■  忘却  ■




 荒れ地の赤茶けた地面を見つめ、ゆっくりと歩く。
 陽光にさらされたうなじを、冷たい汗がすべりおちた。
 父を殺し、天竜を倒した今もまだ、夏の強い日差しは体にこたえる。
 クライヴは、足を止めて額をぬぐった。
 再び歩きだそうとした先に、ふいに日をさえぎってすいと大きな影が落ちる。とっさに、クライヴは空を仰いだ。
 両眼に強い痛みが走る。すがめた視界を、大きな鈍色の翼を広げた鷹が横切っていった。
 クライヴは、自嘲に口の端をゆがめ、再び歩きだした。

 それでも、いつか。…来るかもしれない彼女を待っている。




 実りが、アルカヤの大地を覆い尽くす。
 やわらかな金茶の麦の穂が、ざわざわと風に揺れる。クライブはそっとほほえんだ。
 こんな麦畑だった。彼女はふわりと降りたって、彼と一緒に歩いてもいいかとたずねた。
 何年か前の、秋のこと。

 共に歩きながら、君は麦穂が美しいと言った。
 俺はうなずいて、君の揺れる薄茶の髪の方が、もっとずっと美しいと思った。
 昔言えなかった言葉が。君に伝えたい言葉が、たくさんある。




 そよかぜ吹く丘の上に、ひとり立つ。
 クライヴの前髪を、ふわりと風のかいながすくい上げた。
 なぐさめるように頬をかすめ、クライヴの黒髪を梳いていく。…彼女の指先に、似ていた。
 眺めやった淡い春空は、彼女のひとみの色。
 もう、ずいぶんと昔のことのように思える記憶をそっと引き出す。

 君は、アルカヤの春を、大地を、…生けるすべてを、愛していた。
 春の日差しに似て、だれにも降りそそぐ慈しみでもって。
 もしかしたなら、…だれをも選ばない、残酷な優しさで。




 北の地に、暗く厳しい冬が来る。
 繰りかえされる四季のうち、クライブはこの季節を好んでいた。
 ふわりと、目の前に落ちてくるものがある。
 手を伸ばすと、それはすんなり掌に落ちた。思わず、唇をほころばせる。
 小さな小さな、白い欠片。
 彼女のいるところから、降りてきたもの。

 はかなく溶け消えた雪片に、クライブは目を伏せた。
 何も、自分の手に残りはしないのだ。雪のひとかけらも。…白い羽根も。


 クライヴはふと、雪を受けた手を見つめた。
 しっかりとした指。張りのある肌。
 ……自分は、変わっていない?




 待っている。
 彼女に会える日を。
 来るかもしれない、来ないかもしれない。


 まだ来ない。
 まだ、…来ない。
 だから、待っていなくては。
 この地で。この世界で。


 彼女の羽根が降る冬。
 彼女の愛した春。
 彼女と歩いた秋。


 巡る季節の中で。
 待っている。
 待っている。


 ………待っている。
 彼女を。
 彼女。


 なにか―――伝えたい言葉が、あった。
 わからない。
 待っている。


 待っている…
 彼女。…彼女?



 だれかを。
 ……何のために。
 伝える、ため。……何を?

 それでも、自分は………




 早春の夜空を、青年は見上げた。

 時ならぬ雪が、ゆっくりと落ちてくる。
 それを掌で受け、青年はぼんやりとまばたきをした。
 待っている……。

 瓦礫の中から、もう一度、空を見上げる。
 つと雲が切れて、美しい満月がのぞいた。
 青年は、ゆるゆると紅いひとみをほそめた。




 ああ、……のどが乾く。





fin.


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