■  夕べの歌  ■



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 夕闇の中。この世のなにもかもの輪郭が、ぼんやりと溶けていく。
 街の広場、その中央にある泉の石縁に腰を下ろし、クライヴはそのさまを眺めていた。
 広場にはすでに人影もなく、背にした泉から、ただこぽこぽと水の生まれる小さな音だけが聞こえてくる。
 小さな街だった。クライヴが首をめぐらせれば、広場から南北に街路が延びた先、街と荒野を仕切る隔壁が見て取れる。ここ数日間逗留していたが、昼眠り、夕に目覚める生活の中で他者と接する機会もなく、クライヴにとっては特段の感慨もありはしない。
「……そろそろ、行くか…」
 旅支度を背に負い直し、クライヴは立ち上がった。これ以上遅くなれば、隔壁の門が閉まってしまう。
 と、耳にかすめた音の切れはしが、踏み出しかけた足を引き留めた。
 常人よりすぐれた聴覚を澄ませ、クライヴは目をほそめる。
 切れ切れの、美しい音楽。…それは、神を讃える歌だった。教会の夕べの祈りかなにかが、風にのって流れてきたのだろう。
 クライヴは、かるく目を閉じた。聞きおぼえのある歌。…どこでだったか。
 思い当たる前に、閉じた視界に触れるひかりを感じ、クライヴはまぶたを上げた。
「こんばんは、クライヴ」
 淡く光をまとう翼と、伸ばした薄茶の髪を背に負って、微笑む天使の姿がそこにあった。そのつまさきが、ふわりと街路の石畳に降り立つ。細い髪と燐光とが、宙にわずかな軌跡を描いた。
「あの、…どうかしたのですか?」
 天使は小首をかしげ、常通りの気負いなさで言ってきた。立ちつくしていたことを問われたと知って、クライヴはかぶりを振った。
「いや、…大したことではない」
「そうなのですか? …」
 またたきをした天使が、ふとなにかに気を取られたように、おとがいを上げた。集中するように、うっすらとそのひとみを閉じる。
「…セレン?」
 クライヴの呼びかけに、天使はつぶやいた。
「歌が、聞こえますね。とてもきれい……」
 それから、天使はふっと目を開けた。自分を見つめる淡い青灰色のひとみに、クライヴはほんの少しだけひるむ。
「クライヴも、この歌を聴いていたのですか」
 そのまっすぐな視線に返答をうながされ、しばらくの沈黙の後、クライヴはうなずいた。
「……ああ」
 天使はうれしそうに微笑んだ。ゆっくりとひとみをまたたかせ、また耳をすませるふうにする。
「私には、この地上の歌のことはよくわかりませんが…良い曲ですね」
「…そうか」
 人の子が作った天への賛歌を、天使が知らない。当然のことだろうが、歌う者を思えば、クライヴには多少滑稽な話であるようにも思えた。
 しかし、天使は続いてため息をついた。
「歌う人の、祈りが…私にも、伝わってきますから」
 クライヴは、思わず天使を見つめた。気づいたふうもなく、天使は首をめぐらせる。
「どこから、聞こえてくるのでしょう」
「多分、…この街の教会からだろう」
 天使は子供のように目を丸くして、クライヴを見た。
「どうしてわかったのですか?」
「……賛美歌だからな」
 言いながら、思い出した。自分が幼かったころ。養ってくれた老夫婦は、彼を受け入れなかった村の教会へ連れていく代わりに、いつもみずから神の教えを読んで聞かせ、そしてやさしく歌ってくれた。…その中で、よく聴いていた曲だ。
 天使は、そのうつくしい相貌を輝かせた。
「ああ、これは聖なる歌なのですね」
 伸び上がるようにして、天使は音の聞こえてくる方向を見た。そのつま先が、ほんのわずか地を離れる。ふわふわと少しそちらへ移動して、それから天使はクライヴを振り返った。
「教会へ行きませんか? クライヴも、この歌を聴きにいきたいでしょう?」
「……俺が、か」
「ええ。さきほどから、熱心に耳を澄ませていましたよね?」
 クライヴは眉を寄せた。どんな顔をして、教会になど行けばいいのか。昔、自分を拒絶した聖なる場所。…あんなところに、自分はなじめない。身の置き場がない。
「いや、…すこし、気になることがあっただけだ。……俺は行かない」
 天使が表情をくもらせたのを見て、付けくわえる。
「ひとりで行ってくればいい… …俺に用向きがあるなら、ここで待っている」
 クライヴが再び泉の縁に腰かけると、ゆるやかに天使が翼を広げた。ふわりと地から浮き上がる。
 しかし、見送るつもりだったクライヴの想に反して、天使は舞い上がらず、ゆっくりとクライヴのそばに降りた。並んで、泉の石縁に腰を下ろす。
 怪訝な色が出たのだろう。天使は、困ったように微笑んだ。
「クライヴは、この曲を知っているのですか?」
「…ああ」
「それでしたら」
 天使の顔が明るくなる。
「歌ってください、クライヴ。私は、あなたの歌が聴きたいです」
 クライヴは、意外なことを言い出した天使を見つめかえした。
「……だめですか?」
 おずおずと問われ、クライヴは小さく息をはいた。
 耳を澄ませ、いまだ聞こえてくる歌声を聞き取る。懐かしい、旋律。
「俺は…うまくはないぞ」
 天使は、ぱっと顔をかがやかせた。それを見ながら、すうと軽く息を吸って。
 クライヴは低く、低く歌を口ずさんだ。風にのってくる賛美歌に合わせ。それよりもなお密やかに。ひどくあたたかなまなざしをほおに感じながら、クライヴは記憶の中の歌をたどる。…その視線は、昔自分が老夫婦から受けていたそれに、よく似ていた。
 天使の翼がゆっくりと揺れているのが、歌を紡ぐクライヴの、視界のはしに映っていた。
 …と。一回り歌い終わるか終わらないかというあたりで、街路を流れる風向きが変わった。同時に、聞こえていた音楽が途絶える。クライヴもそこで歌うのを止めた。
「あ……」
 天使が、残念そうな吐息を漏らした。
「……俺に遠慮せず、聞きにいけばいい…」
 言うと、天使は首を振った。
「いいえ、そうではなくて…。聞かせてくださって、ありがとうございます…クライヴ」
 そこでなにか思いついたように、天使は微笑みを浮かべた。
「それでは、今度は私の番ですね」
 何がと問う間もなく、天使はすっと目を伏せた。座ったままゆるやかに胸を張り、口を開く。
 突然、闇の中に、やわらかな歌声が響いた。
 天使のくちびるから、こぼれる調べ。伸びやかで、広場中に届くような声。けれど、耳ざわりではない。
 ゆるゆると背の翼が広がり、淡く光がこぼれ落ちた。一心に歌をつむぐ横顔が、やわらかく宵闇に浮かび上がる。その貴なる歌声に意識のほとんどを奪われながら、その旋律が、先ほどの賛美歌とまったく同じものであることにクライヴは気が付いた。
 歌詞は違っている。いや、違うというより、クライヴには聞き取ることのできない言葉だった。響きだけでもと意識を向けても、なんと表せばいいのかすらわからない。
 ……とても美しかった。
 半ば呆然としているうちに、天使のくちびるが、最後の一音をつむぐ。
 その余韻が、溶けるように闇に消えていった。



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