■  透ける月  ■




「……」
 天使の伸びやかな声が、強い海風にちぎれて飛んだ。
 前髪がばしばしと頬を打つ。それを押さえながら、ロクスは聞きかえした。
「ああ? なんだって?」
 微笑みとともに、天使が振りかえる。今度ははっきりと聞こえた。
「きれいですね、ロクス」
 天使はうすい青灰色のひとみを、ここちよさげに細めた。
 その靴を脱ぎ去った足に踏まれ、白い砂が音を立てる。透きとおった波が、天使のつま先からほんの少しはなれたあたりまで滑りこみ、退いていった。
 自然、目がいった天使の素足をじっくりと、ロクスは眺めた。
「ああ、うんまあ、…きれいなんじゃないか?」
 真っ白できめ細やかな肌の、かかとだけがほんのりとやわらかな薄紅に染まっている。すべすべした爪のきれいな桃色が、桜貝を連想させた。
「ロクス、今、すごく適当に返事をしませんでしたか?」
 率直な問いに、視線を足から天使の顔まで引き上げる。
「いや、ごくごく真剣に意見を述べたぞ僕は」
「…そうでしたか?」
 天使は小首を傾げたが、それ以上つっこんではこなかった。
 目の前に開けた海原へ向き直り、ばさりと大きく翼を広げる。
「…きゃっ!」
 とたん、ちいさな悲鳴が響いた。帆を張った案配で風に押されたらしく、天使は砂浜にぺたんとしりもちをついていた。
「び、っくりしました…」
 素直な声音に、思わずロクスは吹き出した。
「何がしたいんだ、君は?」
 一歩ずつ沈み込む砂を踏み、へたり込んだ天使の傍らに立つ。
 ふっと、気負いのないまなざしがロクスを見上げた。
「鳥は、砂場で転げ回って砂浴びをするものらしいけど。まさか君もそうしたいのか?」
 天使は少しひとみを大きくして、首を振った。
「いいえ、私はそんなことをしません」
 素で返され、ロクスは一つため息をついた。
「……冗談だよ。まじめに答えないでくれ」
 困ったような顔で、天使は翼を揺らした。さらさらと細かく砂が落ちる。
「…ほら」
 ロクスは天使の腕をつかむと、ぐいっと思い切り引き上げた。さしたる抵抗もなく、天使の身体がつり上がる。ロクスは思わず顔をしかめた。
「軽いな。ちゃんと食べてるのか?」
 天使は片腕でつり上げられたまま、不思議そうな声音で言った。
「いいえ、ロクス。私は特段、食物を必要としませんから」
 勢い、渋面が深くなる。
「ああ、…そうだったな。言ってみただけだ」
 なんとか天使を自分の足で立たせ、手を離す。
「ったく…砂まみれになってるぞ」
 天使はひとみをしばたかせた。それが何か、とでも言いたげに見つめてくる。
「だから、…ああもう、世話を焼かすなっ!」
 いらいらして、ロクスは思わず手を出した。細い肩をつかんで、ぐるりと回転させる。
「ちょっと、じっとしてろよ」
 言いながら、ばしばしと翼の伸びる背中をはたいて、砂を落とす。ついでにかがんで大きな翼のはしをつかんだ。
 つかんだ手にはびくんと震えが伝わったが、かまわずつかんだ羽根を引っぱって揺らす。
 さあっと、羽根のあいだから砂が落ちてきた。
 その流れがとりあえず止まったあたりで、ロクスは天使の翼を放り出した。
「ま、こんなもんだろ」
「あ、…ありがとうございます、ロクス」
 ふり返った天使の髪が、ふわりと背からの風に広がった。さらさらの亜麻色髪がもつれて、なんともすごい様相になる。それを見ながら、ロクスは言った。
「もう、いいだろう? …いいかげん街に戻らないか」
「え? でも、あの…もう少しだけ、いてはいけませんか」
 見上げてきた天使にロクスは肩をすくめた。あきれた、という意思表示が半分、後半分は、身体が冷えてきたからだ。強い海風は、あっという間に体温を奪い去っていく。
「もう半時前にも、君は同じことを言ってた気がするんだけどな」
「それは、そうなのですが…」
 口ごもる天使を横目に、ロクスは浜を見渡した。
「そりゃあまあ、たしかにここは…」
 透きとおる波打ちぎわから視線を遠くへ移していけば、透明感はそのままに、淡い碧の色合いがだんだん深くなっていく。知らず、ロクスは目元をなごませた。
「きれいだけどさ」
 天使の依頼でやってきた先は、風光明媚で知られた浜辺だった。散策にはおあつらえ向きなことに、人気はまったくない。それは偶然でも何でもなく近くの岩礁に巣くった海竜のせいだったが、昨晩ロクスが退治してしまったので、こんなふうに貸し切り状態にできるのも今だけだろう。
 なんだかんだ言って、それはまあもちろんロクスだって、綺麗なものは嫌いじゃない。
「…まったくしょうのないヤツだな。もう少しだけなら、つきあってやっても…」
 ばしゃん!
 言いかけた言葉は、派手な水音にさえぎられた。
 見やった先には、すこし離れた波打ち際に倒れ込んだ、天使の姿。
 慌てて、ロクスは声を上げた。
「おい、セレン!?」
 砂と水とを蹴散らし、天使のそばに膝をつく。天使は、ゆっくりと上体を起こした。
「すみません…ロクス」
 地についたその手元に波が寄せ、砂を削り取っていく。
「波に、足を取られてしまって。…転びました」
 息切れに肩を揺らしながら。ロクスは、黙って天使のつむじを見おろした。顔を上げた天使と、ちょうど目が合う。
「………………」
 天使の、色を濃くした髪の先から、ぽたぽたとしずくが落ちている。
 もう何を言う気力もなくし、ロクスはへたりこむ天使の襟首を、ぐいとつかんだ。


「こんなことは言いたかないが」
 濡れたローブをまとわりつかせた足から、しずくを垂らしている砂まみれの頭まで。
 ロクスは、目の前に立つ天使をざっと検分した。
 さまざまな思いが脳裏をよぎる。が、その大部分を呑み込んで、残った部分だけをロクスは告げた。
「今の君じゃ、人外は人外でもバンシーか、でなきゃいいとこセイレーンだな」
「…そうですか?」
 モンスター呼ばわりされた天使は目を落とし、濡れたローブの裾をつまんだ。すらりと伸びた、白い足があらわになる。
「少なくとも僕は、こんな格好のヤツと街中を歩くなんて死んでもごめんだぞ」
「でも、ロクス」
 天使は、ちょっと小首を傾げた。
「あなたも、同じような風体ですよ」
 ロクスは、半眼で天使を見つめ返した。
「……誰のせいだと思ってるんだ、君は?」
「す、すみません!」
 あわてて頭を下げた天使から、ロクスはふうと顔を背けた。
「君が謝ってくれたからって、服が乾くわけじゃない。すまないと思うならもう、帰ってくれないか?」
「え、でも、それでは……せめて、ロクスが早く街まで戻れるように私、同行して祝福を」
「悪いけど」
 ロクスは、言いかけた天使をきっぱり遮った。
「そんなみっともない格好した君に、ついてこられたくなんてない」
「でもロクス、私は他の方には見えないわけですし…」
「僕が、嫌だと言ってるんだ。何度も言わせるな」
 一言ずつ切って言い放つ。天使は、さすがに悄然とうなずいた。
「……わかりました、ロクス」
 天使が両の翼を広げた。重たげに濡れた羽根が、陽光をちかちかと反射する。
 目の端にそのきらめきを引っかけながらそっぽを向いて、ロクスは天使の気配が消えるのを待った。



 冷たい海風が吹き抜ける。
 急に、身体が冷えてきたのに気づき、ロクスは小さく身震いした。
「くそ。…本気で風邪引きそうだ」
 嫌な感じに寒気がする。だが、それでも。あのままってのは色々と。
 ぱちんと、先の天使の姿が脳裏に映る。
「なんで、あんなにあんななんだ…?」
 ロクスは、思わずため息を吐いた。
 涙を含んだように、濡れたひとみ。
 張りついた薄いローブが、かたちの良い胸をあらわにして。
 うっすら透けていたのは、淡い色の…
 順々に思い出すだけで、はっきりと眩暈がした。
 この程度で余裕を無くすほど、女性に縁遠いわけじゃないのに。他の男勇者どもならともかく。自分なら、笑って観賞できる範囲のはずだ。
 ロクスは口元を覆い、小さくうめいた。
「……僕も焼きがまわったな」
 以前、天使は言っていた。
 彼女に痛覚はないのだ、と。それは、必要のないものだから。
 それでは。彼女の身体は、触れあうことの快楽を、覚えることもないのだろう。きっと。
 ロクスは思わず天を仰いだ。
「反則だよなあ…」
 こっちはこんなに、イカレてるってのに。
 仰いだ空に、うっすらと月が浮かんでいた。
 真昼の月。
 透けるように淡く、触れればあっさり溶けそうな。けれど、けして触れることあたわざるそれ。
 気だるさにまかせ、ロクスはどさりと波打ち際に座り込んだ。一つ波が寄せるたび、冷たい水が足をひたす。けれど、格好を気にするのももう馬鹿らしく。
 寄せてきた海を一すくい、ふと手のひらにすくい取る。
 その小さな水面に、白い月を映しこむ。
 彼女と同じだ、と思う。

 天上の永遠が、この虚ろなる地上に落とした影。
 水に映った月影のように。すぐ傍に降りたようでいて、その本質はここにない。

 ロクスは小さく笑った。
 月を取って、とねだるこどもを笑えない。
 力ずくでも引きずり下ろしたいとねがう、自分がいるから。
 ロクスは、呟いた。
「いつか、…きっと」

 今はこの月のように、うつろな存在だとしても。






fin.


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