■  聖者の帰還  ■



『……ュラクモン! ……オイ!』
 深く、冷たく静かな虚無を貫いて、呼びかける声が聞こえた。
『いいかげん起きろってンダ、コノぐず、ぼけ、かす野郎!』
 なじみのある罵声に、私はゆっくりとそちらへ意識を動かした。いま、自分に体があったなら、きっとほほえんでいただろう。そんな心持ちで、呼び声の主に応える。
『……やあ、おはよう』
 どうやら、私の返答はお気に召さなかったらしい。もうどれくらいか思いだせないほど前からの相棒は、その間ずっと変わることのなかったように思える短気さでさらに逆上した。
『ノンキに挨拶なんぞする前に、チッタァ現状におどろくとか慌てるとかしろヨ!? 空気読めってノ、コノ糞エクソシスト!』
『ああ、そういえば……きみとこうして話すのも、ほんとうに久しぶりだという気がするな。かわらず、元気そうでなによりだ』
『オ前な、人の話聞いてんのカッ!!?』
『人の話って、きみはそもそも悪魔じゃないか』
『ウ、ム、ム………揚げ足取るんじゃネエエエエッ!』
 絶叫の後、だまりこんだ相手に、ようやく私は周囲の様子へ注意を向けた。

「これ、は………」
 もうずっとずっと昔に、私の生身の体は焼かれてなくなってしまったはずだ。
 けれど、いま、たしかにこの身は風を感じ、ささやかな草ずれの音を聞き、世界をひとみに映している。
「ここは…………」
 遅ればせながら、おどろいて見まわす。私が生きていたころと変わらず、同じ体に同居しているらしき彼が、期待を隠しきれないような声音で応じた。
『そう、ココは……!』
 短い草でおおわれた、おだやかな草原。降りそそぐ、金を帯びたやわらかな日差し。
 遠くに、空をつかもうとする手のような不思議なかたちをした、石積みの塔が立っている。
 さらに視界をめぐらせれば、樹と星をあしらった緑の旗をひるがえす、都市の入り口らしき門が見えた。
「…………どこなんだい?」

『ンナ、ナニィイイイイイイ!?』
 一瞬の間を置いて、彼が大絶叫した。
『コ、ココじゃなかったのカヨ!? オ前の、故郷………』
 相棒の声が、尻つぼみに小さくなっていく。
 私はまばたきをして、その時、自分がかつて呼ばれた二つ名そのものの姿となっていることを知った。
 背から伸びた大きな両翼は羽毛を持たず、コウモリの皮膜を模したそれ。退化した腕、鳥のようなほそい脚。そして、たった一つの大きな眼球。すなわち………アーリマンと呼ばれる一つ目の魔物だ。
「………そもそも、どうして私は、こうして現世にいるんだろう?」
 そうつぶやく声も、彼にこそ意味が通じているようだが、人の言語になってはいない。キィ、と甲高い鳴き声がつむぐは、忌言葉。闇に棲まう魔物たちのあやつる言語だ。
『今更かヨッ!?』
 脳裏に、彼からの激しい突っこみが入った。
『クソ、相変わらずオ前といると、おれ様のペースが……ッ』
「すまないね。それで、いったい何がどうなっているのかな」
 ほほえみたくなる思いを抑えて問えば、ふて腐れたような沈黙ののち、ぼそりと彼が応えた。
『……交霊祭ダヨ。生者と死者の魂が交わる日サ。チクショウ』
 ゆっくりと、私は広がる草原を見まわした。
「もしかして……私を故郷へ連れて帰ってくれようとしたのかい」
『アア!? 頭にお花咲かせてんじゃネーヨ! ンナわけネーダロ! もうオ前にひっついてるのにも飽きたんダヨ! 故郷にでも来りゃあいい加減成仏するだろうって思っただけダッツーノ!」
 とたんに、頭の中でわめきたてた彼に、私は今度こそ吹きだした。
『ナニ笑ってんだテメエ!』
「っ、く、……いや。……嬉しいよ」
 なにか、言い訳めいたことをしばらくぶつぶつと言ってから、彼は不機嫌に言い放った。
『チッ、さっさと次行くゾ、次。ここじゃネーナラ………』
 ばさりと、私の意志に依らず、背の翼がはばたく。
 一打ちするそのたびに、どんどん目まぐるしく景色が変わっていく。
 乾いた風の吹く赤土の峡谷。ゆっくりと汽船が入ってくるさびれた港町。灼けるような白の砂漠。ただよう霧の合間に青い花の咲く高地。
 そうして、最後にたどり着いたのは、金色に染まる夕暮れのロンフォールだった。

 遠くに、橙に色づけられた城壁と、忍びよる闇を退けて燃えるかがり火が見える。
 こずえに沈む太陽、そのひとかけらが、小川のせせらぎに砕けて踊る。
 がさりと足下の低木の茂みが鳴って、茶色の毛並みのウサギが駆け去った。
 夜の気配を帯びた風が、大きく広げた翼を包む。
 かすかに、祭りのにぎわいだろうか。こどもたちのはしゃぐ声が、城壁を越え、途切れ途切れに聞こえてくる。
 たった一つのひとみに映すすべてが、ゆらゆらとゆがんだ。
「ああ………」
 かつて私に魔を見いだす眼を与え、いまなお共に在る悪魔は、ただ沈黙を守っている。
 つまりそうな息の下から、ようやく私は声をしぼりだした。
「……どれだけお礼を言っても足りないよ。ほんとうに、ありがとう……」
『フフン、コレッポッチのことで喜んでんじゃねえッテノ』
 そうして、城壁を飛びこえようと翼を広げた相棒を、あわてて私は制した。
「いけない!」
『アァ?』
 不満げにうなった彼に、大きくかぶりを振る。
「あそこは、人の生きる場所だ。魂まで魔と化した私が立ち入って良いところではないよ」
『なんで、オ前はイツモそうなンダ! ……アノナア、おれ様がこんだけ苦労してやッテ……ッ!?』
 不意にことばを切って、彼が外へと敵意を向けた。
 翼を打って、襲いくる刃を寸でのところでかわす。
「くそっ、この魔物め!」
 人の、高く澄んだ声が夜気を裂いた。彼とのやり取りに気を取られている間に、接近されていたらしい。
 革の鎧に身を包んだ身軽そうな戦士が、低い姿勢で短剣をかまえてこちらをうかがっている。にらみあげてくる面立ちを見れば、まだ少年と言ってもいいくらいに年若いエルヴァーンだった。
『コンノ、くそ餓鬼が……ッ』
「だめだ! …きみ、はやく逃げるんだ!」
 私の忌言葉が通じるはずもなく、少年はふたたび地を蹴り、こちらへ飛びこんでくる。
 彼の意志に従い反撃しようとする体を、全身全霊をこめてとどめる。
 それでも抑えきれずに、短剣の一撃をくわえて跳びすさった少年のほおに蹴爪がかする。一筋赤い裂け目が走った。口の中も切ったのだろう、少年が血の混じったつばを吐き捨てる。血の玉が盛りあがるきずをぐいとぬぐって、ふたたび飛びかかってくる。
『ナンデ止めやがるッ!?』
「なんでもなにもない、この子は私の同胞だ!」
『まだそんなコト……ッ』
 彼がわめいた。
『死んでる間にもう忘れたってノカ!? よりにもよって、赤の他人を助けたいナンテ寝ぼけた理由で魔物にナりやがったオ前が、その同胞からどんな仕打ちを受けたノカ!』
 私たちが体の主導権をめぐって争うあいだにも、暴れる脚を、宙を薙ぐ腕をかいくぐり、少年の刃がするどい斬撃を加えていく。
『神の御技だナンダとまつりあげてたばかドモガ、糞ッタレな坊主が正体を暴いたトタンにコロッと手のヒラ返しやがッテ! 散々助けてヤッた恩も忘れて、オ前のコトを火アブリにしやがッタ! ……アア、おれ様はヨーク覚えてルゼ!』
 その時私は、彼のことばよりも、我が身に起こりつつある変化に驚愕していた。
 体が軽い。よみがえって以来ずっとこの身を締めあげていた重圧、全身に十重二十重に鎖をかけられていたような呪縛が、徐々にだが、うすれていく。
 それと比例するように、彼が私を従わせようとする力も弱くなってきていた。
『…………コレ、は………!?』
 彼もそれに気づいた様子で、暴れるのをやめ、戸惑ったように腕を広げた。
 狙ったように、少年が渾身の刺突をかける。腹に深くささった刃を、私たちは見下ろした。
 痛みはない。少なくとも、私には。
 ずるりと抜けた短剣の刀身は、淡く、清浄な白い光をまとっていた。
 その燐光に反応するかのように、腹にぱっくりと開いた傷口から、小さな虫が寄りあつまったような黒い霧が、空気へと流れ出し、溶けていく。
「これは、いったい……」
 私は呆然とつぶやいた。
「……コリャア、白豚どもの魔法ダ。オイオイ、ヤッてくれるジャネーカ……!」
 彼のことばは、私の体の外から聞こえた。
 流れ出た黒い霧が、みるみるうちに一所に集まり、小さなコウモリに変化する。気づけば、そうして生じたコウモリが、両手の指では足りぬほどの数になって、私のまわりでひらひらと舞っていた。
 彼の声は、そのコウモリたちから発せられていた。代わる代わるに、私と同じ忌言葉で鳴き交わす。
「ナルホド、タマにはあの白豚どもも役に立つことをしやがるってモンダ!」
「どうやら、これでようやっと、オ前のタマシイからオサラバする目途がつきそうダゼ」
「どうだ、オ前にもわかるダロ?」
 驚愕から冷め、ようやく私は言葉を発した。
「そ、そんなことより、大丈夫なのか、きみは……?」
「オ前ってヤツは、ホントにナァ……誰にモノ言ってんダヨ」
 鼻で笑うような気配があって、彼らのうちの一匹が応えた。
「おれ様はれっきとした悪魔なんダ。コレしきの浄化でドウにかなるわけネーダロ」
 私の脚に生じたきずから新たに生まれた一匹が、甲高い鳴き声で続ける。
「しっかし、こんなとろいペースじゃア、交霊祭が終わるまでに間に合わないかもしれネエナ」
「まあ、いいサ。祭は今年ッキリじゃネエ。来年も再来年も来りゃあ済むコトダ」
 彼はいっそ愉しそうに言って、必死に短剣をふりかざす少年のまわりを、ひらりと優雅に舞った。


 そうして、夜は明け、死者と生者の祭りは終わる。
 私はふたたび、静かな虚無の眠りに還る。
 遠く、風に乗って聞こえるのは、大聖堂の早課の聖歌だろうか。
 もはや女神の信徒ではありえない私の身でも、そのしらべはただうつくしく、貴なる響きで耳を打つ。
『来年、再来年、もっと何年も先か……』
 死のまどろみに沈みながら、私は相棒にささやいた。
『きみと別れる日が来るのかと思うと、すこしさびしい気がするよ……』
 彼は、昔から変わることのない憎まれ口をたたく。
『ケッ。こちとらセイセイするってもんダ。そもそも……ピュラクモン、オ前が焼かれたあの時に、一声女神を呪ってたなら、トウの昔におれ様は、オ前のタマシイをもらい受けて故郷に帰れてタンダヨ』
『ああ、そうだな…… きみをずっと、私がしばりつけていたんだから、さびしいなんて、言ってはいけないね……』
『そうトモ、オ前がマジモンの変人なばっかりに、おれ様はマダしばらく帰れないンダ』
『……でも、変わり者というならお互いさまだろう?』
『アァ?』
『こんな私と契約をして、ずうっとつきあってくれるなんて、よっぽどきみのほうが悪魔らしくない』
『…………ケッ。言ってロ』
『ははは……それじゃあ、おやすみ、……』
 意識がかすんでいく。死の冷たい抱擁に、私は、あらがうことなく身をゆだねた。
『また、来年、きみと会えるのを、楽しみにしているよ………』



『………ああ、そうだナ。相棒』
 ひとり残された悪魔のつぶやきは、聞く者もなく、闇に溶けた。










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