■  Gott ist tot  ■




 再生の終わったビデオのノイズが、空間を満たしている。
 雨音に似たそれを聞きながら、月はソファから腰を上げた。
 ホテル特有の、いささか光量にとぼしい明かりのもと、書類に向かって背を丸めていた面々が顔を上げる。
「それじゃ、僕はそろそろ…」
「ああ、…」
 ゆっくりと首を振った父が、その疲れをにじませた目を、手元の腕時計に落とした。
「もう、こんな時間か」
「明日は、早くから講義があるものだから」
 申し訳なさそうに付け加えれば、同席の刑事たちのうち、真っ先に松田が声を上げる。
「そんな、月くんが気にすることなんてないよ。学生の本分は勉強なんだからね」
「いえ、でも…みなさんは続けているのに、すみません」
「そりゃそうさ、俺たちはこれが仕事なんだから。さ、未成年者は帰った帰った」
「相原さん、そういう言い方しなくたっていいじゃないですかあ」
 月は残るひとり、口をつぐんだままの背中に声をかけた。
「竜崎」
 雑音と、灰色の光の波をはきだすばかりのモニターに差し向かい、彼は座っていた。背をまるめ膝を抱え、ちぢこまって、そのうしろ姿はどこか胎児めいている。アンバランスで、ひどくグロテスクな知性。乾いた感想をもてあそびながら、やわらかく月は問うた。
「かまわないかな?」
「……お疲れさまでした」
 一顧もなく、けれど返った明瞭な返答に月は鞄を取り上げた。
 軽く会釈して、扉へと歩き出す。その背後で、ごそりと動く気配がした。
「月くん」
 届いた己の名に、足を止める。
「うん?」
 ふりかえれば、男がその頭をこちらにめぐらせるところだった。
 頓着なく伸ばされ、はねた黒髪の間から、感情の読めないまなこが月を見上げる。
「月くんは、死神などいないと断言していましたね」
 つい先ほどの、ビデオにかかるやりとりを言われて、月はああとうなずいた。
 動かないまなざしで、男は問うた。
「では、神の存在も否定しますか?」
 月は、ひとつまばたきをした。困惑をこめて、かすかな苦笑をのぼらせる。
「また、突拍子もないことを聞くんだな、竜崎は」
 そこで表情を改め、一拍。考えを巡らせたと見えるだろう程度の間を置いてから、月は答えた。
「さあ、…どうだろう。いてくれればいいのに、とは思っているけど」
「…ほう」
 嘘であり、同時に真実だった。
「月くんが、神を必要とするような人種とも思えませんが」
 つまらなさげにつぶやいた男に、月はかすかに首をかたむけてみせた。
 己が求めるわけじゃない。ただ、この世界が、神を…裁きを下す存在を欲しているのだ。
「ははっ、意外かい?…ああ、でも、そうだな」
 魚のようにまばたかない視線を受け止め、月は続けた。
「仮に、神が実在しているとして」
 今も己が背にたたずむ異形、こいつの語った天国が本当にあるのなら、そこに神と呼ばれるべき何かがいたっておかしくはない。けれど。
「いまこのとき、キラの行いを見過ごしているような神ならば…」
 ――――この、腐った世界。
「いてくれたところで何の意味もない」
 そこに座すのは、生み出した世界への情熱も関心も、既に失せたまいし旧き神だ。
「そうは思わないか、竜崎」
 男は、しばし月の顔を凝視した後、その視線をつと脇へ落とした。
「……キラも、ちょうど同じように考えているのかもしれませんね。罪人を見過ごす神など神ではない、と」
 言いつつ手を伸ばし、卓に置かれた瀟洒な洋菓子の箱から、一粒つまんで口へ放り込む。
 月は大きくため息をついた。ちらりと、父へ気遣う視線を投げる。
「竜崎、…そうやって、なんでも僕とキラを関連づける材料にしようとするのはやめてくれないか」
 男は気にした風もなく、もごもごとその口許を動かしながら、こもった声で続けた。
「そして、為さざる神を退け、その地位へと進もうとしているのかもしれません。…けれどほんとうは、神とは、いと高き御座でなく、この現世にこそあるものです」
「へえ」
 月は肩をすくめてみせた。
「竜崎は、八百万の神とか信じるクチなのか?」
 月の視線の先で、ごくりと、そのやせた喉が上下した。甘味を嚥下した男は、明瞭な口調で、簡潔に返す。
「いいえ。私のうちに、神がある、ということです」
 かるく目を見開いてみせてから、月は笑みをこぼした。
「はは、あいかわらずすごいこと言うな、竜崎は」
「たぶん、月くんの思っているような意味ではありませんよ」
 男は、ふたたび菓子箱へと目を落とした。青白い指と視線とが、宝石のような砂糖菓子の上をさまよっている。
「かつて、神という概念に付与されていた人間を無条件で律する絶対性は、我々の社会においてはすでに失われて久しいものです。であれば、人は、己の裡に、己自身を導くしるべを持たねばなりません」
「ああ…なるほどね」
 何を言いだすかと思えば。多少の落胆を覚えながら、考え深げに月はうなずいてみせた。
「つまるところ、竜崎の良心ってことか」
 男は、横目でちらりと月を見やった後、否定とも肯定ともつかず、かすかに首を動かした。
「…どう取っていただいてもかまいませんが」
 この負けず嫌いめ。月は内心せせらわらった。おまえの高尚ぶった物言いを、わざわざありふれた言葉に置き直してやったんだ。素直にそのとおりですって認めてみたらどうなんだ?
「それじゃあ…」
 その嘲笑はおくびにも出さず、ため息交じりに月は続けた。
「キラの中の神は、死んでしまったってことなんだろうな」
 男は、その底の知れないまなこを、ゆっくりとまたたかせた。ふいにまっすぐ見あげてくる。
「さあ、それはどうでしょう」
 暗いまなざしが、ひたりと月を見つめた。
「それこそキラの中には、死神という名の、ゆがんだ神が棲んでいるのかもしれませんよ」




『うまいこというじゃないか、Lの奴』
 夜道に、月の高い靴音と、月以外の誰にも届かぬ、のどを鳴らした笑い声とが反響する。
「馬鹿馬鹿しい」
 言い捨て、月は進む足で、かつんとアスファルトを強く打った。ふわりと、すぐ後ろに舞い降りる気配がある。
『なんだ、機嫌悪そうだな』
「当たり前だろ。リューク、おまえなら自分が気違いだって言われても、にたにた笑ってられるんだろうけど」
『はあ?』
「言ってくれるよ。この僕をつかまえて、人を殺す力にとりつかれ、精神をゆがめた狂人扱いとはね」
 死神は、しばし首をかたむけた。
『…つまり、Lに低く評価されたのが気にくわないって?』
「リューク、おまえ、…」
 故意に僕の神経を逆なでしようとしてるのか?
 とぼけた顔の死神をにらみつけかけて、月は思い直した。
 ふうと息を吐きだし、ひとつ、肩をすくめてみせる。
「だいたい、己を内から律する神なんて、必要ないんだ」
『ははあ、そうだよな』
 黒衣の死神が、おもしろがる色を含んで見下ろしてくる。
『なにしろおまえ自身が、全部の人間にとってのそいつになりかわろうって言うんだからな』
 ぎょろりとしたまなこに目を合わせ、月はほほえんだ。一息で返す。
「よくわかってるじゃないか、リューク」
 死神が、ぶほっと大きく息を吹き出した。口元をゆがませ、曲がった指を月へとつきつける。
『まったく、おまえらしいぜ。ああ、ほんとうに俺は運がいい…!』
 裂けた口から、するどい牙がのぞく。くつくつと喉をならして、死神はふわりと浮かび上がった。
『なんたって、これ以上はどこを探したって見つからないほどの見せ物を、かぶりつきの特等席で見られるんだからな』
 宵闇に、心底楽しそうな笑い声が降ってくる。

「ああ、僕の後ろで、好きなだけ見てるがいいさ」
 真っ黒な空をふり仰ぎ、月は微笑む。
 己にしか届かない羽音の主、神の末席に名を連ねる異形を従えて。
「新しい世界が訪れる、その日まで」
 夜の底から、己が在るべき空の高みを目指し、月はゆっくりと歩きはじめた。







fin.


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