもった。無意識に後ろへ逃れようとするのをとどめるように、その手を押さえる。
 深く収めて、またゆっくりと引きぬいていく。ミヤコが背を反らしてのけぞった。
「あっ、あ、ああ……っ」
 殺されようとする小動物のような、高く、苦しげな声だ。俺は息をついて、一気にまた突きいれた。
 泡だつような音とともに、こつんと奥につきあたる感覚があった。ミヤコがひゅっと喉を鳴らした。白い下腹が、けいれんを起こしたように引きつる。
 その動きに熱が上がる。コントロールが効かなくなってきている身体のたづなを取ろうと、俺はぐっと奥歯を噛みしめた。
 ミヤコが、泣き声のようなあえぎ混じりの短い呼吸をしている。くちびるがわなわなとふるえ、濡れた目が俺を見つめた。
 触れる手のひらはたがいに汗ばんでいた。にぎっていた指がほどけ、その腕が俺の背中にかかる。しがみつく力に逆らわず、ぴったりと熱い身体を触れあわせると、全力で駆けたときのような鼓動が重なる。
 くっついていると、その動きがよくわかる。俺が身じろぐと、びくんとミヤコの身体がはねた。
「ぅん、……んっ」
 胸が引きしぼられるような、辛そうで甘い嬌声だった。とうとう抗しきれなくなって、その腰をつかみ揺すりあげる。揺れに合わせて、ミヤコのくちびるから声が押しだされる。
「……んっ……あっ、あ、あ、ああっ!」
 ひときわ高い声を上げたミヤコは、一瞬身体をこわばらせて、ぐったりと力を失った。


 俺が身体を引いた後、ミヤコはその四肢をベッドに投げだしたまま、浅い息を繰り返していた。
 やがて、その呼吸がゆっくりと、深いものへと変わっていく。汗ばんだ身体が冷えてしまわないよう、俺はシーツを引き上げミヤコの上にかけてやった。自分の方も、起こした上体にシャツを羽織り直して、目を閉じたミヤコを見下ろす。
 いつもより少しだけ血色の良いミヤコの顔は、眉間のしわもいくぶんゆるやかで、あどけなくさえ見える。俺は、ミヤコをおどろかすことがないように、やわらかに散らばる髪をそうっとなでた。
 そうして指先で少し湿った髪を梳いているうちに、目を閉じたその顔がまるで人形のようにきれいだと思って、胸を突かれたように気持ちが揺れた。
 ミヤコが決めたことで、もちろん俺も望んでこうなった。身体をつないだこと、だけではない。彼女なりに意義を持って選んだはずの姿を反故にさせ、女性としてのミヤコを選ばせた。
 だって、俺は、ミヤコにあげたかった。誰にはばかることのない安らかな眠りを。誰に負い目を感じることもない、ミヤコ自身の幸福を。
 けれど、それは俺の身勝手なエゴではないかと思う自分も確かにいるのだ。
 ミヤコは始めから、ヤマトのスペアとしての立場を受けいれ、そうあろうと努めてふるまっていた。己を血をつなぐための器だと言い、それを当然のこととして認めてもいた。
 俺から見てどんなに不自由で辛い生き方に見えたとしても、それは、ミヤコ自身の価値観においては当たり前で、辛いことだという認識もなかったのかもしれない。
 その彼女に俺は、『本当のミヤコ』として生きてほしいと望んだ。
 そうして、ずっと己を殺して他人の姿をした人形となる術だけを教えられてきたミヤコに、それは間違っている、不幸せなありようだなんて、今度は俺が、俺の思う『幸せな生き方』を強いるのか。
 あるいは、他の誰でもない自分こそが、勝手に満足して逝ってしまった彼を重ねて――

 髪を梳く指が、もつれたところに引っかかって、俺ははっとした。
 くたりと横たわり、ほそい息を繰りかえしていたミヤコが目を開ける。
 ことばもなく静かなひとみが見あげてくる。知らず息を飲んで、俺はそのまなざしを受けとめる。
 やがて、ミヤコはおもむろにくちびるを開いた。
「以前、何でも話してほしいのだと、君は言ったな」
 少しかすれた声が、俺の耳を打つ。
「ずっと黙っていて……いつか、言わなければと思っていたことがある。……聞いてくれるか?」
「……うん?」
 首をかたむけて、俺はミヤコのことばの続きを待った。
「本当に、今さらだ。だが、言えなかった。君とともにある時間が長くなればなるほど、言えなくなった」
 ゆっくり俺がうなずくと、ミヤコは深呼吸をして口を開いた。
「君はずっと……まがい物と知ったその後ですら変わらず、仲間の一人として私のことを扱ってくれたな。君との日々が、意志を持たない人形だった私を人間にした。君のかたわらは心地が良くて……私の本体である兄以外の存在が、初めて私の中で意味を持った。そうなってから、ようやく私は理解したのだ。他者と交わすことばのぬくもりを。それを、永遠に失うことの恐ろしさを。……私は、君に詫びなければならない」
 わずかに、ミヤコの声がふるえを帯びた。
「私は知っていた。兄がみまかるその場に居合わせた局員たちがどうなったのか。そして、兄が最も重用する側近であった迫が、君たちと引き離された後にどうなるのか。あの時私は知っていて、何も思うことなくそれを受け入れた」
 苦しげに、けれどミヤコは途切れることなくことばをつむぐ。
「君がこれまで私に望んできてくれたように、兄の姿を真似た人形ではなくひとりの人間として生きるのならば……己の行いの責もまた己自身に帰すべきものだ。一番の裏切りを隠したままで君の好意を乞うたばかりか、肌を重ねてから、こんなことを明かす卑怯さは承知している。だが……ただの一度だけでいいから、君の『好きな人』になってみたかった」
 ミヤコが大きく息を吸った。はっきりとした声で、告げる。
「軽蔑してくれていい。……これまで、ともに在ってくれたことに、礼を言う」

 そのまままばたきひとつなく、断罪を待つような面持ちでミヤコは俺を見あげている。
 ゆっくりと手を伸ばした。触れた瞬間、こわばったその肩を、俺は抱きしめる。
「……知ってたよ。もうずっと前から、俺は」
 腕の中で、ミヤコの身体がちいさく跳ねた。
 すこし距離を開けて、顔をのぞきこむ。ミヤコは、信じられないといった表情で俺を凝視していた。そのくちびるがわなわなとふるえて、結局何もつむげないままに息を飲む。
「ミヤコがヤマトじゃないって気づいてから、もしかしたらって思ってた。だから、峰津院の人に話をつけに京都へ行った時に本当のところを聞いてきたんだ」
「ならば、どうして! ……君はそんなことは、一言も……彼らへの処罰どころか、私を責めることすらなかったではないか」
「うん、俺こそ黙ってて、ごめん」
 呆然と言われて、俺はうなずいた。
「もし、俺が知ってるって気づいたら、ミヤコは俺に憎まれてるって思いこんで、もう俺が何を言っても聞いてくれないんじゃないかって思ったから……ミヤコが、俺を信じてくれる自信がなくて、言えなかった」
 それに、と俺はことばを継いだ。ミヤコをなぐさめるためでも自分のための欺瞞でもなく、本心から言っているのだと、伝わればいいと願いながら。
「あの人たちも、峰津院だ。ミヤコやヤマトと同じ、この国のためだけに生きてきた人たちだと思うから……やり切れないし、今でもどうしてって思うけど、それでも、なくしたものを数えたりしないって決めたんだ。今、俺の手のひらにあるものを取り落とさないように、全力で大切にするんだって。だから、ミヤコ」
 ぴったりと、視線を合わせる。
「俺のとなりで、幸せになってくれる?」
 ミヤコは目を見開いて、ひゅっとのどをならした。ふるえる腕が伸ばされる。
 痛いほどの力でしがみつかれて、俺はミヤコの背中に手を回した。
 やがて、腕の中からすすり泣く声が聞こえてくる。泣きそうになるのを必死にこらえて、ささやいた。
「……ありがとな」
 俺のエゴを許してくれて。人として、ミヤコ自身として生きたいと思ってくれて。
 ――俺の望んだ幸福を、望んでくれて。


 俺といっしょに一枚のシーツにくるまって、泣き疲れ、あどけない顔で眠るミヤコのほおに、俺はそっと手のひらを触れさせた。
 失ってから数年が経った今でも、ヤマトは俺のなかの特別な場所に沈んでいる。
 だから、俺からミヤコへ向かう気持ちに、ヤマトに上げられなかったものをと思う心が一片たりともまぎれこんでいないかと問われれば、本当のところ、それは俺にも分からなかった。
 それでも、と思う。
 年月とともに、ヤマトとは似ても似つかない表情を見せるようになってきたミヤコを、さびしいだなんて思わない。
 ミヤコがミヤコ自身として生きるためのその変化を、俺のこの手がもたらすことができるなら、何だってしてやりたいと――思う気持ちには、欠片ほどのいつわりもないのだと、自信を持ってそう言える。

 手のひらをすべらせて、そのほおにかかる髪をかきあげた。
 あらわになった、涙のあとが残る目もとにそっと舌を這わせる。
 ミヤコのくちびるから、あいまいなうめきが漏れた。眠りながら身じろぐその身体を、収まりの良いように自分の胸へと押しつけた。

 そうして、俺も目を閉じる。
 鼻先をもぐらせたやわらかな髪は、いつかと同じ、甘い花の香りがしていた。






Fin.

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