■  眠りゆく暁  ■




 明け方のぴんとはりつめた大気のなか、セレンははるか地上を見下ろしていた。
 世界はいまだ青く沈み、ひとびとは眠りのうちにある。
 すうと清浄な空気を吸いこみ、セレンはほほえんだ。
「なんて、……美しい」
 ぼんやりと東の空が明るみ、透きとおるように藍がうすくなって、白々と夜が明けていく。
 セレンは広げていた翼をたたみ、ゆっくり地上へと降下を始めた。


 目指す街の上空までやってきたころ、その地はすでに目覚めはじめていた。市の立つ準備に、まだ暗いなかを人々が行き交っている。もの珍しさに、セレンはさらに高度を下げた。
 近づいてみると、眠っているようだった家々にも、火の気が戻っている様子が見てとれた。窓からは、パンの焼ける香ばしい薫りが漏れ出ている。
 あたたかな、人の営みの気配。こみ上げる幸せな気分にまかせ、翼を広げ、暗い街路をすり抜けていく。
 ひとつの宿の前で、セレンは羽ばたきを止め、ふわりと石畳に降りたった。
 酒場も多いこの界隈では、いまだ街は静まりかえっている。その静けさのなか、親しんだ勇者の気配がたしかに感じられた。
 宵の気配を色濃く残す空を見上げて、セレンは首をかしげた。
 まだ、早すぎるだろうか。
 訪れようとしている青年は、他の勇者たちと比べていくぶん目覚めの遅いほうだった。しかも、朝方の訪問をけしてよろこばない。
 しばらく考えてから、セレンはとんと地を蹴った。赤い瓦の屋根まで舞い上がり、その傾斜の中途、三角に突き出た天窓の上にふわりと腰を下ろす。
 三階建ての建物の上は、存外に風が強かった。次々と飛び回る風精が、くるりとセレンの髪を巻き上げ、もてあそぶ。そのかるい愛撫に、セレンはくすくすと笑った。
 しばらく、ここで待っていよう。
 くすぐったい風の指先が触れるにまかせ、セレンはまだ明けやらぬ空を眺めた。
 薄黄、白、…それから水色、青、藍、…うつくしい階調でもって彩られた天の画布。
 うっとりと見ているうち、ふいに感謝の思いが胸を突いた。
 生まれた衝動にしたがって、目を閉じる。
 すうと深く息を吸いこむと、澄んだ空気が胸を満たした。混乱を抱えてなおうつくしいこの世界に、再生の季節が訪れますように。祈りと祝福をこめて。春を告げる小鳥のように、歌う。


 どれほどの間、そうしていたか。足下で、かたん、と乾いた音がした。
 おどろいてセレンは身をかがめ、そちらを見下ろした。
「…あ」
 思わず、小さく声を上げる。
 腰かけていた天窓が開き、そのすぐ下で、不機嫌そうな青年の顔がこちらを見上げていた。その紫紺のひとみとしっかり目が合ってしまう。
「なんだ……おまえか」
 深いためいきの後、寝起きの低くかすれた声が、耳を打った。
 セレンはのぞきこんだ姿勢のまま、ほほえんだ。
「おはようございます。ロクス」
「ほんっとうに、おはやいことで、天使さま」
 ゆっくりと、一語ずつ切るように返される。
「朝っぱらからなんのさわぎかと思ったよ… …さわやかな目覚まし、どうもありがとう」
 セレンはまばたきをした。知らず、口もとを押さえる。
「あ、…すみません」
 青年は目をつぶり、なにかに耐えるような渋面で眉間を押している。
「あなたには、私の声が聞こえるのに、ごめんなさい、その、そこまで気が回らなくて、」
「あぁもう、黙っててくれ、頼むから」
 次いでこめかみをその細い指でつと押さえ、青年はセレンの言葉をさえぎった。
「頭にひびくだろ……」
 顔をしかめた様子に、セレンは思わずたずねかけた。
「ロクス、もしかして……」
 ぎろりと険しい視線で見上げられ、口をつぐむ。
 ……ああ。
 セレンは、納得とともにこっそり嘆息した。
 お酒の飲み過ぎで、体調をくずしているのですね。……また。
 学んだところによると、『二日酔い』という症状で、酒精を取りすぎた次の日、頭痛や吐き気、倦怠感…そのような体調不良に見まわれる、らしい。
 どうしてそれがわかっていて、そんなにお酒を飲むのでしょう。
 純粋に興味があったが、聞けば彼の不機嫌が加速することは経験上わかっていたので、セレンは好奇心の追求を断念した。
 今度、フェインに訊いてみましょうか。ああでも彼が、二日酔いになっているところは見たことがありませんし…。思いを巡らせ始めていたセレンは、青年への反応が遅れてしまった。
「……おい」
 低い低い呼びかけがくり返される。
「おいこら、…おい。聞いてるのか」
 ローブのすそを引かれる感覚に、セレンは声を上げた。
「は、はい!」
 しかし、あわてて視線を戻した窓辺に、なぜか呼び主の姿はなかった。
「ロクス…?」
 セレンは首をかしげた。屋根からふわりと飛び立つと、天窓の中をのぞきこむ。
「…あ」
 明け方の、青みを帯びてうす暗い部屋の中、すぐ下に置かれた寝台で、青年が頭を抱えへたりこんでいる。
「ロクス…あの、大丈夫ですか」
 セレンは、するりと窓から中へ滑りこんだ。そのまま寝台の片隅、背を丸めた青年のとなりに腰を下ろす。
 青年の背が、ひくりとひとつ震えて、それから低い声が返った。
「ああ、……大丈夫だ」
 まったくそうは思えない様相に、セレンは困ってまばたきをした。
「すみません、つい、大声を出してしまって…」
 そっと手を伸ばし、青年の背に触れる。手の下で、青年の身体がわずかにこわばるのを感じたが、ゆっくり、ゆっくりとセレンは腕を動かした。そうしてさすっているうちに、だんだんこわばりが溶けていく。
「まったく、…情けないったらないな」
 独白のようなささやきが、耳をかすめた。
 それから力を抜くように、青年がゆるゆると息を吐いたのがわかった。心を許されているようで、セレンはすこしうれしくなる。
「あの…ロクス」
 そっと、セレンは言ってみた。
「いくらお酒が好きでも、やはり、程々にしておいたほうがよいですよ」
 しばらく、沈黙が落ちた。
「……好きなわけじゃない」
「え?」
 ぶっきらぼうな声が、繰り返した。
「酒は嫌いじゃないが、別に好きでもない」
 セレンは、顔を伏せたままの青年の頭を、じっと見つめた。
「それならば、どうして…」
「説明したって、どうせ君にはわからないだろうさ」
 問いかけた言葉は、投げやりな調子で遮られた。
 セレンは、口を開けてなにか言おうとした。けれども、とっさに言葉が出なかった。
 そんなことはない。
 そうは言えない自分を、知っている。…それでも。
「ロクス、…それは、ずるいです」
 懸命に、セレンは声を押し出した。
「理解できないかも、しれません。でも…言葉にしてみてくださらなければ、理解できるかできないかも、わからないではありませんか。初めからそう言われてしまえば…私は…」
 セレンは、視線を膝に落とした。静かに、両のこぶしをにぎる。
「………私は」
 横で、青年が身じろぐ気配がした。
「ああ、もう、うっとうしいやつだな」
 呆れた声が降ると同時に、長い指が伸びた。セレンの頭をくしゃくしゃかき回す。あわててセレンは顔を上げた。
「な、ちょ、ロクス!」
「あのな。そんな言葉のはしっこ、いちいち真剣にとらないでくれよ…」
 深い、深いため息。
「君がそんなにくそまじめだから、僕はおちおち愚痴の一つも言えやしない」
 セレンは首をかしげた。
「いつも、遠慮なく言っているように思うのですが…?」
 ぎろりと、紫紺の瞳が険悪にすがめられた。
「ああ? なんだって」
「え、いえ、その、……なんでもありません」
 セレンはとっさにかぶりを振った。
「ま、いいさ」
 青年は、寝台の上であぐらをかいたまま伸びをした。ぼやくように言う。
「ったく、まだ日も出てないってのに…今からでも寝なおすかな」
 そのまま、ばたんと背中から倒れこんだ青年を、あわててセレンはのぞき込んだ。
「私は、あなたに用があって来たのです。起きてください」
 敷布に埋まって、すでに閉じかけていたまぶたを、青年は半分ほど引き上げた。
「……ああ? ひとの睡眠を邪魔しておいて、まだなにかあるのか」
「なにかもなにも…こちらに伺ってから、まだなにも言っていないではありませんか」
 途方に暮れて、セレンは指を組みあわせた。
「あー…そうだったかな…」
 言いながらすでに、青年のまぶたは落ちていく。
「あの、ロクス……」
「どうせ歌うなら、子守歌でも歌っててくれ」
 半分寝ているような笑っているような声で、返事がかえった。
「さっきの歌もまあ、きれいだったけどさ。寝入りばなには刺激が強い…」
「すみません、子守歌は知らないのです… …ああ、いえ、そうではなく!」
 思わず詫びを口にしかけて、セレンはかぶりをふった。
「ロクス、寝るという選択肢からはなれてください、お願いですから」
「…なんだ、使えないヤツだな。しょうがない」
 まったく聴いていない様子で、青年はつぶやいた。
 青年の腕がするりと伸ばされる。その大きな手が、セレンの肩に掛かった。
「君の添い寝で我慢するよ」
「…!?」
 青年の隣、寝台にぐいと引き倒される。回転した視界、軽い衝撃。続いてほおに押しつけられた敷布の感触にセレンは目を見開いた。
 現状を把握しきるより前に、自然な動きで、薄いローブ一枚の胸に頭を抱えこまれる。
 とっさにもがき、身を起こそうとして、ふっと鼻先にかすめた香りにセレンは動きを止めた。
 沈みこむように深いそれは、教会でよく用いられる調香だ。酒と紫煙の残り香に混じり溶けこむようにしながらも、その香りは、たしかに青年の一部として、そこにあった。
 人を慈しみ、安堵させる。奔放にふるまう青年の、けれどそのような一面も確かにあるのだと、知っている。
 大きく息を吸い、それから、ゆっくりと吐き出す。気づけば、心は不思議に凪いでいた。
 自分を抱き込む強い腕に、セレンはそっと手をかけた。
「……ロクス」
 落ちついた心持ちで、声をかける。
「あの、…ロクス?」
 返事の代わりに、頭の上から返ってきたのは静かに繰り返される深い息だった。
 すぐ間近、うすく開かれた形のよい唇から、安らかな寝息が上がっている。…青年は夢の世界へしっかり逆戻りしていた。
「そ、そんな…ロクス! 起きて、起きてください!」
 真向かいの肩を揺すってみても、うめくような声が返るばかり。
 セレンはほとほと困り果て、板張りの低い天井を見上げた。
 ――どうせ今任務を依頼しても、この調子ではすぐの移動は無理でしょうし。
 しばしの間、思案する。
 ――あきらめて、他の勇者を訪ねたほうがいいのでは。
 しごく妥当な結論を出し、セレンはため息をついた。
 ようよう青年の腕の中から抜け出し、寝台から降りる。セレンはふたたび息をついた。
「しかたがありませんね…」
 開いた天窓から飛び立とうと、翼を広げかけた瞬間。視界のはしで動いた光にセレンは視線を戻した。
 吹きこんだ風に、青年の銀の前髪が、さらりと流れる。差しこんだ今日最初の光の一筋が、その髪先に宿っていた。
 セレンは、ゆっくりまたたきをした。静かに寝台のそばへ歩み寄る。
 清浄な空気に包まれて、青年はそこにいた。
 朝方の透きとおった光が、その髪を、ほおを白く染める。そこに、常の皮肉げな気配は影もなく。セレンは、敷布に半ば埋もれた青年の横顔をじっと見つめた。
 不合理なまでに、ただ、自らの思うように。セレンにはわからない理屈でもって生きる青年。
 今はただ、穏やかなばかりのその奥に。たくさんの感情を、表情をしまい込んでいる。
 もっと見ていたい。そして理解したい、と思う。
 それも叶わないのならば、せめて。そのすべてを、自分のなかに残しておけたなら。
 セレンは、そっと指を伸ばし、乱れた銀の髪をかきあげた。
「ごめんなさい、ロクス。子守歌は知らないのですが…」
 静かに身をかがめる。そのこめかみに、やさしくくちびるで触れた。
「……どうか、よい夢を」

 もう一度、白い寝顔を間近に見つめてから、セレンは金色の明け空へ身を乗り出した。






 fin.


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