さよならですね、レイヴ。 透き通るやわらかな声。 いままで、ありがとうございました。 おだやかな笑みに、腕は指先は動かない。 呼吸さえもままならない。そんな自分に、彼女は気づいていないのだろう。 ゆっくりと背の翼が広がる。 眩しいほどのひかりの中、ばさり、と。 つばさの音が、 ふっと目が覚めた。 いまだはっきりしない意識を抱え、男はゆっくりとまばたきをした。寝台から身を起こす。 見回した部屋の中はぼんやりと青く、薄明るい。 夜明けが、近いのだろう。 ………何故、自分はここにいる? 突如浮かんだ奇妙な問いに、男はかるく首を振った。 昨晩、寝台に入って、そして、目を覚ました。 ――――それだけのはずだ。何故もなにもない。 だのに、この息の詰まるような喪失感は、なんだ。 ゆっくりと息を吸い、吐き出す。 痛みは消えず、けれど足下が定まらないような不可思議な混乱は、徐々に薄れていった。 そうだ、自分は。 まるで刷り込まれた台本であるかのように、「これまでの自分」が呼び起こされ、過去と現在をつなぎ合わせていく。 長らく勤めた騎士団長の位を返上し、国境近いこの地の守備隊への転属を願った。そうしてそれは受け入れられ、ここにいる。 なぜ、そうしようと思ったのだったか? 一瞬よぎった疑問は、けれど明瞭な答えを得ることなく、思考の中に沈んでゆく。 地の実りを求めて働く時間はいくらあっても惜しく、けれども日が落ちてしまえば人の手になる灯りは贅沢となる。夜明けに始まり、日の入りに終わる、この地の一日の在りようにはすっかり慣れた。 その基準からすればいささか早い目覚めの原因を求め、しばし思いを巡らせる。 結局思い当たるものもなく、男はゆっくりと立ち上がった。窓辺に近づく。 紗を払えば、夜明け前の青く透明な空を、黒々とした林が影絵のように切り取っていた。 息を深く吸いこむ。冷たく湿った空気が、するりとのどを流れ落ちた。 静寂のなか、ふいに近くからか細いさえずりが上がる。 窓辺近くに伸びた木の枝、そこに止まったあわい青灰色の小鳥を認め、男は眼を細めた。 そこにもう一羽、同じ色合いの小鳥がぱたぱたと舞い降りる。 その、小さな羽の音。 男は顔をしかめた。なにかが頭のすみをかすめる。 翼の、音を聞いた記憶。 探るそばから、その輪郭は曖昧になって、男はもどかしくこめかみを押さえた。 「…くそ」 呻きに驚いたのか。軽い羽音と共に、小鳥たちが飛び立つ。 とっさに伸ばしていた手に、男はついと目を落とした。 いぶかりながら、ゆっくりと握りこむ。 不可思議な記憶。あるいは、それは。 「夢……だったか」 つぶやいてみれば、それは案外すとんと胸に落ちた。 陽が昇る。 さっと眩しい一条のひかりが、男の目を射った。 世界を照らす光が、朝霧を、在るはずのない痛みを、かなしく、やさしく、おぼろげなすべてを打ちはらっていく。 濃茶のひとみが、すっかり宵の気配を失った木立を見晴らす。 晴れやかに、男は笑んだ。 「…いい朝だな」 偽りの日々は消え失せて。 ここから新しい世界が、始まる。 fin. |