頭が痛い。 比喩表現でもなんでもなく、痛い。その上熱くてぼうっとする。 「………うう」 ロクスは寝台の上で寝がえりを打った。安宿の敷布はどうにも肌ざわりが粗かったが、少し冷たい場所にほおを落ちつけ、ほっとする。 「せっかくこの手があるのにな…」 熱を持った腕を、掛布の外に投げ出す。 自分は癒せないんじゃ、意味がない。ため息をついたつもりだったが、のどを通る熱さに、空気ではなく熱を吐いたような気になる。うんざりと視線をさまよわせた先、硝子のはまった窓には、黄昏時の空が切り取られていた。 辛いときは、寝てしまうにかぎる。体も休まるし、嫌な思いもせずに済んで実に効率的だ。そんなことを考えながら、ロクスは目を閉じる。 ぼんやりした意識のすみで、鳥の羽音を聞いた、気がした。 冷たいものが、ひたいに触れる。と、すっと退いて、それからまた戻ってきた。 右のこめかみあたりまでするりと撫でて、さっきから顔に張りついてうっとうしかった前髪が払いのけられる。 ………だれかの、手? ひんやりとしていて、気持ちがいい。まぶたを上げるのも面倒で、ロクスは冷たいなにかが触れるにまかせていた。 しばらくそれはロクスのひたいと、ほおをゆっくり行き来して、ふっと消えた。とっさに引き留めようとした腕は一寸も上がらず、代わりにロクスは、重いまぶたを引っぱり上げる。 「………セ…」 セレン。 紡ごうとした言葉は、かすれて意味をなさなかった。 ランプに照らされ、自分をのぞきこむ天使の白い顔が、ごく近くにあった。 「…ロクス」 ささやくように潜めた声が、耳をかすめる。 「水を飲みますか」 黙ってうなずくと、脇の卓から、天使は素焼きのカップを手に取った。 ちゃぷんと水のはねる音がして、そこではたと天使は動きを止める。 「あ…横になったままでは、飲めませんよね」 カップを置いて、天使がロクスへ身をかがめてきた。天使の意図に気づいて、ロクスはわずかに頭を浮かせた。 天使の腕が、ロクスの背中に滑り込む。彼女にとっては力のいる作業なのか、ロクスの上体を起こしながら、天使の整った相貌がわずかにゆがんだ。 背中に冷たい夜気が触れ、ロクスは思わず眉を寄せた。身をひねって、背後の壁に背をもたせかける。 天使は一つ息をついて、カップを差し出してきた。受け取ろうとするより早く、口元に当てられる。 まったくの病人扱いに、仕方なくロクスはそのまま唇を開いた。慎重な手つきで、天使がカップを傾ける。 冷たい液体が、口腔に流れ込んでくる。ひとくち、ふたくち飲み下すと、かえってのどの渇きが意識された。天使の手から、カップの半分ほどの水を飲み干す。 息をついて、ロクスはひとつ空咳をした。…もう、大丈夫そうだ。 「……とりあえず…礼を言っとくよ」 少ししゃがれていたが、声は出た。安堵しながら、続ける。 「カップを、貸してくれないか。自分で飲める」 ゆっくり腕を上げ、天使に手を伸ばす。 「とりあえず、なのですか?」 天使はくすりと笑って、カップをロクスに手渡した。 「ああ。元々この風邪を引き込んだのは、目印もない雪山に、僕をひとり放り出してくれた天使さまのおかげって気もするしな」 「あ……このあいだは… …すみませんでした」 しゅんとして言う天使に、ロクスは苦笑いをした。 「冗談だよ。そんないちいち、律儀に反応しなくていい」 残りを飲み干し、人心地ついて天使に目を戻す。そこで初めて気づいた違和感に、ロクスはつぶやいた。 「…おい、翼をどうした?」 「え?」 天使はきょとんと応じた。 「翼だよ。…ついてないじゃないか」 天使の天使たる由縁、その背にあったはずの純白の翼が、消えている。 ようやく天使は、理解した色を見せた。 「ああ…今は、人間の姿をとっているのです」 「…なんのためにだ?」 「もちろん、ロクスを看病するためです」 「…は?」 いまいち、つながりがわからない。 それがロクスの表情に出たのだろう。天使は、にこりと微笑んだ。 「こちらの宿で、今のカップや水差しをお借りしましたし…それから、街で薬を買ってきました。私の魔法では、病を癒すことはできませんから」 宿の主人は、この地に縁もゆかりもないはずの旅人に突然現れた看護人について、どう思ったろう。そんなことが頭のすみをよぎりもしたが、それより重大なことを言われた気がした。 「…買ってきたって、金は?」 「ロクスのお財布から、お借りしたのですが」 「……やっぱりな…」 うめくと、天使はうろたえたようにまばたきをした。 「いけませんでしたか?」 しばらくロクスは、言葉を探して沈黙した。吐いたため息は、やはり熱い。 「いや、まあ…今はちょっと、懐具合が寂しかったんだ」 「ご…ごめんなさい、そこまで気が回りませんでした…」 「ま、しょうがない。…天使さまにそんな経済観念まで求めてもな」 多少皮肉めいた声音になったとはいえ、ほぼあきらめの心境で、ロクスは言ったのだが。 天使は、言ったほうが気の毒になるほどうなだれてしまった。 「本当に…すみません、ロクス…」 しばらく迷うように視線をさまよわせてから、ふいにはっきりとした口調で天使は言った。 「…明日にでも、お金はお返ししますから」 「おい、ちょっと待て」 ロクスは、あわてて口を挟んだ。 この世間知らずの天使が、どうやって一晩で金を稼げると…身体を使ってとかいうんじゃないだろうな。いやまさか。一瞬、聖職者にあるまじき(今更だが)想像をしてしまう。 …熱のせいということにしておきたい。 「はい?」 天使は、不思議そうな顔でロクスを見た。 「金って、どうやって返すつもりなんだ?」 とたん、天使は決まり悪そうな表情になった。 「いえ、それは、…」 天使は口ごもる。やめてくれ、本当にそうなんじゃないだろうな。 「その……これを売って、お金に換えようかと」 天使が取り出したものを見て、ロクスはちょっと目を見開いた。 「それは…」 ランプの灯りに照らされ、きらりと光を反射する。 「僕のやった、金のメダイユじゃないか」 「はい、…今はこれ以外に、換金できそうなものは持っていなくて…」 哀しそうに言う天使に、ロクスは半ば呆然と呟いた。 「……まだ持ってたのか」 以前に、他の勇者から贈られた指輪なんてものを横流しされてしまった身としては。 当然自分の贈ったこれも、とうの昔に他の者の手に渡ったものだと思っていた。 「はい。ロクスがくださった、はじめての贈りもので…とてもうれしかったので、取っておいたのですけれど」 仕方がないです。そう言って、天使はそのほっそりとした肩を落とした。 「あの………ロクス?」 しばらく、思考停止していたらしい。 「あ…ああ」 ロクスは、ひとつ息を吸った。不覚にも、声がふるえそうだった。 「セレン、…本当に、金ならいいんだ。それよりも…それを君が持っててくれたほうが、僕はうれしい」 柄にもなく、ちょっと感動しているらしい自分を自覚する。この天使が、そんな深い意味でもってそうしたんじゃないだろうことはわかってるんだが。 「え、でも…」 天使はメダイユをぎゅっと握り、眉を寄せた。 「薬があったほうがいいのは確かだしな。天使にここまでしてもらったんだ、ちゃらにしておくよ」 笑って言うと、ようやく天使は愁眉を解いた。 「いいのですか…? ありがとうございます!」 「ああ、その代わりと言っちゃなんだけど」 「はい?」 天使は、疑いのない目で首を傾げた。 「せっかく買ってきてもらったんだ。薬を飲ませてもらおうかな」 口の端をつり上げ、にやりと笑ってみせる。 「口移しで」 真っ赤になって飛び上がるかと思いきや。天使はまばたきを一つ。ちょっと悩むような顔で言ってきた。 「そんなことでよいのですか?」 「……は?」 我ながら、呆けたつぶやきが落ちた。 「口移しって…何か知ってるのか。セレン」 思わず、間の抜けたことを聞いてしまう。天使は、いぶかしげな顔をした。 「ええ。人は、病に倒れた者や、毒に侵された者を助けるときにはそうするものなのでしょう?」 「……参考までに聞きたいんだが。それは、どこから得た知識だ?」 「アイリーンが、面白いからと言って貸してくれた本です。冒険譚が多かったのですが」 「…………それは…いや、いい。やっぱり自分で飲むよ」 頭痛がひどくなった気がする。ロクスは目を閉じ、こめかみを押さえた。 平穏無事に薬を摂取した後。 「やっぱりまだ、熱がありますね…」 天使の白い手が、そっとロクスの額に触れた。 「……当たり前だろ…そんなすぐ、治るわけが…」 ロクスは、出そうになったあくびをかみ殺した。 「ロクス、眠いのですか?」 のぞきこんできた天使に、ロクスはうなずいた。 「ああ、たぶん…薬のせいだろうな」 天使が、やさしく微笑みかける。その指先が、汗をぬぐうように額をなでた。 「眠ってください、ロクス。私が看ていますから」 それは…かなりもったいない。さらさらと、自分の上に落ちかかる薄茶の髪を見ながら、ぼんやりとロクスは思った。 「いや…まだ起きてるよ。…それにしても」 口をきいていれば、まだいくらかは持ちそうだった。 「さっきから、にこにこと楽しそうだな…。ひとが苦しんでるってのに」 憎まれ口に、けれど天使は困ったようにうなずいた。 「ええ…ごめんなさい、ロクス。私は少し、うれしいのです」 ゆっくりと、天使のひとみがまたたく。 青灰色のそれは、ランプの灯りの下、不可思議な色を帯びていた。 「…この姿になったのは、あなたの熱を見るためでもあったのですよ。普段の身体では、暑さも寒さもわからないのですが……人間の姿を取れば、あなたと同じように感じ取ることができますから」 淡い色の唇が、うっすらと笑みを浮かべた。 「……あなたは暖かいのですね、ロクス」 「あったかいんじゃなくて、熱いんだろ…熱出てるんだから」 「あ…そうでした」 くすくすと、耳にやわらかい音が触れる。ロクスは、ふっと目を閉じた。 「君は、…冷たくて気持ちがいい」 ゆっくりと、天使の指がロクスの髪を梳く。ひたいの生え際、こめかみのあたりから、くり返し慈しむように。ときおり爪先がかすめるのが、ひどくくすぐったい。何も見えずにいるほうが、その感覚は鮮明だった。 ゆるゆると暗闇に溶け出すように、意識が沈んでいく。 それは決して、不快なものではなかった。 「お休みなさい、……私の勇者」 ささやきを遠くで聞きながら、ロクスはあらがうことなく眠りに落ちた。 最後にひたいをかすめたやわらかな感触は、もしかすると指先ではなく…… 次の朝、目を覚ますと、すでに天使の姿はなかった。 たぶんもう行ったのだろう。忙しい彼女のことだから。 自分でも驚くほど素直にそう思い、ロクスは寝台から身を起こした。 体調のほうは、もうずいぶんと良かった。ただ、心なし残る気だるさだけが、昨晩の不調を主張している。 白い光が、窓からあふれるように射し込んでいる。 軽く首を回して、ロクスは寝台脇の卓に目を留めた。 「……あいつが摘んできたのか?」 陶器の水差しに、白い花が一輪。 手を伸ばして、ロクスはそれを水差しから引き抜いた。指先で、くるりと回してみる。 「…スノードロップ、か」 うつむきがちにほっそりと伸びる花弁を眺めるうちに、ふと、昔聞いた説話を思い出した。 罪により楽園を追われ、凍えていた人間の足下に積もった雪。それを、心やさしい御使いがこの花に変えたのだという。……天使の好みそうな花だ。 花言葉は、「希望」 そして、「慰め」 …それからもう一つ。 君は知っていたか? 記憶をなぞって、ロクスはつぶやいた。 「……恋の、最初のまなざし」 fin. |