■  翼の距離  ■




「…理不尽だ」
 ざくざくと膝丈の雪を踏みわけながら、ロクスはうなった。
 空を見上げてみる。蒼い。視線を戻す。…白い。
 そこは、山の中にぽっかり開けた雪原だった。あたり構わず積もった雪に、陽光がはねまわるようにして反射している。
 どうして自分は、こんなところにいるのだろう……って、天使の依頼を引き受けたからか。
 自分でつっこんで、更に気がめいる。
「なにか言いましたか、ロクス?」
 ふわりと、空気の動く気配がした。
「……理不尽だ、と言ったんだ」
 視線に険をこめて、ロクスは気配の方をふり返った。
 法衣の上に着こんだ革の外套のせいで、どうにも動きが鈍くなる。視線の先には、すでに翼ある乙女が舞い降りていた。
「あの…ロクス」
 白くかがやく雪原の中で、負けず劣らず天使は色素が薄かった。雪白の肌、純白の羽根、ごく淡い色のローブ。風に流れる薄茶の髪だけが、白い景色を切り取っている。
「…私、なにかしましたか?」
 困惑したように、天使は指を組み合わせた。その柔らかそうな編み上げ靴のつま先は、積もった雪の表面すれすれに浮いている。
「……自覚がおありのようで、たいへん結構」
 ロクスは結んだ口の端を、皮肉を含んでつり上げた。
「ついでに君のどこが問題なのか、理解してくださるともっとありがたいんだが」
「どこが問題なのでしょうか?」
 素直な声音に問い返され、ロクスは苛だちが増すのを自覚した。
「…あのなあ、セレン」
 革手袋に包まれた手で、目に入りそうな前髪を払いのける。雪のついたそれは冷たかったが、触れた顔もすでに痛みを覚えるほど冷え切っていた。
「僕がこんっなに苦労して雪中を歩いてるってのに、後ろからふわふわついてこられていい気分なわけないだろう!」
 しかも今は、肩も腕もむき出しにした薄着で平然として。ロクスは天使をにらみつけた。
「あ…すみません、気がつかなくて」
 天使は、小さく翼をふるわせた。ぽす、と小さな音を立て、雪原に足をつける。と言うより、雪の中にはまりこむ。
「それでは、私もともに歩きます。それならいいですよね」
 翼と太股の半ばまで雪に埋もれ、天使はロクスを見上げてきた。
「……………」
 ロクスは、半眼で天使を見つめた。
「…駄目ですか?」
「…いや。君がいいならそうしてくれ」
 くるりと身を返し、ロクスは歩き出した。表面が半ば凍った雪は堅く、ひどく歩きにくい。
 ざくざくざく、ざく。
「ロ、ロクス!」
 後ろから、あわてたような声が追いすがった。
 ざくざく。ざくざく。
「ロクス、待ってくださいっ」
 悲痛な呼び声に、ロクスは後ろを振り返った。案の定、一歩も進めずにいる天使の姿が目に入る。
「……君にこんなところ、歩けるわけないだろ」
「い…いいえ、少しだけ待ってください。ついていきますから!」
 悲壮な決意を瞳に浮かべ、天使は雪の中で動き出した。白い翼が、雪の中でばたばたと羽ばたく。
 ほとんど前のめりになり、腕まで使って雪をかきわけている姿は、真剣な表情を除けばこどもが雪と戯れるさまと大差ない。遅々として進まない天使の歩みを、ロクスは半ば呆れ、半ば面白がりながら眺めていた。
「いいかげんあきらめないか、セレン」
 必死なのかそれともムキになっているのか、ロクスの言葉に反応せず、天使はゆっくり近づいてくる。
「おい、セレン…」
 もう一度呼びかけようとして、ロクスははっとした。
「……ちょっと待て!」
「え?」
 きょとんとして顔を上げる天使に、ロクスは雪を散らして駆け寄った。
「腕! …見せてみろ」
 白い雪の上に、深紅の血が散っている。
 雪の中から引っ張り上げた天使の腕には、凍った雪にすられて一筋の傷ができていた。
「あ」
 驚いたように、天使が声を上げた。
「血が出ていますね」
 ロクスは思わず顔をしかめた。白くなめらかな腕に走る紅い傷は、ひどく痛々しく映る。
「出てますね、じゃないだろ。気がつかなかったのか」
 こくりと天使は頷いた。氷片にまみれた薄茶の髪が、きらりと光を反射する。
「ったく…じっとしてろよ」
 ロクスは手袋を脱ぎ捨てた。途端に、外気が手からぬくもりを奪っていく。
「ロクス、私なら別に…」
 ロクスの意図を察したらしく、あわてて止めようとする腕をつかむ。
 天使の傷に触れないように、ロクスはそっと掌を寄せた。意識を指先に集中する。
「…悪かったな。珍しく反省してるんだから、これくらいさせろ」
 癒しの力を使うとき、感じる熱がゆっくり集まってくる。
 と、見ているそばから、じくじくとにじんでいた血が止まり、薄皮が張り、気がつけば天使の腕は元通りの白いそれになっていた。
「これは、……?」
 ロクスは、困惑して自分の手を見つめた。大した傷ではなかったとはいえ――早すぎる。
「……すみません、ロクス」
 思いを破るように、抑揚のない声が耳を打った。感謝とは言いがたい響きに、ロクスは天使へ視線を戻す。
「なにを謝ってるんだ?」
「あの、…私は」
 天使は、そこで言いよどんだ。しばらく後、意を決したように続ける。
「…この身体は、痛みを感じることはありません」
「はあ?」
 うつむく天使に、ロクスは問い返した。
「痛くない? …それじゃ、怪我したってわからないじゃないか」
「ええ…認識の必要が、ありませんから」
 天使は、視線を雪の中に落としたままうなずいた。
 ロクスは眉をひそめた。
 何が言いたいんだ? この天使は。痛くないから、癒してくれずとも結構だとでも?
 思いながら、さしあたっての疑問を口にする。
「必要がないとは…わからないな。生物は痛みを感じるからこそ傷をいたわり、回復を早めようとする。現に君も今、傷を負ったじゃないか」
「けれど、すぐに治ってしまったでしょう? あなたの力だけでそうなったのでないことは、おわかりのはずです」
「…まあな」
 沈鬱に言う天使に、ロクスは不承不承同意する。天使は、軽くうなずいてみせた。
「天使は本来、魂のみの存在です…物理的な干渉によって、その存在が損なわれることはありません。今は、こんなふうに実体化していますから…」
 天使は、ほっそりとした腕をかざしてみせた。
「先ほどのように、実体化した身体が傷つくことはありますが。たとえ剣で首を落とされたとしても、その時の身体が失われるだけで、私という存在は消えません。もう一度、力を使って身体を再構成すればいいだけの話です…」
 天使は、小さく息継ぎをした。
「だから、痛覚は必要ありません。…いいえ、むしろ単なる妨げです」
「…なるほど」
「その上にちょっとした傷ならば、実体化に必要な力が補充されることで、すぐに治癒します。強度こそ人間と変わりませんが、とても丈夫なのですよ、この身体は」
「……で? けっきょく何が言いたい」
 自分でも、険のある声だったと思う。
 ほんの少し、天使は微笑んだようにも見えた。ひどく力のない笑み。
「何の意味もないことに、あなたの力を使わせてしまって… …すみません、ロクス」
 ロクスは、小さく息を吸った。
「バカか? 君は」
 天使が、薄い青灰色の瞳を見開いた。
「意味があるかないかは僕の決めることだろう。君はそんな理由で、僕の自己満足も邪魔するのか?」
「でも…ロクス」
 ロクスは、もの言いたげな天使をさえぎった。
「だいたい何だ。まとめて言えば、ほっといても回復するし痛くないってだけの話に、どうしてそこまで重くなる。いくら僕だって、それくらいの無駄骨で怒りはしないぞ」
 目に見えて、天使の表情がこわばった。うすい色のひとみが、濡れたように深くなる。
「わたし、わたしは…」
 しばらくしてから、ぽつりと天使は言った。
「……こんなの、普通の生き物とは全然違いますよね。ロクス、気味が悪いでしょう?」
 天使は悄然とうなだれている。ロクスは、ため息混じりに言った。
「違うところがあるのは当然だ。君は天使なんだから」
 天使の肩が、小さく、けれどはっきりと震えた。
 ―――いったい全体、どうしたっていうんだろう。
 ロクスは、かるく顔をしかめた。自分の知る限り、天使は常に前向きで、自らの在りように誇りを持っていた。その彼女が、こんなふうにその身を卑下するようなことを言いだすなんて。
「人間じゃないのは確かだが、それがなんだってんだ? …君は君だろう」
 ゆっくりと天使は顔を上げ、ロクスを見た。まなじりにたまっていた涙が一粒、瞬きの拍子にぽろりとこぼれ落ちる。
「私は…」
 天使は、かるく唇を噛みしめた。色を濃くして、その跡が残る。
「私は、ロクスに…理解のできない異質な存在だと、思われたくないのです」
「……何を言い出すかと思えば…」
 ロクスは、大きく息を吸い、それから吐いた。
「今日の君は、ほんっとうにバカだぞ。異質だから理解できないなんて、本気で思ってるのか?」
「それは、でも…」
 天使は、そのローブの裾を握りしめた。ゆったりとした生地に、不自然なしわが寄る。
「…ここまで言ってもわからないみたいだから、言うけどな」
 いったん言葉を切って、ロクスは声を強くした。
「君は君だって、言っただろ。さまざまな違いは、ようするに君が天使として持っている性質であって。僕にとっては、一つの人格の持ち主として認識するに、なにも不都合があるわけじゃない」
 わからず屋の天使に、ことさら冷たい声を作って言い放つ。
「これでも君と、相互理解を深めてきたと思ってるんだ。それはぜんぶ気の迷いだと、そう君は言いたいわけか」
 さすがに、これは効いたらしい。天使が大きく目を見張った。
「あ…」
「わかったか? セレン」
 未だかすかに濡れた天使のひとみが、泣き笑いのように細くなった。
「……ごめんなさい、ロクス。本当に私、少し変でした」
 ひとみをうるませながらも微笑む天使は、ひどく愛らしかった。さっきだって本当は。水晶の欠片みたいな涙が、こぼれたその時。手を伸ばして抱きしめて、泣かないでくれって口づけたくなった。

 ―――僕はな、セレン。
 ロクスは、心の中だけでつぶやいた。
 別に天使だとかそんなことに関係なく、君のことが気に入ってるんだ。
 ……ひとりの女の子としてね。
 口に出さなかった本音の代わりに、ロクスは軽口を叩くことにした。にやりと笑う。
「ところで、セレン。雪山で男女が相互理解を深める、一番いい方法を知ってるか?」
「はい?」
 不思議そうに、天使は首を傾げた。
「ちょっと、手を出してくれ」
 素直に、細い腕が差し出される。いまだ手袋を脱いだままの手で、ロクスはその腕を取った。
 思い切り引き寄せる。
「きゃあっ!」
 倒れ込んできた天使の身体は、あっさりとロクスの胸におさまった。
「な、なにを……ロクス!」
 腕のなかで逃れようともがく身体が、小動物か何かを抱いているようだった。
 思わず、のどを鳴らして笑ってしまう。この身体がかりそめだろうと何だろうと。
「……あったかいし、やわらかい。僕にはそれで十分だ」
 と、腕の中の感触がかき消える。天使は、息を荒くして少し離れたところに浮かんでいた。
「お?」
 一瞬遅れて理解する。…転移の魔法か。
 天使は、頬をうすく上気させてこちらを見ていた。
「…ロクス!私をからかったのですねっ!」
「いや、ある意味本当なんだけどな」
 つぶやきは、天使の耳には届かなかったようだった。
「帰ります! お邪魔しました!」
「おい、ちょっと待て…」
 言い終わる間もなく、天使の姿は消えていた。
「………そんなに怒らなくたっていいじゃないか…」
 明るい雪原に、取り残された勇者の声はむなしく落ちた。




 セレンは、思い切り翼を羽ばたかせ、上昇していた。
 びゅうびゅうと風がなっているのに、耳に残った響きが消えてくれない。
 ロクスのささやきが、がんがん響いているような気がする。ああ、それも何もかも気のせいなのだけれど。
『……あったかいし』
 この天使の身体は、熱も冷気も感じることはない。
 でも、それを感じることができたなら。きっとあなたと一緒に、寒いねと笑って、まわされた腕に暖かいと微笑むことができるのに。
 そう思うことは何故だかとても辛くて、痛むはずなどない胸がかすかに痛んだ。

 ロクス。あなたは、天使でもいいと言ってくれたけれど。
 セレンは、白くかがやく大地を見下ろし、目を伏せた。

「それでも私は、……ロクスと違う存在であることが、悲しかったんです……」





fin.


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