『散り時には、まるで、薄紅色の雪が降ってるって風情でな。夢みたいにきれいなんだよ』 なつかしげな目をして、彼はその花の話を口にした。 『俺の故郷では、一等大事にされてる樹木なんだ。この中の国では、ついぞ見かけたことがねえんだけど』 そう言う口調がほんとうに残念そうに聞こえたから、思いついたのだ。 長らく自分の研究を助けてきてくれた彼に、ひとつ、贈り物をしよう、と。 『ねえ、もっと詳しく聞かせてよ、その花の話。ええと、うすい赤色で、雪みたいで……木なんだよね?』 詰めよった自分に、彼は驚いた顔をして、それから懐を探った。 『口で言うより、見た方がわかりやすいだろ。ほら、これだよ』 差しだされたのは、薄い紙のしおりにすきこまれた淡い色の押し花だった。 『な、きれいだろ?』 手にとって、食い入るように見つめる自分がよほど執心に見えたのだろう、彼はぽつりと呟いた。 『実際に咲いてるところは、もっとずっといいんだよ。……いつか、あんたにも、本物を見せてやりてえな』 「……おい、ティック、起きろよ。そろそろ時間だぞ」 荒っぽく肩をゆさぶられて、チックティックはうめいた。 「昨日は、徹夜だったんだよう……あと、もう、五分……」 「俺、こないだも、その前の時も言ったよな。外へ調査に出る前日くらいは、まともに睡眠取っとけよって。あんたも鼻の院の研究者なら、いいかげんそれくらい学習したっていいと思うぜ。ほら、起きろって!」 チックティックは、己をゆさぶる手を払って、はがされかけた毛布を引き戻した。 「もうちょっとだけ、寝かせてー……」 苦笑らしき吐息とともに、かたわらで立ちあがる気配がする。 「しゃあねえなあ。……起きなかったのはあんただからな。あとで、文句言わないでくれよ」 シャリ、と薄い氷片がこすれ合うような金属音がした。冷たげなそれをまどろみの中で聞きながら、チックティックは寝返りを打った。 わずかな浮遊感。体が転がり落ちる。がつん、と額が、固いものに思い切りぶつかった。 「………ッつー!?」 涙目で飛び起きる。頭を抱えていると、今度は、ざくっと何かを断つ音、それにぼとりと重たげな落下音が続いた。 「ううううう…… ………あれ?」 あたりはやたらと暗く、鼻先に触れる空気が湿っぽい。どこか遠くで、水の流れる音がしていた。 屋内ではあるようだが、尻の下の冷たく固い感触は、明らかに自室の寝台のそれではない。 にじむ視界をくり返したまばたきではっきりとさせると、こちらに背を向けて立つ軽鎧姿の痩躯が見えた。どうやら、自分は石造りの階段の一段に横たわって眠っていたらしい。 寝起きの頭が、ゆるゆると動き出す。 そうだ、トライマライ水路へ研究資料の採集に来ていたんだった。ようやく思い出した事実に、ぼんやりとチックティックは声を上げた。 「あー……………コウエン?」 「おはようさん、ティック。まあ全然早くねえけどな」 名を呼ぶと、ふり返った男は、かたわらに細身の片刃――『刀』と呼ばれる東方の剣を提げて、にっと笑った。無造作に切られた黒髪を剣を持たない方の手でかきあげ、かがんで足下の何かを拾い上げる。 「ほい、これ」 すたすたと、コウエンがこちらへ歩いてくる。無造作に差しだされたものを、チックティックは座りこんだまま、手を伸ばして受け取った。 薄闇の中でぼんやりと桃色に光る、大輪の花……その太い茎をつかんだ瞬間、手の中でぬるりと動いた感触に、ようやくはっきりと目が覚める。 「うっひゃあああああ!!?」 ひっくり返った拍子に、今度は後頭部を石段の角にがつんとぶつけた。目の前に火花が飛ぶ。 「………おい、大丈夫か?」 声もなく悶絶していると、となりにしゃがみこむ気配があった。 「………………だい、じょう、ぶ………ってああああああ!」 「なんだよ、今度は」 「これ! この花! ぼく、咲く瞬間を見たいって!!」 「だから、起こしてやっただろうがよ」 「…………そうだった」 「ついでに言っとくと、咲いてすぐに花首を落とさねえと、手がつけられないほど凶暴化するって言ってたのもあんただからな」 男は、ちらりとその背後に目をやった。視線の先には、花の本体、鼻の院謹製の食人植物がぐったりと(しか言い様のないありさまで)横たわっている。 「…………すみません。ぼくが悪うございました」 「わかったならよろしい」 大仰にうなずいてみせてから、少し男は心配げな顔になった。 「えらいいい音させてたが……頭、痛むか? ポーションならあるぞ」 「いや、大丈夫。ケアルくらいはできるから。ていうか、ごめん、全然何もしてなくて」 「外での護衛と荒事は、鼻の院からまかされてる俺の仕事だからな。それは別にかまわねえよ。つーか、あんたが寝過ごすのもいつものことだし」 笑うコウエンの口調にとげはない。冷たい石段に座りなおして、チックティックは頭をかいた。 魔法大国ウィンダス、その柱として機能している五つの院。そのうちの一つ、鼻の院に所属する魔道士は、院の性質上、野外調査がその職務のほとんどを占める。そのため、危険な地に出向くことの多い研究者の助けとして、鼻の院では独自に冒険者を雇用していた。コウエンもまた、院から認可を受けた専任冒険者たちの一人だ。 「……や、でも、ごめんなさい」 手をひざにおき、姿勢を改めて、チックティックは頭を下げた。 調査の相方としてちょくちょく組んできただけに、気心も知れている相手だ。だからといって、笑って許してくれるのに甘えていいかというと、それも違うだろう。 「まったく、真面目なんだか不真面目なんだかわっかんねえなあ、あんた」 くつくつと笑うと、コウエンは懐から取り出した白い紙で、手にした刃をぬぐった。慣れた動きで鞘に収める。ちん、と澄んだ音が石造りの部屋にひびいた。 水呼びの扉から、水路の外へ出る。 夜明けも近い時間だ。そびえ立つ星の大樹が、影絵のように群青の空を切り取っている。澄んだ空気を思い切り吸いこんで、チックティックは伸びをした。 「ああ、無事に終わってよかった。ありがとう、コウエン」 「おう、おつかれ。しかし、いつものことながら、あんたたちタルタルのやりようは……なんてえか、大ざっぱすぎじゃねえ? いくら一般人の立ち入る場所じゃないっつっても、あんなもん生やしとくのは、さすがにどうなんだよ」 手の中でいまだぼんやりと光る桃色の花を見下ろし、チックティックは苦笑した。 「もとは、そんな危ない代物じゃなかったはずなんだけどなあ。魔法の触媒に使う植物だから、魔力の強いあそこの水で育てたら質がよくなるんじゃないかとか、そういう話だったと思うよ。実際、ぼくの今の研究も、これがあればだいたい目途がつきそうだし」 「あー……そうかよ……」 ふっと、コウエンが息を吐いた。 「ん? どうかした?」 「や、なんでも」 改めてよく見れば、浮かない様子の相手にチックティックは眉をよせた。 「なんでもって顔じゃない。疲れてるなら、今日はもう戻って休んだほうがいいよ。院のほうには、ぼくから言っとくからさ」 「あんたは?」 「ああ、ぼくは、これを持って帰って作業の続きかな」 「その徹夜癖、いいかげん直せよな。居眠りして材料をおしゃかにしちまっても、もう次はつきあえねえぞ」 真顔で言われて、チックティックは頭をかいた。 「わかったよ。戻りの報告だけ入れたら、ぼくも帰って仮眠取る」 「ぜひそうしてくれ」 連れだって、夜明け前の道を歩きだす。 誰にも会わないまま水の区に入ってすぐの十字路まで来て、チックティックは足を止めた。コウエンが住まいとしているモグハウスは、ここを南に行ったところだ。 「それじゃ、お休み、コウエン」 声を掛けると、コウエンが改まった口調で言った。 「あのさ、ティック」 「うん?」 ヒュームの彼は、タルタル族のチックティックの三倍近くの身長がある。ふり仰いで見上げると、言いにくそうにコウエンは頭をかいた。 「……その、……今まで、ありがとな」 「はあ? どうかしたの、やぶからぼうに」 唐突なことばに、チックティックは眉をひそめた。めずらしく気まずそうな顔をして、コウエンは続けた。 「あんたに言うのが遅くなっちまって、悪かった。俺さ……国へ帰ることになったんだ」 「へっ!?」 チックティックは、ぽかんと口を開けた。 「前々から、帰ってこいって話はあったんだけどよ、あんたの研究の手伝いがひとくぎりつくまでは、って……そんでまあ、なかなか言い出せなくてさ」 「か、帰るって……いつ」 呆然と聞けば、コウエンはわずかに視線をそらした。 「明後日」 「ちょっ、ほんとうに急じゃないか!? 待ってよ、ぼくにも都合が…!」 「わかってる。いろいろ先の予定もあるだろうとは思うんだけどよ……認可を受けてる同僚に、ちゃんと引き継ぎはしてあるから」 「いや、そういうんじゃなくてさ! ………」 心底すまなそうな顔をしている相手に、チックティックは言いかけたことばを飲み込んだ。 「…………その、なにか、事情が?」 コウエンが、片手でがりがりとその不揃いな黒髪を乱した。 「言ったことがあったかもしれねえけど、俺、中の国の生まれじゃないんだよ」 「ああ、ええと、確か……ブシ、だったっけ。東の国の、こっちでいう騎士みたいな仕事してたんだとか言ってた」 「そう、それだ。継ぐ所領もないような三男坊だったんで、いっそ違う土地でやってこうって思って、この大陸に渡ってきたんだよ。でも、うちの兄貴たちが、近東の大国との戦で、刀を持てない体になっちまったって話でさ」 「……うん」 言うべきことばを思いつけずに、チックティックはうなずいた。 「俺も、侍のはしくれだからな。家と国の大事だって時に、自分ひとりだけ、好き勝手してられねえんだ。だから……帰る」 かみしめるように告げるその声は、真剣だった。 「………戦争に行くってこと?」 「ああ」 チックティックは、クリスタル大戦より少し前の生まれだ。獣人との戦いについてさえ、はっきりとした記憶はない。目の前にいるコウエンが、人間を相手に戦っている姿など、人一倍あると自負している想像力を駆使してもなお、ぴんとこない。 それでも、彼が本気で、戦いに行こうとしているのだということだけはよくわかった。 「………こんな急な話じゃ、餞別のひとつも持たせてあげられないじゃないか」 「あー、いいよんなもん」 ぐっと、チックティックは腹に力を込めた。声をはりあげる。 「きみがよくても、世話になりっぱなしじゃあ、ぼくがよくないんだよ! だから、もらいに戻ってこい!」 ぽかんと、コウエンが口を開けた。 「はあ?」 「国が大変だから戻る。それはわかった。それなら、大変じゃなくなったら、ウィンダスに戻ってこいってこと!」 「や、それは……」 眉をへの字に寄せてことばにつまったコウエンのひざを、チックティックはぱしっと叩いた。 「ほら、約束する!」 「あんたなあ……」 額に手を当て、深々とため息をつく相手を、チックティックは無言でにらみ上げた。 一歩も引くものかと、ねめつけ続ける。迷うようなそぶりのあと、やれやれと言いたげに笑って、コウエンがうなずいた。 「わーったよ。約束な」 その二日後、彼はウィンダスを出て行った。 どうやって帰るのかと訊ねたところ、ノーグの海賊がひそかに出している、東の国への交易船へと便乗するのだと、こっそり耳打ちされた。 気をつけて、と言っただけで、ほんとうに自分は彼に何も餞別を渡さなかった。 その代わりに。 「もう、準備はできてるんだからねー……コウエン」 徹夜明けでしょぼしょぼする目をこすりながら、調理ギルドの扉を開ける。 「いらっしゃーい。また完徹ですか」 販売員の女性がくすくすと笑って、ゆでたまごとサルタオレンジを一つずつ包んでくれた。 「んー、ありがとう」 受け取ったところで、もうひとつ、とこのあたりでは珍しい竹皮の包みを渡される。 「これ、ギルドのハキームさんから。差し入れだそうですよ」 チックティックはまばたきをした。女性が口にしたのは、数年前、船が難破してこのウィンダスに漂着したという、東方出身の調理人の名前だ。面識こそあるが、それほどつきあいのある相手というわけでもない。 「んんん? ぼく、こんなものもらうようなこと、何かしたっけな?」 首をひねると、女性が小首をかしげた。 「なんでも、懐かしいものを見せてもらったから、とか言っておられましたけど」 「あ、……ああー、そっかあ。うん、わかったよ。あとでお礼言っとく」 得心して、チックティックはうなずいた。包みをふたつ抱えて、きびすを返す。 ギルドから一歩外へ出たところで、チックティックは首を上げた。 「ハキームさんのお墨付きをもらえたなら、大丈夫だよね」 ひらりと、薄紅の花びらが目の前を過ぎる。 暖かな春の日ざしの下、あちこちで、異国の木々が満開にその花を咲かせていた。 そのうちの一本の木陰へ行って、水上を板で渡された通路の端に腰を下ろす。 これが、あの日、自分が取り組んでいた研究の成果だ。 宙に浮いた足をぷらぷらと揺らしながら、チックティックは薄紅の花をつけた木を見あげた。 「まあ、最初の年は、なんか人相の悪いトレントっぽいやつになっちゃったけど……あれは素材が悪かったんだよね、たぶん。でもほら、今はちゃんと、サクラだよ」 竹皮の包みを開いて、行儀良くならんだおにぎりをひとつ、両手で抱える。 かぷりと噛みつくと、ほどよい塩味がした。 「だからもう、いつ戻ってきたっていいんだからね」 チックティックはひとりごちた。 ここは、きみの故郷じゃないけれど。 ずっと、ずっと、この花と一緒に、待っているから。 fin. |