■  したたる水は戻せない  ■


「まもなく、るそな銀行本社ビルに到着いたします」
「正午五分前か。フム……おおよそ予定通りだな」

 静かに交わされるやり取りに、ふっと意識が浮上する。
 なかば無意識の身じろぎを、背にした座席のクッションがなんなく受けとめた。かすかなエンジン音と車体の揺れの心地よさは、一度覚醒しかけた意識を、あっさり眠りの世界へと引き戻していく。
「佑人。よく眠っているところ悪いが……そろそろ起きたまえ」
 それを察してか、低い声音が耳を打った。重なるようにパチンとシートベルトを外す音がする。
 すぐそばからの明らかに自分へ向けられた呼びかけに、俺は重いまぶたを持ちあげた。
 視界には、こちらをのぞきこむヤマトの白い顔があった。ゆっくりとまばたきを繰りかえす。
「……モーニン、ヤマト」
「今は朝ではないのだが、……まあいい。おはよう、佑人」
 ヤマトが寄せていた上体を座席に戻す。その手もとに読みさしの書類を見て、出かけたあくびを飲みこんだ。
「ごめん。ずっと寝こけてて」
 広い後部座席のとなりで、一人もくもくと仕事をしていたのだろう相手を思って出た謝罪に、ヤマトはあっさりと首をふった。
「構わんさ。おそらく君は、ノンレム睡眠の維持に要する睡眠物質の分泌量が常人よりも少ないのだろう」
 その言葉に、皮肉の気配はない。
 実際、俺は眠りが浅く、そのぶん睡眠時間を長めに取らなければ目に見えて能率の落ちるたちだ。そのせいで、きびしいタイムスケジュールを強いられたあの一週間などは相当きつい思いをした。
 だが、自身を基準に他者の優劣を判断している――言いかえれば、人類のほぼすべてを『あまり出来の良くない人間』と『救いようのないほど出来の悪い人間』のふたつに分類してしまうきらいのあるヤマトが、俺の寝汚さを怠惰や無能のあらわれではなく、単なる体質と見なすというのは、おどろくほど寛容な扱いだと思う。
 出会ったころを思い返していたこちらの内心を知ってか知らずか、ヤマトはちいさな笑い声を立てた。
「セプテントリオンと戦っていた時でさえ、朝は常に、他の者に起こされるまでは起きてこなかったようだからな。まったく、君の肝の据わり具合には恐れ入る」
「そう言ってもらえるのは光栄だけど、俺の場合は、ほんとうにそういう体質だってだけだよ」
 初めて己に並びうる人材だと見こんだ相手だからなのだろう。ヤマトは俺に対してだけは、何につけても採点が甘い。
 実力の正当な評価を至上とする彼の信条からして、それはどうなのだろうか。うれしいような困ってしまうような複雑な気分をおさえて、寝乱れた後ろ髪を手ぐしで梳いた。

 間もなくして音もなく止まった乗用車から、ヤマトに続いて歩道へと降り立つ。
 乗りつけた位置は、会議場であるビルの正面だった。歩く距離は、そこから建物入口のあいだにしつらえられた石畳の広場をつっきるだけ、体をほぐす足しにもならないほどのごく短いものだ。
「行くぞ、佑人」
 黒革のブーツのかかとを鳴らし、さっそうとヤマトが歩きだす。
 その背を見ながら車外の空気を吸いこんで、ひとつ伸びをした。座ったままの姿勢で固まっていた体が、ぱきりと音を立てる。
 ここ数日続いた大雨が上がって、ひさしぶりに訪れた気持ちのよい晴天だった。
 伸びのついでに空を見上げる。道路をはさむビル街の影に入っているため、日ざしが目を射ることはない。それでもなお目が痛くなるほどの、きれいな青だ。

 世界はすっかり変わってしまって、それでもその青さは変わらない。
 いや、むしろ、あの一週間以前の空よりもずっとあざやかな色合いをしていた。人の数が少なくなり、排気ガスが減ったせいだろう。
 ながめるうちに、黒いコートの背中が遠ざかっていた。追いかけようと踏みだしかけたところで、俺はふたたび足を止めた。
 ビルの角向こうから、民間人風の男女が数名ばらばらと走ってくる。なかには、ぐったりした子どもを抱えた年配の女性の姿もあった。気づいているのだろうが、ヤマトは足を止めることはもちろん一顧だにしない。
 代わりに、もう一台の車で同道していたマコトとその部下の数名が走って、彼らの進路に立った。人々はそこで引き止められ、なにかを訴えている。
 距離があるため、話の内容は聞こえない。気になって見つめる先で、暴力沙汰に発展しそうな気配もなくスマートに遠ざけられていく様子に、少し安心し、なんとも言えない気持ちになって、足もとに目を落とす。

 灰色のタイルを貼りあわせた歩道の上に浅く広がっている、透明な水たまりが目に入った。
 凪いだ水面が、鏡のように空の青を映しこんでいる。
 視線を上げられずにいるうちに、ふと、水鏡に映った小指の先ほどの黒い影に気づいて、俺は目をすがめた。
 なんだろう、と見つめるそばから黒点は大きくなる。次の瞬間、はっとして目を上げた。
 はるか上空から、かぎ爪のついた両脚を突きだし、落ちるように急降下してくる霊鳥の影。

 迎え撃っても間に合わない、思った時にはすでに体が動いていた。
 つまさきで地面を蹴る。三歩目で、前を行くヤマトの背に飛びついた。こちらへふり返る長身をなかば押し倒すように身を伏せる。
 さらした背中に、どんと重いものがぶち当たった。口から内臓がはみ出るような衝撃。ヤマトの、とっさに押しのけようとする動きを許さず、必死に腕をまわして体の下に囲いこむ。すぐ目の前で、灰色がかった切れ長のひとみが大きく見ひらかれた。
 呆然とさえ言えるかもしれないその色が、一瞬でぎらりと強い意志のひかりへと変わる。
 コートの隠しから抜かれたヤマトの手が、携帯端末を宙へかざした。
 次の瞬間、荒れ狂うひかりの奔流が、その魔力の顕現を背にした俺の視界をも染める。
 濡れて色を濃くした路面が真っ白に灼きつく中、うすい色の髪とひとみを閃光に透かしたヤマトの首すじに、ぽつりと赤い色が落ちた。
 一瞬、ケガを負わせたかと思ってから、ああと気づく。
 背中からあふれる血液が、うなだれたあご先まで伝ってその下にいる彼に降り落ちていく。うまく息が吸いこめない。急激なめまいと冷たいしびれが腕から全身に這い上がり、背中だけが、焼けつくような痛みを訴える。
「迫!」
 押し倒されたままの姿勢から、おどろくほどの声量でヤマトが指示を飛ばした。
「近くにアプリの使用者がひそんでいるはずだ、そいつだけは生かしておけ。この期におよんで我々に楯突くとは相当な愚か者どもだが、背後関係を洗う。……佑人、聞こえているか、佑人!」
 視界は暗く、五感が遠ざかりノイズ音のする耳もとで、大声で名を呼ばれる。
 背中を強くかき抱かれて、息の根止める気かヤマト、と思ったのを最後に、俺は意識を手放した。


 それから、集中治療室で目を覚ましたのが二日後の昨日。
 その時点で、すでに外傷は快癒していた(肋骨がばきばきにイっていただけで、脊椎の損傷がなかったのがもっけの幸い、だったらしい。意識がなくてほんとうに良かった)。
 元ジプスと民間から新たに編成された医療部門の先生たちからは、それでもなお体調が戻らないのは、悪魔の爪にひそんでいた病原菌に感染しているからだと伝えられた。吐き気と熱でもうろうとしながら聞いたその説明に、俺はなるほど、と言うしかなかった。
 まあ、ふつうの犬猫に噛まれた傷でも感染症があるくらいだから、これが悪魔と来た日には、どんな目新しい病気にかかったとしてもおかしくはない。

 養生以外にできる治療もないため、自室に戻らせてもらってから丸一日寝ても、いまだにこの体はウイルスと戦っているらしく、発熱が続いていた。
 すっかり寝汗でしめって熱のこもったシーツが、いいかげん不快だ。
 そうは思えど、全身がだるくてシーツの交換はもちろん、着がえるほどの気力もわいてこない。そもそも、絶対的に血が足りないのだ。
 寝台のそば、低めのワゴンに置かれた水差しの吸い口から、苦労しながら水を飲む。
 朝の食事を運んでもらった以後、部屋はしずかで何の気配もなかった。ただ、午前中のおだやかな白いひかりがブラインドのすき間から落ちて、自室の片すみをあたためている。
 ゆっくりと、のどに熱い息を吐きだした。
 この場にいないからといって、仲間たちがみな薄情だ、というわけではもちろんない。
 まどろむばかりの自分が目を覚ましていたごく短い間だけでも、一度オトメが来てくれたのをすぐに追い返した。ケガは治療してもらったのだから、あとは自身の体力の問題だし――万が一、彼女の幼い娘にでも正体不明の病原菌を移してしまった日には、俺には、もうどうやっても責任の取りようがない。
 なぜなら、たとえばささいな疾患一つであっても、その対象をこの新たな日常から振り落とすための足がかりへとつなげうるのだということを、もう誰もがわかっているからだ。

 俺も、わかっていた。ヤマトの望んだ明日は、つきつめれば、こういう世界なんだって。
 熱にうかされた頭で、ぼんやりと考える。
 じゃあ、わかったうえで、その理想自体を望んで選んだのかと問われれば、答えは―――


 その次に目を覚ましたとき、西日のあわい金色に染まる部屋には、なぜか多忙極まりないはずのヤマトが仁王立ちしていた。
 ひたいには、したたるほど水を含んだタオルのぬるい感覚がある。サイドテーブルには、小さな銀のたらいと脱ぎ置かれた白い手袋が見えた。
 たらりと垂れてきた水が、しばたいた目の中にまで入って大変うっとうしい。
「目が覚めたようだな、佑人。何か欲しいものがあれば言ってみたまえ」
 ベッドのかたわらで尊大に腕組みをしている相手に、ぼんやりと天井をながめて言葉を返す。
「欲しいもの……」      
 のどが痛い。風邪を引いたとき、母親に出してもらった記憶がふっとよみがえった。気づけば、口が動いていた。
「……ウサちゃんリンゴとか」
 けっこう不器用な人だった。いびつな耳を笑ったら、赤くなってふくれていた。
「ウサちゃんリンゴだな。わかった。お前が望むならば、すぐにでも用意させよう」
 ヤマトはそれがどんなものかわかっているのだろうか。真剣そのものな声音で復唱されて、なんだか笑いがこみ上げてくる。
「何なのだ、お前は。とうとう熱で頭がいかれたか?」
 不審そうなヤマトの声は、けれどその底に、案じる色を隠しようもなくにじませていた。
 おかしくて、くつくつと笑っていたはずの喉が、ふるえてひっと引きつった。

 何しに来たんだろうコイツ、と思っていた。
 立ち回りの不味さを叱責されるくらいのことはあるかもしれないが、今でなくてもいいはずだ。
 私のせいですまないとか、ありがとう君のおかげで助かっただとか、そういう、人づきあいには欠かせなくとも、実務には益することのないやり取りを厭う、ヤマトはそういう人間だ。その、はずだ。
 ―――いや、もうわかっていた。それが、自分の勝手な思いこみでしかなかったのだということが。

「一体どうしたというのだ、佑人」
「……どうもしないよ」
 ふるえる声で言えば、ヤマトの表情がくもった。
「私に嘘をつくな。君がそんな調子だと、私もどうしてやるのが良いかわからなくなる」
 それはこっちのセリフだよ、ヤマト。
 くやしくて、情けなくて、閉じた目の奥が熱くなる。

 支えあいなど不要だと笑うお前が、どうしたって孤独を選ぶというのなら、せめて俺だけでも支えたいと思った。選んだんだ。
 いまさら別の『可能性』に気づいて、でもいまや世界は、お前のかつての望みの通りになってしまってもう何も取り返しなんてつかないのに。
 かたく閉じたまぶたの向こうが、ふっと暗くなって、目を開ける。
 目の前にかざされたヤマトの手のひらを、落ちていく陽の最後のひとすじが赤く透かしていた。いつか、母親のほおを染めたそれと同じ色。人の身のうちを流れ、人の身から流された血の色だ。

 目尻に触れた冷たい指は、かすかにふるえてから、俺の目を濡らす液体を不器用にぬぐい取った。





Fin.

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