「…くそ」 酒場のざわめきの中。 木のさじを卓に放り出し、青年は毒づいた。苛ただしげに掻き上げた銀の髪が、灯りに透けて金色を帯びる。 「食えるか、こんなもん」 ばさりと法衣の裾を蹴りさばいて、立ち上がる。向かっていた卓には、ほとんど手つかずの軽食が取り残された。 「まったく…」 つぶやきとともに、煙草の脂で黒ずんだ扉を押し開け、酒場の外に歩み出る。 「どうしてこのあたりの料理は、こうも味付けの濃いものばかりなんだ? …喉がつぶれちまうじゃないか」 背後で音高く扉が閉まると、店内の騒々しさに夜の静寂が取って代わった。月の下、人気無く静まりかえった街路に、青年の声だけが虚しく響く。 「だから、僕は北国に来るのが嫌なんだ……セレン?」 最後は、呼びかけるように高く。 「はい…ロクス」 セレンは、明らかに自分に向けられたそれに、すごすごと中空から姿を現した。 「でも、寒冷地では、塩分の高い食事が理にかなっているのですよ。体を冷えさせないために…」 「そんなこた言われずとも知ってるよ、博学な天使さま」 そっけないさえぎりに、セレンは困って地に降り立った。肩が落ちるのに従い、だらりと両の翼が垂れる。 「あなたの意に添わない依頼をしたことは申しわけなく思います…けれど、今この地は」 凶暴な魔獣の被害を受けていて。 「おい」 …続きはまたもさえぎられた。険悪な紫の双眸が、セレンをじろりとにらむ。 「だいたい君はなんだって、来てるくせに姿を見せなかったんだ? 僕の素行調査でもしてるのか」 「え?」 セレンは、きょとんと瞳を瞬かせた。青年は不機嫌そうな顔で、セレンの応えを待っている。 「いえ、お食事が終わるまで、遠慮していようと」 セレンは、小さく首をかしげた。 「あんな人の多いところで、他の方には見えない私と話していては、周りの方たちがロクスをいぶかしむのではと思ったものですから」 青年は、少しのあいだ黙りこんだ。 「……なるほど。今更だと思うけどな」 皮肉げな口調と裏腹に、青年の表情がやわらいだのを見て取りセレンはほっとした。 「でも、そうすることでロクスを不快にさせてしまったのなら、すみませんでした。気を回しすぎましたか?」 「いいや、君は多少気を遣いすぎるくらいでちょうどいい」 青年は笑って、それからふと真顔になった。 「しかし、本当に今更だな」 表情のよく変わる人。それがセレンの彼に対する評価だったが、セレンは不機嫌さも何も隠さない青年の気性が好きだった。思わず微笑んでしまってから、あわてて表情を改める。幸い、ロクスには気づかれなかったらしい。 「どうしてそんなふうに思ったんだ? …誰かに何か、言われたか」 なんだか、また不機嫌そうに…。険を帯びたロクスの瞳に、セレンは困惑気味に眉をひそめた。 「いいえ。ただこの間、フェインと酒場でお話をしたんです。そのとき、隣に座っていた方がフェインに…『さっきから壁に向かって、なにぶつぶつ言ってるんだ?』と」 セレンは、その時のことを思い出して少しうなだれた。 「フェインは、気にしなくともよいと…けれど、彼はやさしい人ですから、私に気を遣ってくださったのです、きっと」 「ほう」 声がますます剣呑になった気がして、セレンは顔を上げた。 月に照らされ、青年の銀の髪が淡く光をはじいている。きれいに描かれた輪は、まるで精緻な冠を載せているようで、セレンは内心感嘆した。 じっと見つめていると、青年は嫌な顔をする。 「…ま、いいだろ。事情はわかった」 つまらなそうに、青年は言い捨てた。 あれ、もういつも通りのロクス、ですね。 よくわからない。セレンは内心首をひねった。 「それで?」 考え込んでいたところに問われ、セレンは素直に聞き返した。 「はい?」 「何か、用があって僕のところに来たんだろう。もう忘れたのか?」 「あ! はい、そうでした」 少しあわてて、セレンは白い小箱を差し出した。 「ロクスに使っていただこうと思って」 セレンの掌の上から、青年の白い指が箱を取り上げた。 「これを?」 金の留め金に指をかけ、ぱかりと開ける。青年は、軽く目を見開いた。 「へえ」 「…どうですか?」 指先を胸元で組み合わせ、セレンは相手の反応を待った。 「いい品だな。すごく綺麗だ」 珍しく素直な賛辞とともに、青年は箱の中から細身の指輪をつまみ上げた。目元にかざして、ふと怪訝そうな顔になる。 「しかし、君がいつも持ってくる装飾品とは、何か…違わないか?」 違和感を見極めるように、難しげに眉を寄せる。セレンは目を丸くした。 「すごいです、ロクス。よくわかりましたね」 「なにがだ?」 「その指輪。いつも持ってくるのは、ラツィエル様から頂いてきた品ですけれど…それは、このアルカヤのものなのですよ」 「は? ……買ったのか?」 まさか、と言いたげな青年に、セレンはふるふると首を振った。 「いいえ、もちろん頂いたのです」 「もらっただあ?」 すっとんきょうな大声に、セレンは驚いて背筋を伸ばした。 「ロ、ロクス、夜中にそんな大声出したら迷惑で…」 「誰からだ? …いや、言わなくていい。さっき言ってた、フェインとかいう奴だな?」 畳み込むような早口に、今度こそ本気でセレンは驚いた。 「どうしてわかったのですか? もしかしてロクス、癒しの手以外にも不思議な力が!?」 「セ…セレン…おまえな」 何か言いたげに、青年の口が開き、そして閉じた。 「あの…ロクス。もしかして、気に入りませんでしたか?」 引きつった顔で黙りこくった青年に、セレンはおそるおそる尋ねた。 「あのなあ…」 呟き、空いた手で顔を覆った青年の、表情をうかがおうとした途端。 「男からの贈り物なんて、僕がつけられるわけないだろうがっ!」 「そ、そんなっ!」 至近距離で怒鳴られて、セレンは軽く飛び上がった。 「そんなことを言ったら、せっかく下さったフェインが悲しみます…」 言いながら地に再び足をつけたセレンに、青年は嫌そうな半眼で返した。 「僕がつけてる方が絶対悲しむと思うぞ」 「そんなこと…あ、もしかして大きさが合いませんでしたか? 確かに、ちょっと小さいかなとも思いましたが…でもほら、小指にならはまると思いますよ?」 「……つまりこれは、女性用なんじゃないのか…? ああ、もういい」 急にぐったり疲れ切ったような顔で、青年はこめかみを押さえた。 「…どっか行ってくれセレン」 「そんな、ロクス……ロクス? 頭痛がするのですか? 大丈夫ですか?」 あわてて、セレンは青年の顔をのぞき込んだ。 「…僕は大丈夫だ。僕は、ね」 青年はなにかに耐えるようなしかめっつらで、ため息をはいた。それから、セレンの目の前で思い切り手を振った。 「いいから行けっ。この鈍感天使!」 「きゃあっ!!」 飛びすさってそのまま、彼の天使は空へと舞い上がった。そのばさばさと重い羽音を聞きながら、ロクスはもう一度深いため息をついた。 しばらく続いていた羽音は、突然ふっとかき消える。彼女は差し迫った理由がない限り、こうして少し自分から離れてそれから、転移の魔法を使うのが常だった。…たぶんこれも、何か彼女なりの配慮なのだろう。目の前で消えると失礼だとか何とか。 そう、別に天使は、無神経というわけではないのだ。ただその気の遣い方が必ずしも適切ではないというだけで。 掌に残された指輪に、ロクスは目を落とした。しげしげと眺める。 つやを消した銀は派手すぎず、繊細な意匠に合っている。どうやら、何らかの魔法も込められているようだった。 憶測になるが。これは、魔導剣士だという勇者が自ら込めた祝福ではないか? 「…指輪、ねえ」 フェインとやらが、何を思ってこれを天使に贈ったのかは容易に想像できてしまうわけで。 「報われない奴」 つぶやいて、それからロクスは自己嫌悪に落ち込んだ。 「待て。……それはつまり、僕もってことか?」 fin. |