■   帰郷  ■




 寒い日だった。
 ジェスは半日仕事だった書類の束を抱え、部屋を出た。後はこれを、正軍師の元へ届ければ今日の仕事は終わりだった。
 一歩踏みだしたそばから、吐く息が白く視界を流れる。
 同盟軍はマチルダを落とし、多くの者が、勝利の昂揚と、戦いの中で失われた命の償いを求める思いに囚われていた。
 それに反して今なお待機が命じられている理由は、公にはいったん軍を整えるため。しかし真実はジェスも知るところだった。
 指導者たる少年が惑い、進むことを恐れているからだ。
 もどかしくはあったが、これに関してはジェスは待つことを自分に強いていた。正軍師の手際があれば、じきに進軍の命は出るだろう。義姉を失った少年を哀れに思う気持ちはあったが、同盟の利を考えれば、ここでぐずぐずしているわけにはいかない。
 エレベーターが、一階まで降りてくるのを待つ。チン、とすんだ音を立てて、その到着が告げられた。空きかけた隙間に滑り込む。
 かすかに床へと押しつけられるような圧迫感とともに、ゆっくりと、エレベーターは動き出した。しかしその勢いは、すぐに失われてしまう。階数表示は、まだ二階だった。
 扉が開く。
 入ってきたのは、物静かな副軍師の青年だった。
 軽く頭を下げられて、ジェスは目礼を返した。
 また、からくり仕掛けの箱はゆっくりと動き出す。わずかな上昇の後、それは再び動きを止めた。
 鐘は、ならなかった。扉も開かなかった。
 ジェスは顔をしかめた。しばらく耳を澄ましたが、エレベーターはまったくの無音で、動き出す気配はない。
 どうやら、故障してしまったらしい。この忙しいときに、とジェスは口の中で毒づいた。
 エレベーターの前にひがな立っている老発明家あたりが気づくまで、おとなしく待つしかないか。そう思ったところで、ジェスは突然、同乗者がいたことを思いだした。
 この異常事態にもまったく動く気配を見せなかった青年は、後ろにいたこともあって半ばジェスの意識の外にあったのだ。しかし気づいてしまうとこの狭い空間の中、どうにも気になる。
 このまま背を向けているのも、相手が見えないだけに返って落ち着かない。しばし迷って、結局ジェスは後ろへと向き直った。自然、向かい合う格好になる。
 青年は、うつむきがちに何も言わない。ジェスも黙りこくっていた。


 それでも、四半時ほどは耐えた。
 …………………駄目だ。これも居心地悪い。
 息を詰めていたら段々苦しくなってきた。耐えきれなくなったジェスは、自分から口を切った。
「……動かないな」
 向かいにいた青年は、ふっと目を上げた。ゆっくりとその目を瞬かせる。
「ええ。そうですね」
 青年の瞳は、また伏せられた。
 ………………。
 このままでは、また沈黙地獄に陥ってしまう。
 ジェスは、何とか言葉を探していた。心持ち上を向く。
「あー…その…」
「はい」
 静かにうながされ、ジェスは苦しまぎれに続けた。
「……ああ、まあ、キバ将軍のことは、残念だったな」
 言ってから、ジェスは自分の考えなしを呪いたくなった。いくら何でも、他に話題がなかったものだろうか。言い様の方も。
 つい先だっての戦いで父を亡くしたばかりの青年は、小さく苦笑したようだった。
「お気遣い、痛み入ります」
 軽く、頭を下げて見せさえする。その表情はひどく大人びていた。
 ジェスは口を曲げて、自分より幾分小柄な青年を見下ろした。
「………すまない」
 謝罪の言葉がジェスの口を衝いて出た。
 いぶかしむように、青年がこちらを見つめてくる。
 しばらく迷ってから、ジェスはつぶやいた。
「どうも俺は、無神経で…いや、それもあるんだが、そうではなく…その……」
 ジェスはこめかみを軽くかいた。
「……今まで、俺の態度はあまり誉められたものでは…なかったと思う」
 静かにジェスの言葉を聞く青年は、ハイランドの生まれだった。敵国の、軍師を務めてもいた。
 初めてまみえたのは、ティントの争乱の中。そこで同盟軍の指導者たる少年を、ジェスはハイランドの回し者だと罵った。同盟の人間でない者を、信じることなどできないと。そして少年と和解した後も、ハイランドの人間に対するわだかまりが消え去ったわけではなかった。
 とりわけ、自分の国さえ裏切ったような者を、素直に信じることはジェスには難しかったのだ。
「…正直、俺は…おまえのことを、良く思っていなかった。本当に同盟に与する気持ちがあるのかと、これまで俺は、疑ってきたんだ。…それを、詫びたい」
 ジェスは、わずかに頭を落とした。
「おまえたち親子は、同盟のために十分すぎるほど力を尽くし、キバ将軍は命さえ落としてしまったというのに」
「…いいえ」
 通る声が、ぽつりと落ちた。
「ならば、ジェス殿。あなたが詫びるべきことなど、何もありはしません」
 ジェスは、驚きに顔を上げた。かすかな微笑みが返る。
 クラウスは、ひとつ息をついた。
「私は…そして、おそらくは父も。同盟のために戦ってきたつもりは、ありませんから」
 そうして、そっと目を伏せる。
「私は、裏切り者です」
 うすい唇が、言葉を紡いだ。それをジェスは、ぼんやりと見つめていた。
「それでも、想いは未だかの国にある。……この地で戦うことが、カイ殿の思う未来が、ルカさまを止めることこそが…ハイランドの……」
 小さくなっていった声を、最後まで拾うことはできなかった。
 くすり、とクラウスは自嘲めいた笑いをもらした。
「そうして来た挙げ句に私は、母国を滅ぼそうとしているのです」
 滑稽でしょう、と。
 ジェスは、言うべきことを見つけられず黙っていた。
 ただ、青年の忠誠がハイランドにあると聞いて胸を占めたのは、嫌悪でも苛立ちでもなく。理解した、という思い。
 不思議だった。なぜ自分の国を裏切り、同胞を手にかけることができるのだろう。それは、ミューズを未だ想い、そのためにこそ戦うことを選んだジェスにはまったく不実なことに思われた。青年を信用できなかったのは、むしろその疑問ゆえにだったのかもしれない。
 ジェスは足元に視線を落とし、ぶっきらぼうに言った。
「信じたんだろう。こうすることが、国のためなんだと。それなら滑稽でなどあるものか」
 クラウスはぱっと顔を上げた。切れ長の瞳が、一瞬泣きそうに歪んだ。すぐにうつむいた表情は長い前髪に隠れてしまったが、確かにその面にひらめいた感情の揺らぎは、ジェスの中に焼きついていた。
 また、沈黙が訪れた。しかし今度のそれは、決して不快なものではなかった。
 うつむいたままの青年の肩が、小さく震えているのにジェスは目を留めた。
「…寒いのか?」
 いえ、と応えた声はわずかにかすれていた。それで、泣いているのだろうかと気づく。
 しばらく迷って、ジェスはクラウスの肩を引き寄せた。ポン、とその頭を胸に押しつける。
 クラウスは動かなかった。
「…ジェス殿」
 くぐもった声で、小さく名を呼ばれる。
「私は、あなたのことが嫌いではありませんでした」
 意外な言葉に、ジェスは目を見開いた。彼が、あからさまな自分の敵意に気づいていなかったはずはない。
 クラウスは、つぶやくように続けた。
「あなたは、私を警戒しておられましたが…それほどに、いつもミューズだけを見て、ミューズのために戦っていたあなたのように…あれたら良かったのに、と」
 戸惑って、ジェスはクラウスを見下ろした。
「おまえだって、ハイランドを思っているのだろう」
「だのに……私は」
 クラウスは静かに息を吐いた。
「カイ殿や、あなたや…ここにいる方たちのことも、もう嫌いではなくなってしまったんです。……本当に私は、裏切り者ですね」
 諦念さえにじませる口調に、ジェスは胸が痛んだ。何か言ってやりたい。その思いに押され、ジェスは口を開いた。
「……別に、選ぶ必要はない」
 胸に預けられていたクラウスの頭が揺れた。
「戦争が終わったら、おまえは、ここで働いていけばいい。同盟でもあり、ハイランドでもある国で。おまえよりハイランドに詳しい者は同盟には居ないだろうし…」
 ジェスは息を継いだ。言葉を選んで、ゆっくりと続ける。
「俺はミューズのことしか考えられない。他の奴らも大差ないだろう。ハイランドであった地と、同盟をともに思うことができるのは…クラウス、きっとおまえとカイ殿ぐらいだからな」
 もっとやさしい慰めのことばか何かが言えたら良かっただろうか。思いつつも、結局何も浮かんではこなかった。仕方なくジェスは、クラウスの背をぽんぽんとたたいた。
 クラウスは無言だった。返ってこない反応に、やはり何かまずかっただろうかとジェスが気を揉み始めたころ。
 とん、とクラウスはジェスの胸に手をついた。二、三歩下がる。
「たしかに…皆さんがジェス殿のような近視眼だったら、ハイランドなどどうされてしまうかわかったものではないですね」
 顔を上げたクラウスの唇には、うっすらと微笑みが浮かんでいた。その頬に、涙の痕はなかった。
 内心安堵しつつも、ジェスは憮然と言った。
「ずいぶんな言われ様だな」
 ふふ、とクラウスが軽く笑いをもらした。
「ご自分でそう言われたんじゃないですか」
 ティントの時も、暴走するあなたには苦労させていただきました。
 嫌味なく付け加えられて、ジェスはつまった。
「いや、それを言われると、だな」
 しばらくうなって、ジェスは肩を落とした。
「…………今後努力する」
「いいえ、ジェス殿はそのままでいてください」
 あっさりと言われて、ジェスは思わず半眼になった。
「……おまえな…」
 クラウスはにこりと笑った。
「本気ですよ、私は」
「なんだそれ、は」
 言いかけたところに、がたんとエレベーターが揺れた。
 互いに目を見合わせる。クラウスはまばたきをすると、首をかしげた。
「……直ったんでしょうか」
 ゆっくりと箱が上昇を始めた。
「らしいな」
 …半刻は時間に遅れてしまった。正軍師の毒舌を思って、ジェスは大きくため息をついた。苛立ちを込めて、扉をこんと叩く。後ろから、クラウスの苦笑が届いた。
「シュウ殿になら、いっしょに怒られてさしあげますよ」
 私も報告に行く途中でしたので。
 ジェスは肩をすくめた。一人で行くよりまだましだろう。
「それは、ありがたい限りだな」
「…いいえ」
 微妙にクラウスの声のトーンが落ちた。
「こちらこそ…ご助言を、ありがとうございました。ジェス殿」
 ジェスはふり返った。
 見つめかえすひとみは、その色を深くしていた。
「…クラウス?」
「でも、あなたは変わらないで…ただ一つだけを、ずっと見ていてください」

 ちん、と到着の鐘が鳴った。4F。

「では、シュウ殿のお説教をうかがいに参りましょうか」
 クラウスは、するりとジェスの横をすり抜けた。慌てて引き留めようと伸ばしたジェスの指は、その上着の裾をつかみ損ねる。
 そっとクラウスが歩みを止めた。
 ふり返らない表情は、わからないまま。

「私がそうありたかった、あなたのままでいてください」






fin.


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