※アルルートED後、一騒動あってティルとティーロが共存中、和さんと相思の間柄。
 ……という設定が許容できる方のみご覧ください。






■  そこにある事実  ■




 カチャリ、とかすかな音をたてて、ノブが回る。
 手前に引いた扉は無音のままに動いて、うす明るい廊下への道を開いた。
 僕は息を詰めて、部屋の中から外の様子をうかがった。見える範囲には、誰もいない。
 どこか遠くから、柱時計の時を刻む音が小さく聞こえてくる。日付が変わった深夜でも壁につけられた灯りは残されており、通路のずっと先まで見通せるのがまだしもの救いだ。

 ああ、どうして、こんな夜中に目を覚ましちゃったんだろう。
 はやくも後悔しながら、冷えた空気を吸いこんで、僕は一歩を踏み出す。
 ひっかけたスニーカーのつまさきが、音もなく厚い絨毯に沈みこんだ。

「さっきの、何だったんだろう……」
 出てきた客室からずいぶんと先に見える曲がり角まで一本道のまま、迷いようもない通路に、気後れと、同じくらいの感謝を抱きつつつぶやいた声が、大きく響いて身をすくめる。
 アルの住む本邸への滞在中に僕が使わせてもらうことになった客室は、当然のごとく、標準的な日本人には縁のない格調高さに満ちあふれていて……いや、それを言いだすと客室に限らずこの屋敷のどこもかしこもそうなんだけど……慣れない空間に、何度寝返りを打ってもしっかり寝付けずにいた僕の浅い眠りを本格的に覚ましたのは、夢うつつに聞いた足音だ。
 見回りの人かとも思ったけれど、それにしては僕の部屋の前まで来た後、そこでずっと気配が留まっていた。気づいた僕が、シーツの中でかたまって数分後。何事もなかったかのように、足音の持ち主は遠ざかっていった。
 そうすると、今度は何だったのかが気になって気になってしかたがなくなる。これはもう、どうしようもない僕の性分だ。
 つい先ほど足音が遠ざかっていった方向へ、息をひそめて歩いていく。そっと角を曲がろうとしたところで、
 ボオオォオオン。
 すぐ後ろからひびいた大きな鐘の音に、僕は飛び上がった。
「うわあああっ!?」
 足をすべらせ、尻餅をつく。ふり仰ぐように背後を見たところで壁際に置かれた柱時計に気づいて、安心したのもつかの間。
 見えない角の向こうで、人の気配がした。足早に近づいてくる。
 僕はふたたび上がりそうになった悲鳴を飲みこみ、立ちあがろうとした。
 ………足が言うことをきかない。
 内心絶叫しながら、僕は後ろにずり下がる。
 そうして、足音の主が、その姿を角からのぞかせて―――

「ナゴム? ……なにしてるの?」
 きょとんと見下ろしてくる銀髪の青年の姿に、心底僕は力が抜けた。



「遅くにお邪魔しちゃってごめんね、ティル」
「ううん。おどかしたお詫びもしたいし、それに、ナゴム、とっても手が冷たかったから。……はい、どうぞ」
 湯気の上がるティーカップを差しだされる。お礼を言って、僕はそれを受け取った。
 お茶を淹れるからとの彼の自室への招きを 最初は申し訳ないからと遠慮しかけたのをやっぱり止めたのは、こちらを見つめる彼のひとみは期待にきらきらと輝いていて、ああ、最近練習した成果を見せたいのかも、と思ったからだ。
 一口、口を付ける。ほんのりと甘いミルクティーに口もとがゆるんだ。
「うん、すごくおいしいよ」
「ええと……おほめにあずかり、光栄です」
 少したどたどしい日本語で返してきたティルが、はにかむようにほほえんだ。
 お茶を飲みながら、なんとなくまわりを眺める。
 明るすぎない照明に照らし出されている室内は、成人男性らしい落ちついた雰囲気でまとめられている。そのなかに点在する、ティルの持ち物だろうあれこれ――本棚の一角を占める教科書らしき冊子や、小さい子がペンの持ち方を練習するのに使うような補助具付きの筆記用具、それに、キャンディーや小鳥の羽根の入ったガラス瓶など――がアンバランスで、けれどもこの部屋の姿こそが目の前の彼の現状だ。
 温かいカップを両手で包み、僕はふうっと息をついた。
「ほんと、遅くに騒がせてごめん。時計の音にびっくりしちゃってさ……ちょっとこの本邸って、真夜中に見ると怖いよね。騎士の鎧がかざってあったり、変な置物があったりなんかして」
「ああ、ナゴム、こわくて眠れなかったんだ。それでさっき、足音に気づいたんだね」
 ほのぼのと言われて、うっと口ごもる。
「いや、そういうわけじゃ…… あるかも、だけど……」
「それじゃあ、ここでいっしょに寝る?」
 おっとりとした口調で、なんでもないことのように言われてぎょっとした。
 お茶のお代わりを、いくぶんぎこちない動作で注いでくれていたティルのほうは、きょとんとした顔で僕を見つめてくる。
 こうして見るとティルは、肉体年齢はもちろん、彼自身として生きてきたはずの年齢よりもさらに幼い印象が強い。ティルって呼ばれてた頃は子どもらしい子どもだったのよ、と過去の彼を評したクレア先生の言を思い出して、僕は体の力を抜いた。小さくほほえんで返す。
「……じゃ、ティルがよければ、お願いしようかな」

 照明を暗めに落として、並んでベッドにもぐり込む。
 広めのマットレスは、僕とティルが並んでもまだ少し余裕があった。
「………ふふ」
 薄闇の中、ころりとティルが寝返りを打って、僕のほうに体を向ける。薄い青のひとみが笑みを含んで、ゆっくりとまばたきをした。
「だれかといっしょに寝るのって、すごくひさしぶりだよ。ねえ、ナゴム、眠れるように、なにかお話してあげようか」
 お兄ちゃんぶってわくわくした口調に、僕は思わずほほえんだ。
「せっかくだから、最近のティルの話を聞きたいなあ」
「うん? いいよ、それじゃあねえ……」
 普通の勉強のかたわら、給仕やハウスキーピングの特訓をしていること。犬の世話をまかされたこと。自分が淹れた紅茶をアルに喜んでもらったこと。
「うん、すごくおいしかったもんね」
 僕は、先ほどの味を思い出して相づちを打った。以前にあの城で彼に淹れてもらったものとは違ったけれど、ティルの淹れてくれたお茶もとてもおいしかった。……まあ、お茶の味をどうこう言えるほど舌が肥えてるわけでもないんだけど。
「えへへ、ありがとう」
 照れたようにティルの目もとが染まる。細めたまなざしに、ふっと彼の印象が重なった。
 僕のその内心をまるで読み取ったかのように、ティルが声音を改めた。
「あのね、ナゴム。聞いてほしいことがあるんだ」
「うん?」
「昔……ぼくが、ぜんぶをディーターにまかせっきりだったころ」
 シーツの中の暖かい温度にゆるみかけていた頭が、ぱっちりと冷める。
「あのころはね、外でみんなが何を言っていても夢のなかみたいにぼんやりして、あんまり聞こえてなくて……ううん、違うか。聞こえてても、見えてても、ぼくが自分で自分の耳を、目をふさいでたんだ。なにもかもぜんぶ、自分のことじゃないみたいだった……。でも今は、ディーターとぼくを分けてる境目が、うすくなってきてるんだと思う。ディーターはぼくが出ている間の記憶を持ってるし、ぼくの方も、昔なら、ディーターが経験したことの記憶はあっても、その時のディーターの気持ちまではわからなかったけど……今ならぜんぶ、そのままぼくにも伝わってきてる」
 とつとつと語って、ティルはちょっとほほえんだ。内緒話のように声をひそめる。
「……だから、さっきもそうだった」
「さっき?」
 ティルは、うん、と幼いしぐさでうなずく。
「ねえ、ナゴム。……ぼく、二人には、ほんとうに、ほんとうに、感謝してるんだ。だから……」
 ふいに、長い腕が伸びてきた。ぎゅっと抱きつかれる。
「ちょっ、ティル?」
 目の前で長いまつげが揺れて、そのひとみが閉ざされた。
 次の瞬間、青年のまとう空気が変わる。
「………申し訳ございません、一柳様」
 こどもこどもしたやわらかな雰囲気は消え去って、温度の低い声が僕の名を呼んだ。
「大変な失礼を……ティルには、私からよくよく言い聞かせておきます」
 背中に回っていた腕が離れる。すばやい所作で半身を起こし寝台から降りようとした彼の腕に、なかばあっけに取られたまま僕は手をかけた。
「そっ、そんな、失礼だなんて、僕ならこのままでもぜんぜん気にしませんから!」
「………は」
 わずかに目を大きくして驚いた顔の彼に、我に返る。あわてて言葉を継いだ。
「あっ、そうですよね、すみません、僕がよくてもティーロさんが嫌ですよねっていうか、そもそも、勝手にティーロさんのベッドに入りこんでる僕のほうがよっぽど失礼なわけだし………あの、ええっと、……ティーロさん?」
 かたまっていたティーロさんのうすいくちびるから、ふっとため息が漏れた。
「一柳様……」
 つぶやいて、言葉に迷うようにそのくちびるが結ばれる。しばらくの間をおいて、固い声が続けた。
「………一柳様は、当家の客人。お客様と私が寝所を共にするわけにはまいりません」
 ようやく告げられた言葉に、おそるおそる僕は言ってみる。
「そりゃあ、僕はたしかにアルのお客かもしれないですけど……今のティーロさんは、僕をもてなすことが仕事なわけじゃないですよね?」
 ティーロさんが虚をつかれた顔になる。それから、その白皙の面に苦笑が浮かんだ。
「はっきりおっしゃいますね。確かに今の私は、執事の職務を解かれた身ではあります」
「それなら……」
 続けようとした言葉が、かざされた手にさえぎられる。
「……正直に申しあげましょう」
 仕草こそおだやかだったけれど、彼の行動としては規格外のそれに僕は驚いて口をつぐんだ。
「あなたがそう望んでくださるのならば、私に否やはありません……しかし、よろしいのですか? 私はティルではないのですが」
 笑みを消してこちらを見下ろすティーロさんの表情は、いつにもまして固く真面目だった。薄青いひとみが怖いくらいに真剣で、僕もつられて緊張してくる。思わず、返す言葉にも力が入った。
「は、はい! こちらこそ、ティーロさんがご迷惑でなければ」
 ティーロさんがわずかに眉を寄せる。途方にくれたように、と思えてしまったのはさすがに気のせいかも知れないけれど。
「………少し、不安になってきました」
「はい?」
「私が申しあげていることが、あなたに正しく伝わっていないのではないかと」
 彼の言葉を待って、じっと見あげる。ほんのわずか、ティーロさんのひとみの色が深くなる。
「つまり……」
 ベッドの上で仰向けに転がっている僕の脇に、半身を起こしたままのティーロさんが手をついた。もう片方の手が投げ出した僕の手にかさなる。
 ゆっくりと近づいてくる彼の顔を、馬鹿みたいに口を開けて見つめかえす。
 薄い色のひとみの虹彩まではっきりと見て取れるほどの距離まで近づいたところで、ティーロさんがささやいた。
「ただ共に寝台で体を休めるだけにはなりませんが、それでもよろしいのですか」
 低い声で告げられた内容を理解するのに、少し時間がかかった。
 顔から火が出るって、きっとこんな時のことを言うんだろう。
「えっ、あ、その、ええっと……!」
 頭にかっと血が上るのが、自分でもよくわかった。
 ティーロさんが少しだけ眉を下げた。
「……冗談です」
 僕の上から身を起こす。
「どうぞ、このままこの寝台をお使いになってください。一柳様がお休みになるまで、おそばに控えておりますので」
「いえ、あのっ!」
 とっさに、腕が伸びた。両手で彼の二の腕をつかむ。
 寝台を降りかけ、支えとなっていた腕を後ろから引いた格好になって、ティーロさんがバランスを崩す。
 それでも僕の上に倒れないように身をひねって倒れこんだ彼に、あわてて僕は飛び起きた。
「す、すみません!」
「ああ、いえ……、お気になさらず」
 寝台に仰向けになったまま唖然とした様子で僕を見あげ、そうとだけ言った彼に、急いで続ける。
「それで、その、僕は……あのですね」
 寝台に両手をつく。さきほどの体勢とはちょうど逆だ。
 大きく息を吸った。身をかがめる。途中から、目を固く閉じた。鼻先にふわりと、ヘアトニックか何かだろうか、ハーブのいい香りがかすめる。
 ほおにティーロさんの吐く息が触れた。そのまま、当てずっぽうに顔を押しつける。
 くちびるが、ひやりと冷たい皮膚に触れた。
 腕の内側に触れたティーロさんの体がわずかにこわばる。ゆっくり目を開けると、すぐ目の前でティーロさんのひとみが大きく見開かれていた。
「一柳様……?」
「あの……大丈夫です。自分が何をしてるか、ちゃんとわかってますから」
 今度こそ、きちんと意味を込めて、彼を見つめて告げる。
「ティーロさんがよければ、……このまま、一緒にいてくれませんか?」

 そっと、ほおにくちびるが触れた。乾いた感触に心臓がばくばくする。
 離れてまた降りてきたくちびるが、今度は軽く僕の下くちびるを食んで、僕は驚いて思わず口を開いた。
 その隙間から、濡れたやわらかいものが入り込んでくる。
「ん、ん……っ」
 上げようとした声がくぐもって消えた。ふさがれた口の中で、舌先が触れる。
 ちゅ、と小さな水音。そのまま軽く舌を吸いあげられた。彼の口の中で、やわらかく甘噛みされる。ぞわりと背筋をしびれが這い上がった。
「………ッ」
 思わず、固く目をつぶる。
「………大丈夫ですか」
 落とされた低い声に、僕は首を縦にふった。
 まぶたの上に、いたわるように触れる指先。
「無理をなさる必要はないのですよ」
 僕はつばを飲みこんで、声を絞りだした。
「だっ、大丈夫ですから、………続けてください」
 息を飲む気配がした。僕はと言えば、恥ずかしさのあまり目眩がしそうだ。
「………一柳様」
 間近に、低く熱を帯びた声。初めて聞くティーロさんのそんな声音に、頭がぐらぐらする。
 寝間着代わりのシャツの下にすべりこんで脇腹をなぞっていく手はひやりとしていたけれど、僕のほおにかかる息は熱くて、抑えきれないようにわずかに乱れたその呼気に、息が詰まる。
 固くにぎりこんだ手のひらに爪が食いこむ。ふと、ティーロさんが動きを止めた。
 手を取られ、にぎった指をほどかれる。いたわるように手のひらをなでて、指の間に割り入った指が僕の手をにぎりしめる。
 ふいに、泣きたくなった。
 あなたはここにいる。僕と一緒に、今、ここで、生きてるんだ。
 何が何だかわからなくなるほどゆだった頭でただ、泣きたいくらいにうれしかった。
 目の前の人に向かう衝動のままに、僕は必死に手を伸ばして、おおいかぶさる背中を抱きしめた。




「そういえば……」
 やわらかな疲労感に包まれ眠りに落ちる直前、ふと思い出して、僕は彼に問いかけた。
「さっき僕の部屋の前に立ってたのって……ティルじゃなくて、ティーロさんだったんですよね?」
 ぐっとティーロさんはことばにつまる様子を見せた。目を伏せ、謝罪を口にする。
「………申し訳ございません。不調法を致しました」
「あっ、いえ、責めてるわけじゃなくてですね! 何となく気になったので聞いてみただけですから、そんな、気にしないでください」
 慌てて言えば、彼が気を取り直したように口を開いた。
「しかし、なぜ私のほうだとおわかりに? 自分で言うのも何ですが、私らしくない振る舞いだったと思うのですが」
「それは、ティルが……」
 言いかけて僕は目を見開いた。ティルは先ほど、何と言っていたか。

 ディーターの気持ちは自分にも伝わる。さっき(つまり、僕の部屋の前に立っていた時だろう)もそうだった。『だから』ディーターと交代する。

 ああああ、とうめいて僕はシーツの中にもぐりこんだ。
 一柳様、と慌てた声で呼ばれたけれど、とても顔を出す気にはなれなかった。

 ティルの言動が示す、二つの事実。
 一つは、どんな気持ちでティーロさんが僕の部屋の前に立っていたのか。
 そしてもう一つ。……ティルは今ももちろんそこにいるのだということに、今更ながら、気づいてしまったからだった。





fin.


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