※【 fromool 】 のりんこさんとの、同じ設定でそれぞれ書いてみようというコラボ文章、その2。 なお、りんこさんによるすばらしい片割れはこちらです! → 『モスマンの風邪』 同じ企画作品である『夜の底で寄り添って』とは別時系列。同じく実力主義ED後、同様の事件が起こったのがヤマトが好意を自覚する以前だったらこうなってた、という話。 「ほい、これで今日の検査は終わり。お疲れさん、局長」 気のないねぎらいの言葉を受けて、ヤマトは椅子から立ちあがった。手を伸ばし、頭部に複数貼りつけられていた電極を取り外していく。 「では、菅野。お前の所見を聞こう」 脳波計へとつながるコードを簡単に束ねながら、ノート型PCの画面に目を落としているフミへと問えば、あからさまな生返事が返った。 「ん〜、そうだなあ……」 キーボードを叩き始めた相手を急かすことなく、ヤマトは置いてあったミネラルウォーターに口を付けた。 日没が間近に迫り、摩天楼の足下はもはや陰に沈んでいるだろう時間帯だ。だが、ビル群のなかでも飛び抜けた高さを誇るジプス本局、その高層に位置する自室の、普段ならまだ十分に明るい窓辺には今、厚く帳が降ろされている。 加えて照明も落とされた室内で、唯一の光源であるPCのバックライトがフミの白い面と首すじを青白く浮かび上がらせていた。 ふっと、その表面に燐光を映した黒いひとみがヤマトの方へと向けられる。検分するようにこちらを見つめたあと、フミはゆるやかに息を吐いた。 「ま、ヤマは越えたってところかな。発症直後から比較すれば、徐々に正常値に近づいてきてる。局長にちょっかいかけたヴァンパイア本体は既に消滅してるわけだし、もうあと数日もすれば復調するでしょ」 そこで、ふと思い出したようにフミは付け加えた。 「あ〜、ただ、今晩だけは気をつけたほうがいいよ。局長も重々承知してるとは思うけど……」 ちらりと、ヤマトは窓のほうへと視線を投げた。あと半時もすれば、遮光カーテンの向こう側に真円を描く月がのぼる頃合いだろう。 「なるほど、確かに、月齢は悪魔どもの行動を規定する要素の一つだな。だが、私は悪魔ではない。人間だ」 「まったくもってその通り」 フミがかるく肩をすくめてみせた。 「ていうか、半月近く『食事』抜きで、ここまでまともに理性を保てる精神力は逆に人間離れしてると思うけどね。武士は食わねど高楊枝ってヤツ?」 「戯れ言を……そもアレらのおこなう吸血行為の本質は、種の保持……仲間を増やすための手段であって、血液摂取によって得られる生体マグネタイトはあくまで副次的な要素に過ぎん。元より、生存に必須となる行為ではないのだ」 「いちいちごもっともなんだけど、ん〜、コレ、言っといたほうがいいのかな」 めずらしく言葉をにごした相手に、ヤマトは片眉を上げた。 「何だ、菅野。言いたいことがあるなら言ってみろ」 片手でPCの電源を落とすと、フミはもう片方の手でこめかみを掻いた。 「あのさぁ、局長。アイツに、この部屋の扉の解除キー渡しちゃってたよね?」 脈絡のない問いに、思わず眉をひそめた。部屋の主である自分以外で自由に出入りができるよう設定してある人間は一人しかいない。 「……佑人のことか? 彼が持っているIDカードには、マスターキーとしての機能を付与してあるが」 「だよね〜……じゃ、どうしようもないか」 あっさりとあきらめた様子で、フミは立ちあがった。PCを載せたストレッチャーに手を掛ける。 「何が言いたいのだ、お前は」 「いやね、局長ずっとここにこもりっぱなしでアイツに会ってないっしょ? で、容態を聞かれたから教えてやったんだけど、正直言い方をマズったかなって」 ああ、とヤマトは嘆息した。 「彼は他人を気に懸けるのが趣味のようだからな。この通り、大事ないと伝えたのではないのか?」 「ま、今回はそればっかりでもないんじゃない、自分が一緒にいて局長にケガさせた〜とかフツーにアイツが気にしそうなシチュエーションだしさ。……それはともかくとして、もちろんピンピンしてるって答えたら、様子を見に行っていいかって聞かれたんで、今晩はよしといたほうがいいよとも言った」 「それで?」 「なんでって聞かれたから、理由を説明した」 続きを待ってヤマトは沈黙を守ったが、フミの説明はそこで終わったようだった。 問いかけを込めて視線を強めれば、フミは苦笑を浮かべてかぶりを振る。 「これでも心配してるんだよ、アタシ。局長のことも、ユウトのことも」 含みを持った物言いに、ヤマトは顔をしかめた。 「特に、業務に支障が出ているという報告は受けていないが」 「そりゃあもちろん。ただアタシ個人としては、今日は早いとこ仕事を切り上げて、無理してでもさっさと就寝するのをオススメするね」 ストレッチャーを押しながら部屋を出たフミの背後で、扉が閉まる。あーでもそれはそれでマズイかな、などとますます意図の読めない台詞が聞こえたのを最後に、室内は静寂と暗闇に包まれた。 ボトルのミネラルウォーターを飲み干して、ヤマトは息をついた。濡れた口もとを指でぬぐう。 もはや耐えがたいほどの乾きだった。思考の輪郭がぼやけて、気づけば目が手にした書面を上滑りしている。 眠気はまったくなかったが、フミの忠告通り身体だけでも休めた方が無難かもしれない。 書類を片手に、寝室へとつながる扉を開けた。こちらも灯りは落としたままだったが、夜目の利く今は不便を感じることもない。ヤマトは冷えたシーツに腰を下ろし、大きく息を吐きだした。 横になるか、きりの良いところまで目を通すか。そんなことも即決できないレベルにまで思考能力が落ちているのであれば、やはり切り上げるべきだ。 簡単に尻をそろえた書類をサイドテーブルに置いたところで、インターホンが鳴った。ちらりと時計に目をやれば、深夜に近い時刻だ。 手を伸ばし、ベッドのすぐ横に据えつけられた内線を取る。 『ヤマト、俺だけど』 久しぶりに聞く声だった。言葉が嗄れたのどに引っかかる。 「……ああ、佑人か。何の用だ」 『用っていうか……ええと、ごめん。とりあえず、そっちに行くから』 何、と問い返そうとした時には、インターホンの向こうで扉のロックが解除される音がした。 唖然としながら、ヤマトは内線を切った。確かに彼はこの部屋に出入りする権限を持っている。それでも、こちらの意向を確認せずに入ってきたことはこれまでに一度もなかった。 立って出迎えるべきかを考える間もなく、隣の部屋の灯りがついた。こちらへ歩いてくる足音がする。 半開きになっていた扉からさしこむ灯りを、その前に立った人影がさえぎった。 「……佑人?」 なかば疑うような思いで、その名を呼ぶ。 するりと入ってきた彼は迷いのない足取りで、寝台に腰を下ろしたヤマトの前に立った。立ちあがろうとした肩を、その両手が押しとどめる。 「ああ、座ってていいよ、ヤマト」 すでに入浴を済ませたのだろう。よく見かけるハイネックにパーカーの合わせではなく、自分と同様、自室でくつろぐような恰好だった。襟付きの白いシャツのボタンは二つめまで外され、大きく開いた襟ぐりから、鎖骨のくぼんだ影までもが見て取れる。 努めてゆっくりとした動作で、ヤマトは肩をつかむ手を外させた。 「さて……お前のしでかすことにしても、いささか不作法だな。こんな夜更けに押しかけたのだ。よほどの用件なのだろう?」 言外に、そうでないのならば帰ってくれという意図を込めて告げれば、彼は否も応もなくこちらを見つめ、それから口を開いた。 「フミから聞いた。この半月、お前が飲まず食わずで相当キツイ思いをしてるって」 ヤマトは片眉を引き上げ、苦笑を作ってみせた。 「その言い方には語弊があるな。まず、水分は摂っている。確かに食事はしていないが……そちらは、悪魔の概念から多大な影響を受けている今の私には必要のないものだ」 「必要なものは他にある、……そうだよね?」 問いかけのかたちを取りながら断定するようなその口調に、煙に巻かれる気はなさそうだと悟ってため息を吐く。 「菅野は、こうも言わなかったか? だから、私には近づくなと……特に、今晩はな」 うなずいた彼に、ヤマトは叶う限りの忍耐をかき集めて、平静な声で言葉を継いだ。 「ならば、出て行ってくれ。案じてくれる気持ちはありがたい。だが、君がいてくれてもこればかりはどうにもならんのだ。このようなことを言いたくはないが……むしろ、いたずらに飢えがかき立てられるだけなのでな」 「ヤマトがそこまで言うってことは、本気で苦しいんだろ」 彼が眉根を寄せる。心底から案じているその様子に、わかっているのなら、と思わず荒げそうになった声を飲みこんだ。乾きはつのり、一刻も早く彼を追い払いたいという焦りで気は急くばかりだったが、ここで醜態を見せれば、彼はますます態度を硬化させるだろう。 「……苦痛がないと言えば、嘘になるな」 ふるえそうな指をにぎりこみ、できる限り息を静かに整えてから口を開く。 「だか、お前は考えたことがあるか? なぜ人は、食い、眠り、交わることから快を得るのか」 ぱちりと、彼がまばたきをした。首をかしげて考える様子の後で、答えを返してくる。 「それは……それがみんな、生き物にとって必要なことだからだと思うけど」 ヤマトはうなずいた。 「さすがに聡明だな。そうとも、快楽とは、個体が己と種の存続に必要なものを追い求めるよう誘導するための餌に過ぎんのだ。だが、生物は時に、己を最適化するためのしるべを目的と取り違え、挙げ句の果てに自らの身を損なうことさえある」 ひりつくのどと込み上げる衝動に、一度歯を食いしばる。 「……その中で唯一人間だけが、理性によってその肉体的な欲望を制御しうる……無価値な行為にふけることなく、自らに真に必要なものだけを選び取ることができるのだよ。返して言うなら、それができず欲望のしもべとなって生きるのならば、それは獣と変わらん生き様だろう。いや、無為に同胞の血肉をすするなど、畜生にも劣る」 ヤマトの言葉を聞いた彼は眉を下げ、その表情をくもらせた。 「言いたいことはわかるよ。でも、おいしいとか気持ちいいとか、みたされること自体は、別に罪悪感持たなきゃいけないようなものじゃないだろ。価値があったってなくたって、それはそこにあるんだから……無理やり否定して、必要以上の辛抱で苦しい思いをするのは本末転倒なんじゃないの」 「まったくもって、お前は口が達者だな」 ともすれば声音ににじみそうな餓えを、ただの不興と聞こえるようにヤマトは声を低くした。 「おおかた、今回の件に責任を感じているのだろうが……はっきり言っておこう。これは私自身の失態であって、お前には関わりのないことだ」 口に出して認めれば、なおさら苦々しい思いが胸を突く。ヤマトは、今は手袋を外して肌を晒している利き手で左の手首をにぎり込んだ。 そこには小さな赤い噛み傷が残されている。それは、ジプスの局員さえその牙にかけるほどの被害を出した悪魔に対し、自ら指揮を執って討伐に当たった際に負ったものだった。 深い霧のわだかまるオフィス街は、悪魔の逃亡を防ぐために構築した数百メートル四方の結界に包まれていた。そのために手間を掛け、地脈の強い地まで誘いこんだのだ。 万魔の槌に打ち据えられ、苦しげに地へ膝をついた黒衣の娘――そのような姿を模した悪魔の輪郭がぶれた。小さなコウモリの群れとなり、はじけたように四方へと飛び去っていく。 「フン、無駄なあがきを」 ヤマトは、口もとに嘲笑を浮かべた。 「結界が生きている限り、どこへも逃げられはしない……その程度のことを理解する知性は持っているはずだと思ったが」 携帯端末を宙へとかざす。広範囲を覆う神の炎が渦を巻き、散ろうとしたそれらへ襲いかかった。群れなす影が、白い光に消えていく。 だが、通常のそれよりもさらに範囲を広げた分、術の効果にムラが出たのだろう。光と熱の渦から一匹が逃れでる。ゆらぎうずまく霧を裂いての飛行、とっさに目を走らせたその先には、結界の維持を任せた人間が――佑人がいた。 その軌道に割り込んだのは、ほとんどただの反射だった。片手で、矢のように飛翔する悪魔をつかみ取る。そのままにぎりつぶそうとしたヤマトの手首の動脈に、コウモリの小さな牙が食いこんだ。 「チッ……!」 とっさに、炎を喚んで己の拳ごと悪魔を焼き払う。肉の焼ける異臭に、後方の彼が驚愕の声を上げた。 「ヤマト!」 「……今度こそ、仕留めたか」 焼け焦げた悪魔は、羽根を一、二度ふるわせ、動かなくなる。その次の瞬間、白い灰となってそのまま空気に溶け消えた。 「お前、手は」 背後からのこわばった声に、無事なほうの手のひらを向けた。 「大事ないさ。お前はそこを動かず結界の維持を続けてくれ。悪魔は滅したはずだが、念のためだ」 駆けよってきたマコトが、だらりと垂らした腕を取る。 「何てことを、局長……今、治療します!」 腕をあずけたまま、その血の気を引かせた様子にヤマトはためいきをついた。 「この程度の手傷でうろたえるな、見苦しい。見ての通り、筋まで達する熱傷ではないぞ」 施された術で、赤黒くただれた火傷はみるみるうちに回復していく。やがて治療を終えた己の腕を見て、ヤマトは思わず眉をひそめた。マコトが固い声を出す。 「局長、これは……」 「フン、死してなお消えぬとは、執念深いことだな」 わずかな赤みを残したほかはすっかり健常な皮膚を取り戻した手首の内側には、一対の牙の痕が残されていた。 「……こちらの後処理は私が。局長は先にお戻りください。専門の医療スタッフを手配しておきます」 険しい表情でその傷を見つめていたマコトが、言うが早いがあわただしく走り出す。その背を見送って、ヤマトはふたたびため息を吐いた。背後へとふり返る。 「聞いての通りだ、佑人。私は戻るが、迫のフォローを頼めるか」 霧の向こうからじっとこちらを見つめていた彼がうなずき返した。 「わかった。ここは引き受けるから、ヤマトは……」 その声音に案ずる気配を見て、ヤマトは口の端をゆがめた。 「やれやれ……お前まで私の心配か?」 「当たり前だろ、そんなの!」 彼が語気を強める。めずらしいそれにまじまじと見つめ返せば、彼がはっとした様子を見せた。ばつの悪い声で小さく、悪い、と口にする。 「それより先に、言うことあるよな。……ケガさせてごめん。お前のおかげで助かった」 「礼など……」 率直な言葉に己の行動を定義づけられて、思わずヤマトは眉を寄せていた。 「そんなものは必要ない。……では、後は任せたぞ」 それから間もなく現れた変調のため、治療を担う人間以外を閉め出した私室に執務の場を移してから、はや半月が過ぎようとしていた。 今でも、何故、と思う。 あの時あのまま襲われたところで、彼ならば万が一にも結界を損なうことなどなかっただろう。 結果として多少の傷を負ったとて、大事に至るようなこともまたあり得なかった。彼の実力を自分は十分に理解し、信用していたはずだ。 そうであるはずなのに、何故自分は、あえて彼をかばうような行動を取ったのか。 己の行動が理性の範疇に収まらなかった、そのことは、もたらされた不調とともにいらだちとなって身のうちにくすぶり続けていた。 「……そうじゃない」 半ば己の思考のうちに入りかけていたヤマトを、小さく、けれどはっきりとした声が引き戻した。 「俺のせいだからとか、そういうことじゃなくて、ただ俺は……」 彼は息を吸い込むと、下唇を強く噛み締めた。その唇に、ぷつりと赤い血が玉を結ぶ。身がふるえるような芳香が、ヤマトの鼻先をくすぐった。思わず大きく息を飲む。 「っ、佑人、お前、何を……」 彼の行動は速かった。のぞかせた舌でくちびるをなぞったかと思うと、寝台にかけたまま動けずにいたヤマトのあごを取る。 彼はその背をかがめ、血のしずくを含ませるようにくちびるを押しつけた。さらに同じものをまとわせた舌先を、ヤマトの口内へと突き入れる。 からんだ舌に、これまで覚えたことのない甘露が触れた。 火花が散るように、思考が白く焼き切れる。 ごくりとのどを動かす。そのわずかな液体を飲み下したとたん、しびれるような甘い感覚が腰から背骨をつたって駆け上がる。 くちびるをふさがれたまま、ヤマトはうめいた。とっさにはねのけようとした腕を引かれ、さらに合わせが深くなる。 甘く、かぐわしいものが流れこんでくる。指先がかっと熱を持った。ふるえる腕がゆっくりと動いて、引かれるように彼の背中へとかかる。 そこから先は、もはや正気の外だった。 寝台にかけた姿勢のままで首を伸ばし、何度も、前に立つ彼のくちびるを舐める。舌を這わせ、甘く噛み、にじむ体液をすすっているうちに、血の混じった唾液がそのくちびるの端からのどもとまで、ひと筋の流れとなって落ちていく。 それを追うように、ヤマトは彼の首すじへと舌を伝わせていった。 くちびるに、肌の下を流れる血脈が触れる。いっそう強くなる甘いにおいに、ヤマトはたまらず大きく口を開けた。ちろりと舌先で舐めてから、牙を食い込ませていく。 上体を折らせるようにして抱きすくめていた身体が、腕の中でびくりと跳ねた。 「………ッ」 押し殺された声が耳をくすぐる。恍惚とした心地で息をつき、さらに深く突きたてる。すすり上げた彼の血は、これまで口にしたどんなものよりも甘く、ヤマトに酩酊をもたらした。 ほそい息を吐きながら、彼がずるずると崩れて床にひざをつく。ひざを広げたヤマトの脚の間で、今度は自分より下になった彼のあごを上げさせ、そののどもとへとふたたびヤマトは顔を埋めた。 彼の首を吸うたびに、その背がのけぞり小さく跳ねる。ふるえる腕が、ヤマトの後ろ頭をかきいだいた。 「あ、あ……」 甘くあえかなあえぎが、彼の口から漏れる。ほんの数分、それとも数十分か。ヤマトが息を吐いてその首すじからくちびるを離した時には、彼はぐったりとヤマトにしなだれかかり、その腕もだらりと垂れて力を失っていた。ヤマトが腕から力を抜いたとたん、ふらりとその上体がくずれて、元よりへたりこんでいた半身に合わせて床へと倒れこむ。 引かれるように、ヤマトも寝台からひざを落とした。上体をうつぶせた彼の上におおいかぶさる。 「佑人……」 熱にかすれた声でその名を呼ぶ。ひくりと彼の身体がふるえた。床に両腕をついてヤマトの下から抜けだそうとするのを、その背に体重をかけて押さえ込む。彼の熱い身体が、腹の下で何度か跳ねた。 「……っあ」 手を伸ばし、ふるえるくちびるの間に親指を突き入れる。舌の上をぐりぐりと指の腹でこじれば、小さく悲鳴じみた声が上がった。 濡れた指を引き抜き、のけぞるのどをたどる。うなじにまとわりつく髪を鼻先でかきわけるようにして、その肌に口づけ、ゆるく牙を立てた。今度彼が漏らした吐息は、かすれて、とまどいを帯びた甘いものだった。 「あ、……ヤマト……」 気づけば、牙の代わりに舌を這わせ、吸いあげていた。その肌に情痕のような鬱血が散る。そのたび彼は感じ入ったように小さな声を上げて、組み敷いた身体が跳ねる。 おかしい、と思うだけの思考は、まだヤマトにも残されていた。 自分も彼も、明らかに常の状態ではない。そうとわかっていても、堪えがたい衝動に目眩がする。 「佑人……」 自分の下で荒い息をついていた彼が、囲った両腕の間でわずかに身体をひねった。うすく水の膜が張ったひとみがこちらを見上げる。 「佑人、君が欲しい」 その目を見た瞬間、なかば無意識にヤマトはそう口にしていた。 彼がゆっくりとまばたきをした。すうっとひとすじ、そのほおに涙が伝う。 「……うん」 熱に浮かされたような表情で、彼はうなずいた。 「うん、いいよ……俺も、ヤマトが欲しい」 いけない。彼も私も、悪魔の影響に支配されているだけだ。理性はそう訴える。 彼がひねった身体で伸び上がり、ヤマトに顔を近づけた。熱っぽいひとみが間近で閉じられ、そのあたたかい吐息を吸った瞬間、ヤマトは彼のくちびるへと衝動的に口づけていた。舌をからませ、吸いあげる。 「ふっ、……ん、んん……っ」 ぴちゃりと水音がして、くぐもった声が彼のくちびるの端からこぼれ落ちる。さしのべられたうすい舌を食み、やわらかくぬめるそれに、たまらずヤマトものどを鳴らした。 しばらくおたがいの舌を吸ううちに、無理な姿勢で息が上がったのだろう、ずるりと彼の身体が崩れた。床に腹這いになって、はあはあと短く息を吐いている。その上にヤマトはのし掛かった。やわらかな耳朶をくちびるで挟み込み、耳の後ろの皮膚に舌を這わせながらその身体をまさぐる。 のけぞるのどをなぞれば、指の下で、子ネズミのような速さの脈が打っていた。もう片方の手で、スラックスからシャツの裾を引っぱり出す。あらわになった背中を、脇腹を撫でさすると、彼は小刻みに身体をふるわせた。 そのまま、スラックスの中に手を入れた。身体の下で、彼が息を飲む気配がする。 なめらかな肌をなぞる。骨の流れに添って滑りおろした指がすぼまりに引っ掛かかったところで、ヤマト、とふるえる声で彼が自分の名を呼んだ。そのまま指先を浅く潜らせてみれば、弾力のある手応えが押し返してくる。 何度かそれを繰り返し、息を詰めている彼の上からヤマトは身を起こした。 「ヤマト……?」 伏している姿勢から、彼が首をひねってちらりとこちらを見上げた。その腹に腕を回して抱え上げる。力任せに引き上げて、寝台の上へと転がした。 大きく息をついて、自分も寝台に上がる。 薄明かりに白く浮かぶシーツの上で、彼はほおをほてらせ、ゆっくりと呼吸をくり返していた。 さきほど、無我夢中でくちびるを合わせた時をのぞけば、これほど近くで彼の顔を見つめたことなどなかったように思う。 ほそめられたひとみが、まぶしげにこちらを見上げる。光源は、ヤマトの背後、半開きになった扉から差し入る隣室の灯りだけだ。夜目の利くヤマトには彼のふるえるまつげまでもが見て取れたが、相手からすれば逆光だろう。おおいかぶさる自分は、輪郭だけを光らせた影のように見えるのかもしれない。 ふるえそうな息を押さえて、ゆっくりと問いかける。 「私が何をしたいと思っているのか、もうわかっているだろう。本当に、いいのか」 彼は、ほほえむとも泣きそうになっているともつかない顔で、その表情をゆがませた。 「俺は、もう返事したつもりだったけど。いいよ、お前なら」 ヤマトが起き上がって乱雑に着衣を取り払っているうちに、彼も仰向けになったままで蹴り落とすように下を脱いでいた。うまく動かないらしい指でシャツのボタンを外しているのを横目に、サイドボードから、ふさがらない手首の噛み傷の保護に使用している軟膏を取り出す。 「佑人、脚を」 こちらに注意を向けさせてから、ようやくシャツをはだけた彼のひざ裏に手を入れて、両ひざを立たせる。目のやり所に迷うように、彼が片ほおをシーツにつけた。 軟膏の蓋を開けると、指先ですくい取った半透明の油脂を手のひらに移し、利き手の指へとすり込んだ。彼の腰の下にクッションを押しこんでから、もう一度指を添わせる。 「力を抜いていろ。できる限りのことはする」 うなずくように、かすかにその頭が揺れた。触れたところを何度かなぞってから、ゆっくりと差し入れていく。 ひゅっと彼が息を飲んだ。今度はさほどの抵抗もなく、人差し指が半ばほどまで飲みこまれる。 指で感じる彼の内部は熱かった。油脂が溶けて、ぬるりとすべる。たしかめるように、その粘膜を指の腹で撫で、かるく押してみる。 「………っ、ふ」 小さく、彼が息を漏らした。かわいたくちびるを舐めて、ヤマトは蓋を開けたままだった容器に、彼の脚を支えていたほうの手を伸ばした。そちらで大きく軟膏をすくい取りながら、もう一本、入れ込む指を増やす。反射のように力の入る内部を二本の指を開くことで押し広げれば、彼ののどから苦しげな音が漏れた。 「少しこらえていてくれ」 短く言って、開いた指のあいだに、もう片方の手指に取った油脂を詰めこんでいく。 冷たい感触と内から押される違和感にだろう。時折、ぴくりと彼の腰がふるえた。何度か継ぎ足してから、ゆるめに練られたそれをなじませるようにかきまわし、内壁へとすりこむようにする。 そうしているうちに、温まって溶け出した油脂が混ざってとろりとした手触りに変わっていった。大きくかき混ぜれば、粘性の高い水音を立てる。 ますます顔をシーツに埋めていく彼の表情は、そのほおにかかる長めの髪も邪魔してわかりづらい。ふわふわしたくせっ毛の合間からは、じわじわと血の気を上らせる耳のふちがのぞいている。 「まだ、痛みがあるか?」 中を探りながら問えば、ゆっくりと息を吐く気配のあと小さく首を振られた。 「だいじょうぶ……、っ!」 ふいに、彼が息を詰まらせた。その痩身も合わせたように跳ね上がる。触れていた箇所をくりかえしヤマトがなぞれば、うわずった吃音がつづいた。 「ヤ、マ……あっ……う、くっ」 のどをのけぞらせる彼の声色は、首を噛まれていた時に似て、快感を得ている者のそれだった。 いや、似ているというよりまさにその延長なのだろう。犠牲者に、悪魔に捕食されることを望んで受け入れさせるための、感覚の歪曲と鋭敏化。だからこそ、内側を触れられたことなどないだろう彼がこれだけの反応を見せている。 「あ……っ、ヤマ、ト……ッ」 彼のかたく閉じられた目尻に、うっすらと涙が浮かんだ。ゆるく噛みしめられたくちびるに、またじわじわと赤いものがにじむ。 いまだ残り火のようにくすぶる血への衝動よりも、なだめるような気持ちでその口もとに舌を這わせた。 「ん、んっ……」 彼が甘くのどを鳴らした。くちづけを交わしながらぬるつく指を出し入れすると、じゅぷじゅぷと空気と混ざるような音がして昂揚をあおる。 「……っ、佑人……」 口を開けば、熱い息が漏れた。彼がうっすらと目を開けてこちらを見上げる。 ずるりと指を引き抜いた。ゆるんだそこに、すっかり形を変えていた自分の先端をあてがう。あふれた油脂のぬるりとした感触に触れて、ヤマトは思わず息を詰めた。 ヤマトの下で、彼も一瞬身をこわばらせてからゆるゆると息を吐いた。その全身から、意識的に力が抜かれるのがわかる。 彼の腰をつかんでゆっくりと身体を進めていく。ひそやかな水音と、互いの短い息づかい。熱くぬるついた粘膜に包まれて、ヤマトは小さくうめきを上げた。 腰が触れあうところまで入りこんで、いったん動きを止める。息を整えながら彼の様子をうかがっていると、大きく胸を上下させた彼が、ヤマトの後ろ首へと手をまわした。 「ヤマト……も、動いて、いいから……っ」 じれたように身じろぎをされ、たまらずヤマトも腰を動かした。なじませるような動きが、彼の身体が揺れるほどの注挿に変わるまでにはいくらもかからなかった。 組み敷いた彼の口から、あ、あ、と小さなあえぎ声が上がる。その声と同じくらいやわらかく溶けた熱い肉をかきまわす。 心臓がどくどくと打って、こめかみにまで鼓動がひびいている。自分の荒い息づかいが耳障りだった。 見下ろす先でほおを紅潮させ、身体をふるわせている彼のことしか考えられない。 突き上げながら、立ちあがってとろとろと濡らしている彼のそれを自分の腹でこするようにすれば、ひときわ高い嬌声が上がった。 「ひあ……っ!」 彼のほうからも、腰を浮かせてぐいぐいと押しつけてくる。熱に浮かされた表情で、彼がねだるように言葉をつむいだ。 「ヤマト、ヤマト……っ、そこ、きもちい……」 手を伸ばして、互いの身体の間でゆれるものに指をからめれば、弓のように彼の背中が反った。シーツの表面を掻いたつまさきが、敷かれた生地にしわを寄せる。 「あ、やっ、やあっ……!」 とろけた声音に、言葉の通りの拒絶の色はない。薄い腹がひくひくとふるえ、そのたびに、その内側も蠕動する。低く、ヤマトはうめいた。 「っ、く……佑人」 「あ、あっ……奥、きて、……っふ、あっ、あっあっ」 気持ちよさそうにあえぐ彼に、たまらなくなる。もっと声を聞きたい。その奥深くまでまさぐり、舐めて、いじって、自分だけで彼の五感すべてを埋め尽くしてしまいたい。 入る限りの奥まで突き入れて、そのままのけぞる彼に覆いかぶさり、舌を吸った。 くぐもった声が、くちびるの間から漏れる。その呼気すら吸い尽くすような強さで口をあわせたまま、腰を揺らす。彼の脚が幾度か跳ねて、不随意にその全身の筋肉が引きつった。 腹に彼の飛沫がかかる。ぬるつく内側に引きしぼられ、引きずられるように、ヤマトも己の欲を吐きだしていた。 彼の上に身体を投げ出したまま、ヤマトは大きく息をついていた。両手両足の指の数ほどの呼吸の後、自失からようやく立ち戻って、けだるい身体を起こす。 「ん……っ」 引きずり出される感覚に彼が小さくうめいたが、それ以上の動きはなかった。ぐったりと目を閉じて、荒い息を繰り返している。見たことのないほど弱々しいその姿に、ヤマトは胸を突かれた。 理想を分かち合い、手に手をたずさえ、夢を共にした相手だった。誰よりも自分に近い高さで、おもねることなく力を貸してくれていた彼のこれまでに――自分の返した報いがこれか。 「……すまなかった」 たまらず口を突いて出た言葉に、彼がうっすらとまぶたを上げる。先ほどまでの熱の余韻を残したひとみが、問いかけるような色を帯びた。 「わたしは……私は君に、こんな仕打ちをしたかったわけではない。そのはずだ」 思わず片手で目元をおおえば、その手の上に触れる感覚があった。 「泣くなよ、ヤマト」 「……泣いているわけがあるか。私を何だと思っているのだ、お前は」 「あー、悪い。冗談」 ふざけた言い様に、さすがに手を外して抗弁すれば、ヤマトの手にその指を触れさせていた彼がゆるやかな苦笑を見せた。はっとしてヤマトは首を振った。 「いや、詫びていたのは……謝罪すべきはこちらだったな。私は、お前の矜持を踏みにじるような真似をしたのだから」 「キョージって。あいかわらず大げさだなあ、お前……」 あきれたように、シーツの上で彼がのどを反らした。 「別に、気にしてないよ。そりゃまあ恥ずかしくはあったけど、女の子じゃないし、何でもない。ていうかまず、最初にあおるようなことしたのは俺だし」 「始まりはどうあれ、私が欲望に囚われお前をむさぼったという事実に変わりはない」 ガンコだな、とつぶやいた彼のまなざしに、あきらめのようなどこか寂しい色がよぎった。 「あのさ、ヤマト……そんな、思いつめるなって。俺は、お前に謝られるようなことされたとか思ってない。……でも」 ゆるく、彼が息を吐きだした。 「お前がそれでも受け入れられないっていうなら、今晩あったこと全部、俺は忘れるから。だから、お前も、忘れていいよ」 「しかし……」 さえぎるように、彼がその両腕を顔の上に引っ張り上げた。 「……ごめん。さすがに疲れたから、ちょっとだけここで寝てっていいか」 ヤマトの返答を待たず、彼はころりと転がってこちらに背を向けた。伸ばした腕で、足下にわだかまっていた掛布を引き上げその身に巻きつける。 黙って見つめているうちに、数分もすれば、彼は寝息を立て始めていた。 半分をシーツに埋めたその寝顔を見つめて、ヤマトはゆっくりと息を吐きだした。 そうして、己の裡へと問いかける。 ただ一度きりの交合だ。……そうでなければならない。 では、あの声を、表情を、彼のすべてを己のものとしたかのような昂揚を――互いが互いを埋め尽くすような満ち足りた感覚を、果たして私は、忘れ去ることができるのだろうか。 しんと暗い寝室には、彼の寝息だけが落ちている。 答えは得られぬまま、その目尻に残った涙のあとに、ヤマトはそっとくちびるをつけた。 Fin. |