明け方のぴんとはりつめた大気のなか、セレンははるか地上を見下ろしていた。 世界はいまだ青く沈み、ひとびとは眠りのうちにある。 すうと清浄な空気を吸いこみ、セレンはほほえんだ。 「なんて、……美しい」 ぼんやりと東の空が明るみ、透きとおるように藍がうすくなって、白々と夜が明けていく。 セレンは広げていた翼をたたみ、ゆっくり地上へと降下を始めた。 目指す街の上空までやってきたころ、その地はすでに目覚めはじめていた。市の立つ準備に、まだ暗いなかを人々が行き交っている。もの珍しさに、セレンはさらに高度を下げた。 近づいてみると、眠っているようだった家々にも、火の気が戻っている様子が見てとれた。窓からは、パンの焼ける香ばしい薫りが漏れ出ている。 あたたかな、人の営みの気配。こみ上げる幸せな気分にまかせ、翼を広げ、暗い街路をすり抜けていく。 ひとつの宿の前で、セレンは羽ばたきを止め、ふわりと石畳に降りたった。 酒場も多いこの界隈では、いまだ街は静まりかえっている。その静けさのなか、親しんだ勇者の気配がたしかに感じられた。 宵の気配を色濃く残す空を見上げて、セレンは首をかしげた。 まだ、早すぎるだろうか。 訪れようとしている青年は、他の勇者たちと比べていくぶん目覚めの遅いほうだった。しかも、朝方の訪問をけしてよろこばない。 しばらく考えてから、セレンはとんと地を蹴った。赤い瓦の屋根まで舞い上がり、その傾斜の中途、三角に突き出た天窓の上にふわりと腰を下ろす。 三階建ての建物の上は、存外に風が強かった。次々と飛び回る風精が、くるりとセレンの髪を巻き上げ、もてあそぶ。そのかるい愛撫に、セレンはくすくすと笑った。 しばらく、ここで待っていよう。 くすぐったい風の指先が触れるにまかせ、セレンはまだ明けやらぬ空を眺めた。 薄黄、白、…それから水色、青、藍、…うつくしい階調でもって彩られた天の画布。 うっとりと見ているうち、ふいに感謝の思いが胸を突いた。 生まれた衝動にしたがって、目を閉じる。 すうと深く息を吸いこむと、澄んだ空気が胸を満たした。混乱を抱えてなおうつくしいこの世界に、再生の季節が訪れますように。祈りと祝福をこめて。春を告げる小鳥のように、歌う。 どれほどの間、そうしていたか。足下で、かたん、と乾いた音がした。 おどろいてセレンは身をかがめ、そちらを見下ろした。 「…あ」 思わず、小さく声を上げる。 腰かけていた天窓が開き、そのすぐ下で、不機嫌そうな青年の顔がこちらを見上げていた。その紫紺のひとみとしっかり目が合ってしまう。 「なんだ……おまえか」 深いためいきの後、寝起きの低くかすれた声が、耳を打った。 セレンはのぞきこんだ姿勢のまま、ほほえんだ。 「おはようございます。ロクス」 「ほんっとうに、おはやいことで、天使さま」 ゆっくりと、一語ずつ切るように返される。 「朝っぱらからなんのさわぎかと思ったよ… …さわやかな目覚まし、どうもありがとう」 セレンはまばたきをした。知らず、口もとを押さえる。 「あ、…すみません」 青年は目をつぶり、なにかに耐えるような渋面で眉間を押している。 「あなたには、私の声が聞こえるのに、ごめんなさい、その、そこまで気が回らなくて、」 「あぁもう、黙っててくれ、頼むから」 次いでこめかみをその細い指でつと押さえ、青年はセレンの言葉をさえぎった。 「頭にひびくだろ……」 顔をしかめた様子に、セレンは思わずたずねかけた。 「ロクス、もしかして……」 ぎろりと険しい視線で見上げられ、口をつぐむ。 ……ああ。 セレンは、納得とともにこっそり嘆息した。 お酒の飲み過ぎで、体調をくずしているのですね。……また。 学んだところによると、『二日酔い』という症状で、酒精を取りすぎた次の日、頭痛や吐き気、倦怠感…そのような体調不良に見まわれる、らしい。 どうしてそれがわかっていて、そんなにお酒を飲むのでしょう。 純粋に興味があったが、聞けば彼の不機嫌が加速することは経験上わかっていたので、セレンは好奇心の追求を断念した。 今度、フェインに訊いてみましょうか。ああでも彼が、二日酔いになっているところは見たことがありませんし…。思いを巡らせ始めていたセレンは、青年への反応が遅れてしまった。 「……おい」 低い低い呼びかけがくり返される。 「おいこら、…おい。聞いてるのか」 ローブのすそを引かれる感覚に、セレンは声を上げた。 「は、はい!」 しかし、あわてて視線を戻した窓辺に、なぜか呼び主の姿はなかった。 「ロクス…?」 セレンは首をかしげた。屋根からふわりと飛び立つと、天窓の中をのぞきこむ。 「…あ」 明け方の、青みを帯びてうす暗い部屋の中、すぐ下に置かれた寝台で、青年が頭を抱えへたりこんでいる。 「ロクス…あの、大丈夫ですか」 セレンは、するりと窓から中へ滑りこんだ。そのまま寝台の片隅、背を丸めた青年のとなりに腰を下ろす。 青年の背が、ひくりとひとつ震えて、それから低い声が返った。 「ああ、……大丈夫だ」 まったくそうは思えない様相に、セレンは困ってまばたきをした。 「すみません、つい、大声を出してしまって…」 そっと手を伸ばし、青年の背に触れる。手の下で、青年の身体がわずかにこわばるのを感じたが、ゆっくり、ゆっくりとセレンは腕を動かした。そうしてさすっているうちに、だんだんこわばりが溶けていく。 「まったく、…情けないったらないな」 独白のようなささやきが、耳をかすめた。 それから力を抜くように、青年がゆるゆると息を吐いたのがわかった。心を許されているようで、セレンはすこしうれしくなる。 「あの…ロクス」 そっと、セレンは言ってみた。 「いくらお酒が好きでも、やはり、程々にしておいたほうがよいですよ」 しばらく、沈黙が落ちた。 「……好きなわけじゃない」 「え?」 ぶっきらぼうな声が、繰り返した。 「酒は嫌いじゃないが、別に好きでもない」 セレンは、顔を伏せたままの青年の頭を、じっと見つめた。 「それならば、どうして…」 「説明したって、どうせ君にはわからないだろうさ」 問いかけた言葉は、投げやりな調子で遮られた。 セレンは、口を開けてなにか言おうとした。けれども、とっさに言葉が出なかった。 そんなことはない。 そうは言えない自分を、知っている。…それでも。 「ロクス、…それは、ずるいです」 懸命に、セレンは声を押し出した。 「理解できないかも、しれません。でも…言葉にしてみてくださらなければ、理解できるかできないかも、わからないではありませんか。初めからそう言われてしまえば…私は…」 セレンは、視線を膝に落とした。静かに、両のこぶしをにぎる。 「………私は」 横で、青年が身じろぐ気配がした。 「ああ、もう、うっとうしいやつだな」 呆れた声が降ると同時に、長い指が伸びた。セレンの頭をくしゃくしゃかき回す。あわててセレンは顔を上げた。 「な、ちょ、ロクス!」 「あのな。そんな言葉のはしっこ、いちいち真剣にとらないでくれよ…」 深い、深いため息。 「君がそんなにくそまじめだから、僕はおちおち愚痴の一つも言えやしない」 セレンは首をかしげた。 「いつも、遠慮なく言っているように思うのですが…?」 ぎろりと、紫紺の瞳が険悪にすがめられた。 「ああ? なんだって」 「え、いえ、その、……なんでもありません」 セレンはとっさにかぶりを振った。 「ま、いいさ」 青年は、寝台の上であぐらをかいたまま伸びをした。ぼやくように言う。 「ったく、まだ日も出てないってのに…今からでも寝なおすかな」 そのまま、ばたんと背中から倒れこんだ青年を、あわててセレンはのぞき込んだ。 「私は、あなたに用があって来たのです。起きてください」 敷布に埋まって、すでに閉じかけていたまぶたを、青年は半分ほど引き上げた。 「……ああ? ひとの睡眠を邪魔しておいて、まだなにかあるのか」 「なにかもなにも…こちらに伺ってから、まだなにも言っていないではありませんか」 途方に暮れて、セレンは指を組みあわせた。 「あー…そうだったかな…」 言いながらすでに、青年のまぶたは落ちていく。 「あの、ロクス……」 「どうせ歌うなら、子守歌でも歌っててくれ」 半分寝ているような笑っているような声で、返事がかえった。 「さっきの歌もまあ、きれいだったけどさ。寝入りばなには刺激が強い…」 「すみません、子守歌は知らないのです… …ああ、いえ、そうではなく!」 思わず詫びを口にしかけて、セレンはかぶりをふった。 「ロクス、寝るという選択肢からはなれてください、お願いですから」 「…なんだ、使えないヤツだな。しょうがない」 まったく聴いていない様子で、青年はつぶやいた。 青年の腕がするりと伸ばされる。その大きな手が、セレンの肩に掛かった。 「君の添い寝で我慢するよ」 「…!?」 青年の隣、寝台にぐいと引き倒される。回転した視界、軽い衝撃。続いてほおに押しつけられた敷布の感触にセレンは目を見開いた。 現状を把握しきるより前に、自然な動きで、薄いローブ一枚の胸に頭を抱えこまれる。 とっさにもがき、身を起こそうとして、ふっと鼻先にかすめた香りにセレンは動きを止めた。 沈みこむように深いそれは、教会でよく用いられる調香だ。酒と紫煙の残り香に混じり溶けこむようにしながらも、その香りは、たしかに青年の一部として、そこにあった。 人を慈しみ、安堵させる。奔放にふるまう青年の、けれどそのような一面も確かにあるのだと、知っている。 大きく息を吸い、それから、ゆっくりと吐き出す。気づけば、心は不思議に凪いでいた。 自分を抱き込む強い腕に、セレンはそっと手をかけた。 「……ロクス」 落ちついた心持ちで、声をかける。 「あの、…ロクス?」 返事の代わりに、頭の上から返ってきたのは静かに繰り返される深い息だった。 すぐ間近、うすく開かれた形のよい唇から、安らかな寝息が上がっている。…青年は夢の世界へしっかり逆戻りしていた。 「そ、そんな…ロクス! 起きて、起きてください!」 真向かいの肩を揺すってみても、うめくような声が返るばかり。 セレンはほとほと困り果て、板張りの低い天井を見上げた。 ――どうせ今任務を依頼しても、この調子ではすぐの移動は無理でしょうし。 しばしの間、思案する。 ――あきらめて、他の勇者を訪ねたほうがいいのでは。 しごく妥当な結論を出し、セレンはため息をついた。 ようよう青年の腕の中から抜け出し、寝台から降りる。セレンはふたたび息をついた。 「しかたがありませんね…」 開いた天窓から飛び立とうと、翼を広げかけた瞬間。視界のはしで動いた光にセレンは視線を戻した。 吹きこんだ風に、青年の銀の前髪が、さらりと流れる。差しこんだ今日最初の光の一筋が、その髪先に宿っていた。 セレンは、ゆっくりまたたきをした。静かに寝台のそばへ歩み寄る。 清浄な空気に包まれて、青年はそこにいた。 朝方の透きとおった光が、その髪を、ほおを白く染める。そこに、常の皮肉げな気配は影もなく。セレンは、敷布に半ば埋もれた青年の横顔をじっと見つめた。 不合理なまでに、ただ、自らの思うように。セレンにはわからない理屈でもって生きる青年。 今はただ、穏やかなばかりのその奥に。たくさんの感情を、表情をしまい込んでいる。 もっと見ていたい。そして理解したい、と思う。 それも叶わないのならば、せめて。そのすべてを、自分のなかに残しておけたなら。 セレンは、そっと指を伸ばし、乱れた銀の髪をかきあげた。 「ごめんなさい、ロクス。子守歌は知らないのですが…」 静かに身をかがめる。そのこめかみに、やさしくくちびるで触れた。 「……どうか、よい夢を」 もう一度、白い寝顔を間近に見つめてから、セレンは金色の明け空へ身を乗り出した。 fin. |