■  殉情  ■



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 開けはなした窓から、月の光が降りそそぐ。
 暗い部屋の中で、窓辺に立つ天使の輪郭ばかりが淡くかがやいていた。
 フェインは寝台に深く腰を掛けたまま、しばらくの間、ぼんやりと彼女を眺めていた。
「……フェイン」
 強い意志のこもった声が、静寂をやぶる。
 フェインは、一つまばたきをした。視点が定まったとたん、ひたりとこちらを見つめるうすい色のひとみと視線が合わさる。
「あなたに、伝えたいことがあって来ました」
 天使が、光のなかから、フェインを包む薄闇へと一歩足を進める。
「今さら……何を言うことがあるというんだ?」
 先んじて投げた言葉に、天使のまなざしは揺らがなかった。
「命を捨てることが、彼女への償いとなるなどと……ほんとうに、そんなことを信じているのですか? あなたは、間違っています。フェイン」
 真摯で、澄んだひびきだった。フェインは天使から、むりやり視線を引きはがした。
「……間違っている、か」
 そのまま見つめあっていれば、ついにはその言葉の正しさに組み伏せられてしまいそうな、恐ろしいまでの力がそこにはあった。
「まったくもって、君らしい台詞だな。だが他に、どう償えるというんだ……」
 暗い床へと、目を落とす。フェインは、苦く笑った。
「……俺は」
 愛する妻の死を受け入れられず、彼岸から連れ戻すというもっとも愚かな方法で、その魂を悪魔に捧げてしまった。
 もうほんとうに自分には手の届かないところへ逝ってしまったセレニスに……同じ場所へ赴く以外の、どんな償いがありえるだろう。たとえそれが、天使の示す摂理に外れていようとも、だ。
「フェイン、私は……」
「……どんな大義も、聞きたくはない。この世界で何をしたところで、セレニスの救いになりはしないのだから」
 重い静寂のもと、どれほどの時が経ったか。窓からすべりこんだ風が、ざわざわと天使の羽根を揺らした。それと重なるように、小さく息を吸いこむ音がする。
「……天使として、私はいくつもの答えをもっています」
 ひそやかなささやきが、沈黙を破る。
 彼女の常ならぬ気配に、フェインはわずかにまなざしを上げた。にぎりしめられた指が、手のひらにかたく爪をくい込ませているのが目に入る。
「ですが、あなたがそう言うのならば、そのうちのどれでもなく……『私』としての思いを答えとしましょう」
 フェインを見つめているのは、すでに天の遣いではなかった。ただ、まるで自分自身の言葉に怯えるようなひとりの娘が、そこにいた。
「あなたを失いたくないのです。世界のためでなく、天使としてでもなく……私は」
 天使が、ゆっくりとその腕を伸ばしてくる。思いつめた色のひとみが揺れていた。
「私は、あなたを……」
 ほそい指の先が腕に触れかけ、とっさにフェインはほんのわずか、身を引いていた。
 息を飲む音が、はっきりと聞こえた。
 しばらくの沈黙の後、天使は、すこし悲しげにほほえんだ。
「フェイン。私は……あなたという勇者を、必要としています」
 別の何かを天使が告げようとしていたと思うのは――そして、代わりに告げられた言葉さえ、自分を追いつめないためのやさしさだと、そう思うのはうぬぼれだろうか。
 フェインは、こみ上げる胸の痛みに耐えかねて、目の前の天使を引きよせた。
 その髪に振りまかれた月光がこぼれて落ちる。ゆるく抱きすくめた身体からは、かすかに花の香りがした。
「……すまない」
 口をついて出た言葉は何を詫びてのものか、自分でもわからなかった。その身を抱きしめたことか。彼女の想いから逃げたことか。それとも、何も返せないことか。
「あなたとともに行けるならば……私は、他には何も望みません」
 腕の中で、天使の声はひどくおだやかだった。




◆       ◆       ◆




 空はよく晴れていた。
 フェインは、見晴らしのいい崖の上に立ち、眼下に広がる土地を眺めた。かつては農耕地だったはずの荒れ地にはいまや石くればかりが目立ち、わずかに残った土壌を削りとって、風が白い砂埃を巻き立てている。
 旅のうちに見た復興の歩みは、苛立つほどに遅々としていて、もどかしい。
「……これが、本来のありようなのだな」
 己に言い聞かせるために、フェインはつぶやいた。
 かつて、勇者として戦っていた混乱の日々。あのときは、世界を守護する存在があった。
 悪魔とともに、守護者もまた去り―――この地にはもう、人智を越えた助力も、奇跡もありはしない。
 人の力のみですべてをやり遂げる。それは苦役でも何でもなく、ただ、世界があるべき姿に戻っただけのことだ。だが、そうと知っていてなお、正しき世界に馴染みきれていない己がいる、その自覚があった。
 世界の守護を、求めているわけではない。……それでも、欠けたものが、確かにある。
 不意に勢いを増して吹きあがった風が、革の重い外套をふくらませた。たたきつける砂塵をやり過ごすため、とっさに腕を上げて、フェインは目を閉じた。
 はげしく布を叩く風音は、おおきな鳥の羽音にも似ている。
 最後にその音を、声を聞いたとき、彼女は帰ってくると言った。
 許されるのならば、自分のそばにいたいのだ、と。
 自分はただ笑って、さよならと告げた。

 記憶の反芻でしかなかった感覚が、ふいに実体を帯びる。フェインは、はっと目を開けた。
 音でも温度でも、気配ですらない。ただ、『彼女がそこにいる』という感覚。
 巻き上げられる砂塵の中に、白い光が灯る。陽光にかき消されてしまいそうなほど淡いかがやきに、フェインは声を上げた。
「セレン……君か!?」
 ごう、と耳もとで風が鳴る。その音を押しのけるように、自分の名を呼ぶ声が、奇妙なほどはっきりと響いた。
『フェイン……』
 聞き慣れたおだやかさはかけらもない。こわばり、はりつめた声だ。
 とっさに光のそばへ駆けよりかけて、フェインはそれが崖の切れた先であることに気がついた。足を止める。
 食い入るように見つめる先で、光がほどけ、娘の姿に変わっていく。
 亜麻色の髪が流れ落ちる。透けるように白い顔色、そのなかで一点だけ色を帯びた空色のひとみが、フェインの姿を映している。
 薄青い長衣をまとった細い体、その背に翼がないのを見て取って、血の気が引いた。
 ―――落ちる!
 しかし、現れ出た娘は、吹き荒れる風に支えられているかのように中空に留まっていた。
 苦しげに眉が寄せられる。ゆっくりと、その細い腕が伸びた。こちらへ、自分へと向かって。
 呆然としたまま、フェインは腕を伸ばした。その手首をつかむ。
 ふっと風が止んだ。ふわりと薄茶の髪がひろがり、その身体が現実の重みを帯びる。そのまま重力に従い下方へ落ち始める体を、フェインは力まかせに引きよせた。




 ぱちん、と焚き火の中で、生乾きの木がはぜる音がした。
 揺れる炎の照り返しが眠る娘のほおを染め、あたたかな色に見せている。乱れた髪がひとすじ、その目もとにかかっているのに気づいて、フェインは手を伸ばした。そっとすくい上げる。
 ――彼女が目覚めたら、何と言おう。
 現れ出た娘は、フェインの腕の中に落ちると同時、気を失ってこんこんと眠り続けていた。
「……セレン、俺は」
 ひとすじの流れはするりと指の間を滑り落ち、亜麻色の髪のなかへと溶けこむ。冷たいようなくすぐったいような、心地よい感触が手に残った。

 続ける言葉をどうしても思いつけずに、後ろ暗い思考がちらりとフェインの脳裏をよぎった。
 いっそこのまま、眠り続けてくれたならば、と。



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