■  月に堕ちる  ■




 ふと、夜更けに目が覚めた。
 寝台からゆっくり身を起こすと、クライヴは乱れた前髪を気だるく払った。かるい渇きに、寝台脇の卓にあった水差しに口をつけ、のどをうるおす。
 くちびるの端をぬぐって、クライヴは息をついた。
 …今、何時くらいだろうか。
 月の傾きをたしかめようと、静かに寝台を降りる。
 窓をおおう日除け布の合間から、月の光が射しいっていた。しんと青みを帯びた明るさのなか、水底を歩いているような感覚に軽い目眩を覚える。
 布を払いのけ、触れた窓硝子はひやりと冷たかった。かまわず、窓を押し開ける。
 開けた窓から身を乗りだす。クライヴは、月の明るさに目をわずかにすがめ、それから大きく見開いた。
 ――――銀盤は、完全な円を描いていた。青ざめた影が、月の海をかたどっている。
 クライヴはとっさに月から目を背けた。自分で、かすかに指先がふるえているのがわかった。そのふるえる指で、布を元のようにととのえる。
 それから、ゆっくりと寝台をふり返った。
 そこには、こちらに背を向けて丸くなっている、ほっそりとした肢体があった。亜麻色の髪が、寝台の上で無造作に散っている。
 ゆるやかに上下する背中に、目覚める気配はない。ただ、クライヴが起きあがったはずみにうわかけが落ち、衣をまとわぬ背中があらわになっていた。
 クライヴは、おぼつかない足取りで寝台へと腰を下ろした。
 薄闇の中、白く浮かびあがる肌に指を伸ばす。乱れた髪をまとわりつかせたうなじは、しっとりと温かく、やわらかかった。そのまま肩へと指をつたわせる。なめらかな肌に包まれた、やわらかな身体。女性という、自分とはまったく別の生き物。
 手を背の方へわずか下ろすと、丸みを帯びた肩胛骨が触れた。そこに、ひとすじだけ漏れた月の光が落ちている。肩の下に痛々しく浮かぶそれは、淡くはじいた光に、真珠に似たつややかさで目をとらえた。なぞるように指を滑らせる。
 ここから、白い翼がのびてくる。
 ふとそんな考えに捕らわれた。蒼白い背からしなやかに持ち上がる様を思う。
 以前、ここにはたしかに、翼があった。
 …彼女は、比喩でも何でもなく、ほんとうの天使だったのだから。
 クライヴは引き寄せられるように、翼の痕にくちびるをつけた。そこに何もないことを確かめるために。舌を這わせた肌は、ひどく甘く思えた。やわらかな髪をかきわけ、そのままくちびるをうなじに滑らせる。かるく吸い上げ、上から歯を立てた。
「………ん」
 まだ眠りのうちのような、甘くぼんやりとした声がクライヴの耳をかすめた。
「う……ん……」
 白い背中が身をよじる。クライヴは、はっと身を起こした。
「………あ、…クライヴ……?」
 彼の天使が、ゆっくりと寝返りを打った。寝台に横になったまま、淡くけぶったひとみが開く。
 その薄青のひとみは、闇の中で常よりずっと深い碧に沈んでいる。
「………すまない」
 クライヴは呟いた。
 白い乙女は、その薄茶のまつげを、ごくゆっくりとまたたかせた。
「……クライヴ?」
 するりと、クライヴへそのしなやかな両の腕が伸ばされた。身を引きかけたクライヴの背中を捉え、引き寄せる。
 腰掛けていた姿勢からそのまま寝台へ身を倒すかたちになって、クライヴは彼女とごく間近に向かい合った。
「どうしたのです…?」
 寝起きの、やわらかな甘い声。
 ゆるやかに目を細め、乙女は微笑みかける。
「俺は、………」
 言葉がうまく出なかった。そのうちにだんだんと、向かい合った青灰色の瞳から眠りの名残が消えていく。
「クライヴ、…寒いのですか?」
 とまどうような声音で、問いかけられる。クライヴはかぶりを振った。ふるえる指先を、もう片方の手で押さえ込む。
「俺は…」
 クライヴは、乙女の肩に頭を押しつけた。ふわりとやさしいにおいがする。
「………怖いんだ」
 ほっそりとした腕が、そっとクライヴの背を抱きしめた。
「クライヴ……」
 せかすでもなく、おだやかに見守っている気配がする。
「なにが、あなたを悩ませているのか……聞かせては、もらえませんか」
 クライヴは、まぶたに力を込めて堅く目をつむった。
「………自分が」
 押し出すように、声を出す。
「俺は、…………自分自身がおそろしい」
 自分にも聞き取れるかどうか知れない、低いささやきだった。
 腕のなかの彼女。
 ずっと胸の裡で凍っていた怒りを溶かし、おだやかな時を与えてくれた、自分だけの天使。彼女にみちびかれて、夜の世界から逃れ、陽光のもとへと…自分は足を踏み出すことができた。
 だのにこんな夜、ふとよみがえる不安がある。
「あいつの話を、おまえも聞いていただろう…?」
「あいつ…?」
 そのまま繰り返した声に、うなずく。
「聖母の語った、……あいつが、…レイブンルフトが生まれたときの話だ」



 セレンは、軽く目を見開いた。
 青年の言わんとすることを理解して。
「クライヴ…」
「……あの男も、心あずける相手を見つけ、……ともに生きようとした」
 腕に抱いた青年の声は、かすかにふるえていた。
 満月の夜。彼の父親、先代の勇者ヴァスティールは―――― 愛する女性と我が子をみずからの牙にかけ、永遠に心を失った。
「……もう、血の呪縛を感じることはない… ……怒りが、俺の自我を奪うことも、………だが」
 それでも、と彼女の勇者はささやく。
「怖いんだ… 目が覚めたときにのどが渇くのは、君のうなじにくちづけたいと願うのは、……」
 くっ、と青年ののどが、嗚咽を呑み込むように鳴った。
「………もしかしたら、と」

 ―――― ああ。
 ふいに、泣きだしたいような思いがこみ上げるのを、セレンはこらえた。
 もう、わたしは天使ではないのだ。
 彼に祝福を与えることも、光の守護をもたらすことも、彼の闇を透かし見て安心させてやることも、……自分にはもう、できはしない。
「クライヴ……」
 でも。
 セレンは、肩口にあてられた青年の頭をつよく抱き寄せた。
「クライヴ、…泣かないでください」
 翼を、聖なる力を失い、人間と同じく古き竜の血を宿して。
 自分は、彼のそばにいるためのすべてを得た。
 抱きしめるための腕を、あたたかさを感じる肌を――――人のからだを。
「だいじょうぶ。クライヴは……だいじょうぶです」
 だから、……後悔はしない。

 さらさらと流れる黒髪に口づけて、セレンはそっとささやいた。
「わたしは、ずっとずっと…あなたのそばに、いますから」


 たとえこのひとと二人、夜へ墜ちるのだとしても。





fin.


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