頭の上から、ほう、と小さなため息が届いた。 ……これで、六回目。 「おい。さっきから、いったい何なんだ?」 ロクスは上を向いた。苛立ちを込めた声とかさなるように、野辺を渡る風が吹きすぎる。 黒土を踏み固めただけの街道から、土埃が巻き上がった。とっさに、法衣の片腕で吹き付けるそれをしのぐ。 「はい…?」 応えとともに、小さな羽ばたきが耳を打った。 「何かありましたか、ロクス」 腕を降ろしたロクスの前に立っていたのは、背に翼持つ一人の娘。わずかに首をかしげた彼女を、ロクスはじろりと見つめかえした。 「何かあったか、だって? ああ、おおありさ」 野辺を包むおだやかな陽気にふさわしからず、とげとげしい気分を声音に載せる。 「さっきので何回目だと思ってるんだ、君は。…頭の上でこうため息ばかりつかれて、気にせずにいられるってヤツがいたら一度お目にかかりたいものだね」 かるく見開かれた天使の双眸が、次にやわらかく細められた。 「気づかってくださったのですか?」 「あ、あのなあ! 僕が言いたいのは、ただ…」 なにか自分への含みがあってやられているようで、気になっただけだ。 「……もういい」 言いかけて、ロクスは取りやめた。 そもそも、思うところあらば、すぐさま率直かつ無神経な進言を行う彼女だ。聞こえよがしにためいきをついてみせるなど、そんな気の利いたやりかたを今さらひねり出せるはずもない。 つまるところ、こちらが天使の一挙一動を意識しすぎているというだけのことなのだ。 そんな自分が情けなくなって、ロクスは頭をふった。 「なんでもない。…気にしないでくれ」 ロクスは天使に背を向けると、再び街道を歩き始めた。 「…すみません、ロクス」 困惑した声が後ろから追ってくる。 「私の思慮が足らず、あなたに不愉快な思いをさせてしまったのですね」 無視して進む。 「同じことを繰りかえさないよう、気をつけます」 追いかけてくる言葉は、いっそばかばかしいまでに真摯だ。 「おっしゃりたいことがあるなら、どうぞ遠慮なく言ってください」 ああもうどうして、こいつはこんなにとんちんかんなんだろう! ロクスは深々とため息をついた。いまだ謝罪だか何かを続けようとしている天使へ、くるりとふりかえる。 「もういいって言ってるだろ?」 「けれど、ロクス…」 憂い顔を崩さない天使に、ロクスは再びため息を落とした。 「それで君の気が済まないっていうなら…」 「はい、なんでしょう」 ほっとした様子で天使が問う。ロクスは、頼み事をひねり出すべく眉を寄せた。 「そうだな、……どこか腰を落ち着けられそうな場所がないか、探してきてくれないか。そろそろ昼食にしたいんだ」 天使が見つけてきたのは、街道を少しはずれた大樹の陰だった。木陰には茂る草もまばらで、根本近くにいくつか転がった平らな岩が、荷を広げるのにちょうどいい。 前の街で仕入れた丸パンと豚の腸詰めを、岩陰におこした火であぶりながらロクスは荷をあさった。 目当ての小瓶を引っぱり出し、鼻歌混じりでコルク栓を引き抜く。とたん、青草の匂いに混じって、酒精の甘い香りが立ちのぼった。 「ロクス…昨日あれほど飲んでいたのに、また飲むのですか?」 天使が、声にかすかな呆れをにじませる。取り合わずロクスは笑った。 「生憎これしか持ち合わせてないし、酒が入れば疲れも飛ぶってものさ。それで道行きが進めば、君にだって悪い話じゃないだろう?」 天使が、長いまつげをゆっくりしばたかせた。 「疲れているのですか?」 「そりゃあそうさ。朝から歩き詰めなんだ」 「しかたがないですね…」 そっと吐息をつき、それから天使は中空へ腕を差し伸べた。 その先に灯った光のなかで、小さな紙包みが姿を現す。光が消えると同時、それはぽすんと天使の手のひらに収まった。 「…何を出したんだ?」 天使はめずらしく、からかうようにほほえみかえしてきた。 「疲労回復の効能のある、薬湯を淹れます。ですから、そちらはしまってくださいますか」 「待てよ、僕がわざわざ重い思いをして持ってきたってのに…」 「それはご苦労さまでした」 天使は笑みを崩さない。ロクスはげんなりとうめいた。 「あのなあ………」 結局のところ。彼女が相手となると、自分が拒みきれないことなど嫌というほど自覚しているロクスは、早々に白旗を揚げたのだった。 「どうぞ」 差し出された素焼きのカップを受け取り、のぞき込む。 器の半分ほどを満たした深緑の薬湯、大樹の木漏れ日を映すその水面が、ゆらりと揺れた。 淡い草色の泡で縁どられているそれに鼻を近づけると、かすかに涼やかな香りがする。薬草を煎じたものだろうか、その香にいくぶん安堵して、ロクスは器を口もとへ近づけた。 かるく含んで、慎重に味わう。 「…どうですか?」 さっぱりとした渋みに、ほんのり甘みが残る。ロクスは肩の力を抜いた。 「まあまあかな。…思ったよりまともで、安心したよ」 「そんな、いったいどんなものだと思っていたのですか」 ロクスは肩をすくめてみせた。 「そりゃあまあ、どうせ君のことだ、他の奴らからのもらいものなんだろう? 薬を煎じると言えば、魔女か魔導士か…鳩の生き血だの乾燥ヒキガエルだのは、ちょっと勘弁してほしいところなんでね」 ふと、天使が顔を曇らせたのに気づく。 「って、なんだよ。その顔は」 「いえ…どんなものだと、なんて。そんな偉そうなことを言える資格など、なかったのです。私だって、彼を疑うようなことを言ってしまったのですから…」 「はあ?」 「その時のことを考えるたびに、ついついため息ばかりついてしまって。ロクス、あなたにも申し訳のないことをしました」 「だから、何の話なんだ」 天使はその細い指で、ぴっとロクスの手元を指した。 「その薬湯なんですが」 「ああ」 「クライヴからいただきまして」 「…へえ?」 「ゾンビパウダーというものだそうです」 最後の一口を、ロクスは思い切り吹き出した。 ごほごほとむせた背を、あわてて天使の手がさする。 「だいじょうぶですか、ロクス? 落ち着いてください」 「こ…これが落ち着いていられるかっ!?」 食ってかかったロクスに、天使はさもありなんとうなずいた。 「ええ、ほんとうに、私もびっくりしたものですから、つい……ゾンビを材料に使っているのか、なんて聞いてしまったのです。そうしたらクライヴは、真顔で……」 「おい!!?」 くすりと、小さく天使が笑った。 「冗談だ、って言ってましたよ。当たり前ですよね。死者を粉にしてどうこうなんて、亡くなられた方を冒涜するようなまねを、クライヴがするわけもないのに……」 そこでわずかに落ち込んだ天使に、ロクスは思わず突っこんだ。 「いや、その話の反省点はそこじゃないだろ!?」 「そうそう、それで、二日酔いにも聞く薬草だから、どこぞの酔いどれにいいだろうですって」 「………ほほう?」 口の端が引きつるのを、ロクスは自覚した。 「それで、君は僕のところに迷わず持ってきたと、そういうわけだな?」 ロクスの込めた含みにはもちろん気づくこともなく、天使はにっこりほほえんだ。 「ええ。クライヴも、あなたのことを心配してくれているのです」 「……へえ、そうかい」 嫌がらせだ。断言できる。魔石を賭けたっていい。 「それは、またそのうち、丁重にお礼をしなきゃならないな……ところでセレン」 とりあえず、目の前の彼女にも、相応の『お返し』をしてやらねばなるまい。 「はい」 決意のもと、ロクスは幾分おだやかな声音を選んで告げた。 「おかげで、ずいぶん足は楽になったみたいだ。ありがとう」 これは、嘘ではない。むくんで熱を持っていたふくらはぎの痛みは、ずいぶんとやわらいでいた。 「それは何よりです。…やはり、お酒はほどほどにしておいたほうがよいと思いますよ、ロクス」 ひかえめに付け加えた天使に、ロクスはしおらしくうなずいてみせた。 「そうだな…。教会にいたころから、耳障りのいいおべんちゃらばかり聞いていたせいかもしれないけど…君がいつもそうやって、僕たちのことを真剣に気にかけてくれているのは、本当にうれしいと思ってるんだ。……ちょっと、そこに座ってくれないか?」 すぐ近くにある岩を指す。少しとまどうような顔をして、天使はうなずいた。 ロクスはしばらく地面を見つめて、深く息を吐き出した。 「なあ、セレン」 ゆっくりと名を呼んだ。顔を上げ、まっすぐに天使の顔を見つめる。 「もし僕が、ひとりの女の子としての君に興味があると言ったら…どう思う?」 真向かいの彼女へ手を伸ばす。伸ばしたその手がほおに触れるまで、天使は微動だにせず、おどろいた顔でロクスを見つめていた。 「天使は、人間の男に感じることはないのか? そばにいたいとか、こうやって触れてみたいとか…少なくとも、僕は君を、そういうふうに思ってる」 わずかに声を低くして、告げる。 「君のことが好きなんだと、そう言ったら、君は信じるか?」 言いながら、ゆっくりとロクスは身を乗り出した。 仰天して飛んで逃げるか、はたまた真っ赤になってうろたえるか、見物ってやつだな。我ながら意地の悪いことを考えながら、天使の反応を期待して待つことしばし。 ロクスの見つめる先で、ただ、天使は沈黙していた。 雲雀の軽やかなさえずりだけが、二人の間を流れていく。 「………なあ」 ほおに触れさせたままの手が、いいかげんだるくなってくる。 諾でも否でも、何とか言ってくれないものか。 だんだんいたたまれなくなってきて、ロクスは声を上げた。 「……聞いてるのか、セレン」 天使が突然、顔を伏せた。両手で口もとをおおっている。 「…ッ、く」 何かをこらえるような声が、そのくちびるから漏れた。 「お、おい…?」 「す、すみません、……っ」 うつむいたままふるえる天使に、ロクスはぎょっとした。 「な…泣いてるのか? いや、その…今のは」 「ほんとうに、何でもないのです。…今日はもう失礼しますね。あなたが災いと対峙するころに、また伺いますから…」 言葉が終わるか終わらないか。天使の輪郭が、光にほどけるようにぼやけ始める。 引き留めようと肩に手をかけたときには、すでに天使の姿は消えていた。 「そんなつもりじゃ……、僕は」 呆然としたロクスの声に、応える者はない。 ただ、そよ風だけが、やさしく吹きすぎていった。 「…………っ、ああ、もうだめ」 ラキア宮に飛びこむなり、天使は声を立てて笑い出した。 「ロクス、あなたってひとは…! こんなことって…っく、くくく、…ああ、涙まで」 言いながら、目もとをぬぐう。 「前からたしかに、似ているなとは思っていましたが……」 天使は、ゆっくりと顔を上げた。 懐かしく思い出すのは、女たらしでわがままで、それでもやさしかったインフォスの勇者の姿だ。 「でもまさか」 小さく天使は吹き出した。 「あなたとまったく同じ冗談を、この世界でまた聞くことになるとは思ってもみませんでしたよ、シーヴァス」 「て、天使さまぁ…?」 こらえきれずまたも笑い出した天使を、妖精たちがそっと扉の陰からのぞき込む。 「いったい、どうしちゃったんでしょう」 「さ、さあ……」 顔を見合わせる妖精たちの背中を、ふいに、氷のように静かな声音が打った。 「……やっと、やっとあの方と縁が切れたと思っていたのに」 かけあがる寒気に、シェリーは尻尾をぶわりとふくらませた。 そうっとふりかえる。前の世界で天使の補佐役を務めていた同僚の、その切れ長のひとみには、冷たい怒りの炎が燃えていた。 「それなのに、この世界に来てまたこんな……! 油断も隙もないとはこのことよ!!」 「え、ちょっ……ローザ!?」 羽音も荒く飛び去ったローザを追うことなど論外。 陽気な妖精たちにできることは、またも顔を見合わせ、遠巻きに天使を見つめるばかり。 はるかインフォスの空の下、シーヴァス・フォルクヴァングがくしゃみをしたかしなかったかは、神のみぞ知るところである。 fin. |