私が年の離れた腹違いの妹の存在を知ったのは、流行病で亡くなった父の遺品を整理していて見つけた、一通の古い恋文からだった。訪ねた手紙の差出し元には、病み衰えたエルヴァーンの女性と、あどけない目をしたこどもが住んでいた。 その年の冬に女性はこの世を去り、我が家に迎え入れられた幼い彼女は、これ以上は望めぬほどによくできたこどもだった。家庭教師が舌を巻く早さで与えられた知識を吸収していく聡明さ。そうしてそれをひけらかすこともなく、常に控える謙虚さを、私は愛した。 ……愛していたのだ。 「兄さま」 背中に受けた呼びかけに、登りかけた階段の半ばで、ゆっくりと私はふりかえった。 踊り場から見下ろしたホールの真ん中に立って、娘がこちらを見あげている。窓からの陽光を受けて、その身にまとう鉄色の軽鎧の鈍いかがやきが目を刺した。 「もうしわけありません。……やはり、わたしは、彼と行こうと思います」 澄んだ声が、エントランスホールの高い天井に反響した。 亡き父と同じあわい銀髪はきっちりと結い上げられ、あらわになったほそい首ばかりが目立つ。じっとこちらを見上げる娘の視線に、私は口を開いた。 「……いったい、この家の何が不満だと言うのだ」 吐いた声音は、かすかにしわがれて耳に届いた。ひとつ大きく息を吸い、私は声に力をこめる。 「おまえに必要なものならば、何であろうと与えてきたつもりだ。…この家の娘として、最高の教育に、淑女たる立ち振舞い。エセルリーダ、おまえの望むように、剣術も、果ては癒しの技さえ学ばせてやったというのに」 「……感謝しています、兄さま」 返った声音は沈鬱ながらそこに迷いはなく、娘の心変わりはないと知れる。私はくちびるを噛んだ。 「そのように口先でありがたがってみせながらおまえは、……どこの生まれともしれぬヒュームやら、流れ者たちとつきあったあげくに、冒険者になるなどと。愚かしいにもほどがある」 「フェッロを……わたしの仲間たちをそんなふうに言うのは、やめてください」 しずかにうつむいて、娘はその指を、鎧の襟首へと伸ばす。 金属のふれ合う澄んだ音がして、その胸もとから一族の紋章をかたどるペンダントが引きだされた。 「お返しします。……わたしは、この家の者ではなくなるのですから」 「その必要はない。すぐにおまえは己の過ちに気づき、ここへ戻ってくることになるだろう」 外したペンダントを手に、一歩こちらへ踏みだした娘に私は背を向けた。 「……庶子のわたしを引き取り、この身には過ぎるほどの教育をくださったそのご恩も返さず出て行くことを、もうしわけなく思っています」 私はふり返らなかった。背中の向こうで、娘は悲しい顔をしただろうかと思われた。 「……どうか、お元気で。兄さま」 重々しく閉まる扉に重なって、ちりん、とペンダントの鳴る音がひとつ。 がらんどうのホールにひびいて消え失せた。 どれほど聡明であろうとも、所詮はこの家に庇護されて育まれた、世間知らずの花に過ぎない。出て行ったとて、頼る者もない場所で、何もできぬ己に気づき、打ちのめされて今に帰ってくる。 私はその日を待っていた。 昨今は、オークの郎党がこの王都近くまでさまよい出ているらしい。親戚筋からも、新たに騎士として任じられる若者が幾人か出ている。あの娘が望むならば、任官を許してもよいだろう。 私は、なじみの鍛冶屋に我が家の紋章を刻んだ盾と騎士剣の仕立てを依頼した。 天気のよい、春の日の午後だった。 エセルリーダの部屋の壁に掛けた盾が、にぶくその色をくすませてきているのに気づき、私は眉をひそめた。 下働きの者に、磨きをかけるよう言いつけておかなければ。 家令を呼ぼうと回廊へ踏みだしたところで、エントランスから人の話し声が聞こえた。 客を招いたおぼえはない。 私は耳を澄ませて、ちりん、と懐かしい銀の音色を聞いた。 ゆっくりと、一歩ずつ足を進め、エントランスホールに降りる。 「エセルリーダ……?」 私の呼び声に、扉口に立っていた家令がふりかえる。彼と対峙していたのは、見知らぬ黒髪のヒュームだった。魔道士風の装束はくたびれ、もとは白かったろうそれが黄ばんで見える。 眉をひそめ、私はその男の前へと歩み寄った。 男はおどろいたようにその目を見開くと、ふかぶかと頭を下げた。 「……おひさしぶりです、ローラント卿」 意外なことばに、私はまじまじと男を眺めた。 そうして、ようやく思いあたる。サンドリアの正教会で、エセルリーダとともに白魔法をまなんでいた男だ。そうだ、忘れられるはずもない。この男の旅立ちに連れだって、あの娘はこの街を出て行ったのだから。 冷ややかになる口調を隠さず、私は問うた。 「……さすがはヒューム、といったところか。この邸に臆面もなく訪れるとは、まったく面の皮の厚いことだな。エセルリーダはどうした?」 男は顔を上げた。沈んだ目が私を見つめ、その引き結ばれていた口もとが開かれる。 「エセルリーダは……」 かすかにためらう気配の後に。 「……俺は、これを届けにきたんです」 さしだされた手がにぎった鎖、その先で、銀の紋章がゆれていた。 私はひとつ、ふたつまばたきをした。 「…………そうか」 差し出されたものの意味する事実が、ゆるやかに胸へ落ちていく。 指を伸ばした。男の手から、ペンダントを受けとる。 かるく息を吸い込んだ。 「己の力量もわきまえず、家名を捨てた挙げ句に不名誉な死を遂げるとは。まったく、愚かな娘だ」 くるりと背を向ける。 「……待ってください!」 かまわず、私は歩みを早めた。男の強い声がしたたかに背中を打った。 「エセルは! 彼女は最期まで、騎士の名に恥じないだけの……!」 私は足を止め、ふり返った。男の戯れ言をさえぎって告げる。 「冒険者の僭称する騎士の名に、いったいどれほどの価値がある」 男が、かっとそのほおを紅潮させた。 「な……」 「それで、あれは何を守ったと? ぬけぬけと私の前に立つ、やくたいもない白魔道士の命か」 視線の先で、男の顔がゆがんだ。握られかけたこぶしが力を失い、やがてだらりと体の横に垂れる。 私は、そのさまを感慨もなく見守った。 「我が家の紋章を持ち帰ってくれたことには、礼を言おう。……用件はそれだけか?」 私は、うなだれたままの男を置いてホールの階段を上った。そのまま娘の部屋へ足を向けた。 中に入って、ゆっくりと後ろ手に扉を閉ざす。娘の出て行った日そのままにしてある部屋は、やわらかな春の日ざしに満ちていた。 その光の一片を受け、鈍くかがやく盾に手を伸ばす。両の手で抱えて、卓の上へと降ろした。 くすんだ銀の表面を、じっと見つめる。 「……愚かな、娘だ」 おおきな目をしたこども。 年を重ねるに従って、そのひとみはあどけなさを失って、沈んだ色を深めていった。 この場所で、おまえは不幸せだったのか。 そんなことを考えようともしなかった私こそが、おまえの命数を縮めたのか。 この国の外で、幸せを取り戻せるだけの時を、生きたのか。 どれほど請おうとも、問いかけに答えるべき者はもはやいないのだ。 指から、するりと銀の鎖がすり抜ける。 がらんどうの部屋の、床の上。転がったペンダントが、ちりんと澄んだ悲鳴を上げた。 fin. |