「おい、聞こえてるか……おい!」 プロイセンは、寝台に横たわる少年の肩に手をかけゆさぶった。 反応のない相手に、もう一度呼びかけようと大きく息を吸いこんで、プロイセンは思わずくしゃみをした。冷え切った空気が、埃とカビの臭いによどんでいる。暗く沈んだ室内は、寝室というより人の入らぬ書庫を思わせた。 国の現し身たる自分たちには、医者も薬草も甲斐がない。それでも、明らかに病みおとろえた子どもを、こんなところに放りこんでおくとはどういうことだ。ぎりぎりと奥歯を鳴らしながら、やつれた寝顔を見おろす。 「しっかりしろよ、神聖ローマ!」 うす汚れたシーツの中、ランプの明かりに透けてなお青白いまぶたがかすかにふるえた。やがて、青いひとみが現れる。 「…………プロイセン?」 そのかすれた声は、彼がプロイセンに王国の冠を与えた時分の、暗く沈んだ、けれどまだ帝国の偉容を留めていた声音とは比べものにならぬほど小さく、弱々しかった。指先ひとつ動かす気配もなく、ただ細い息を繰りかえすばかりの体を、プロイセンはシーツごと乱暴に抱きあげた。 「行くぞ、神聖ローマ! 俺がお前を連れてってやる!」 こんなさびしい地で誰にも忘れ去られながら、それでも生きていたかつての盟主を、フランスの糞野郎なんぞにむざと殺させてたまるかってんだ! 続きは胸中でわめいて、プロイセンは片手を窓の板戸にかけた。金具をたわめ壊す勢いで押し開け、窓の石枠を乗りこえる。その縁を蹴り、少年を抱えたまま、夜の闇の中へとプロイセンは身をおどらせた。抱いた体にできる限り落下の衝撃のないように、膝をたわめて地に降り立つと、つないであった黒鹿毛の馬に飛び乗った。 開きっぱなしの城門を飛び出し、冷たい空気を裂くようにして、夜道を駆ける。 いまいましい金髪の伊達男とその上司への悪口雑言を頭の中で吐き捨てながら、プロイセンは、軍服の腕に抱いた熱の薄い体を、外套の内へとさらに抱きこんだ。とたん、腕の中でかすかに身をよじる気配があって、手綱をわずかにゆるめる。 「悪ィ、神聖ローマ。苦しかったか?」 ひゅう、ひゅうと少年ののどが鳴った。それから、夜風にもまぎれそうな声が返る。 「プロイセン……お前には、聞こえないのか?」 「ああ?」 ひょっとして追っ手の気配でもあるのかと、プロイセンは夜霧ただよう雑木林を見まわした。 ざわざわと枝が鳴り、馬の足もとを枯れ葉が駆けぬけていく。シーツの中から、重たげに少年の腕が上がった。そうして示す先に、プロイセンは目をこらす。しかし、夜目の利く目にもそれらしき異状は見つけられなかった。ただ、年経た柳の木が、手招くように風に揺れている。 「何があるってんだよ」 うなれば、少年が小さく呟いた。 「……呼んでいるんだ」 暗く不吉な声音に、プロイセンは、眉間にぐいとしわを寄せた。 「俺には、なんにも聞こえねえぜ。だいたい、誰が誰を呼んでるってんだ」 わずかな間があって、ああ、と喘鳴まじりの声が上がった。 「……そうか。お前には、あれは、見えないんだな」 安堵するような、悲しんでいるような、不思議な吐息がプロイセンの胸に当たった。 まるで、その息と共に少年の魂までもが抜け出ていってしまうような心地に突然襲われて、プロイセンは大きく体をふるわせた。 馬の腹へと拍車をかける。乗り手の意志に従い、黒馬は全力疾走を始めた。 「ああ……プロイセン、……声が」 かすかなささやきが、胸に抱いたシーツの中から途切れ途切れに上がる。 「黙ってろ、舌噛むぞ!」 さえぎるように、プロイセンは叫んだ。 「もうすぐだ、じきに着く、あと少しの辛抱だからな!」 人馬共に息を切らし、庇護者の館へと駆けこむ。 そうして、きつく抱きしめていた腕を解いた青年は、白い布に包まれ、もはや熱の欠片もない少年の亡きがらを抱いている己にようやく気づいて、愕然としたのだった。 長身の兄に背を抱かれていても、冷たい霧が夜気にさらされたほおを濡らす。 並足で進む淡い月毛の馬の背で、ドイツはふと首をめぐらせた。 「兄さん」 腕の中から呼びかければ、片手で手綱を取った兄が、ん、と機嫌良さそうに応じた。ドイツの腹にまわされていた腕が外れたかと思うと、ずしりと頭に重しがかかる。無骨な指先がドイツの髪をかき混ぜた。 「なんだよ、ドイツ帝国。我が弟よ」 この兄の庇護のもと、いまだ幼い己の頭に帝国の名が載せられてから、まだ間もない。 目に見える冠がそこにあるわけではなかったが、それでも、課せられたものの重さを意識して、ドイツはせめてもと背を伸ばす。そうして、街道沿いの林の間へとつと指を指した。 「いや、少しばかり気になってな。あそこに見えるのは……」 続けようとしていたことばを、ドイツは飲みこんだ。 頭をかき回していた兄の手が、不意にこわばってドイツの頭をわしづかみにしたからだ。 リンゴでも割ろうとするかのような力に、知らず顔をしかめる。 「…………なあ、まさか、まさかだよな、そんな」 粗忽で乱暴者ながら、普段であれば、力加減を誤ったことにすぐに気づくはずの兄は、ドイツの様子に気を回すそぶりさえなかった。彼にはまったく不似合いな、心底怯えた声音でささやく。 「お前にも……見えてんのか?」 驚いて、ドイツは兄の顔を見あげた。 「兄さん?」 霧のわだかまる林の間を、ひたすらに凝視する赤いひとみは、空気にさらされた血のような黒々とした恐怖に染まっていた。 なあ、とふるえる声で問いを重ねた兄に、ドイツはつばを飲んだ。声のかすれそうになった己を叱咤し、口を開く。 「ああ、もちろんだ。兄さんには負けるかもしれないが、俺だって目は悪くないつもりだぞ。ほら、林向こうに見えるあの城影、あれはどこの領主のものだろうか。野駆けでずいぶん遠くまで来てしまったが、いかに俺たちとはいえ……いや、俺たちだからこそ、夜分断りもなく、他の者が治める領内を侵すのはまずいんじゃないのか……っておい、兄さん?」 早口に告げる途中から、あからさまに兄の気配がゆるんだ。手の力が抜け、今度は犬の仔をなでる勢いでかき回される。 「なんだなんだ、お前も一丁前に賢しげな口きくようになったもんだな、ヴェスト!」 機嫌の良いときだけの愛称を呼んで、兄は破顔した。 「いいんだよ、この帝国の領域内どこだって、ぜんぶお前の庭みてえなもんだ。堂々としてろっつの! よーし、こうなったら夜明けまでにどこまで行けるか試してやるぜー! しっかりつかまってろよ!」 かたく抱かれて、ひるがえった外套に、周りの景色がさえぎられる。よく慣れた白馬は、ゆったりとした駈歩で走り出す。 その振動と地を蹴る鈍い音にまぎれて、兄のつぶやきが、ドイツの耳にすべりこんだ。 「そうか……そういうことだよな」 不吉なほどにおだやかな、低い声だった。 「兄さん……?」 見あげれば、兄はまばたきをして、それからいつものかすれた笑い声を上げた。 「なんでもねえよ。行くぜ、ヴェスト!」 笑い声の尾を闇に引き、胸には温かく強い鼓動の子どもを抱いて、プロイセンは馬を駆る。 呼んでいる声が、けれど遠ざかることはない。 ああ、神聖ローマ。お前にも、これが聞こえていたというのか! Fin. |