■  幸福の幻影  ■




 ざくざくと、痩せた土を踏みしめる音が響く。
 元は農耕地だったはずの土地だが、今ではすっかり乾ききり、塩の浮いた荒れ地となってしまっていた。それを更に、兵士たちが踏みにじって進む。
 乾燥した風が、足下から黄色い砂埃を巻き上げていった。
 荒れた土地は、そこを守るべき農民がいないことを示す。ここから逃げてしまったのか、それとも命を落としたのか。殷という国には、この地に縁を持たない仙道たる僕の目から見ても、すでに死相が表われていた。
 現在僕たちは、王太子殷郊の率いる水関の兵を破って、王都朝歌へと向かっている。しかし、殷郊との戦闘以降は抵抗らしい抵抗もなく、殷の深部にまで順調に進軍を続けてきていた。

 僕がしんがりを守って歩く戦列は、今では殷の兵の一部をも吸収し、かなり長大なものとなっている。これならば、人間同士の戦の方では殷にも引けを取らないだろう。―――まあそんなどうでもいいことはさておき。

 …僕は今、ある人のことで深く思い悩んでいる。
 あどけないこどもの姿に食えない笑み、卓越した知性。
 なのにその老獪な頭脳からすると、反則なほどに純粋で。誰かが傷つくくらいなら、迷わず自分が傷つくことを選ぶような、とても強くて優しい人。ああなんてあなたは魅力的なんでしょう、太公望師叔。天才であるこの僕の心をつかんで離さないなんて。
 …話がずれた。今問題なのは、師叔が優しすぎるということだ。その気性は僕も気に入るところだが、今回はそれがあだとなった。あろうことか、師叔は殷郊の攻撃から兵士たちをかばって、利き腕を失ってしまったのだ。
 まあ僕だって、そこらの兵士たちの命などどうでもいいとか思っているわけでは決してない。いや本当に。 だが、しかし。
 太公望師叔の身と比べれば、他の何だって一山いくらのジャガイモである。
 しかし師叔は、ジャガイモな人間たちの命を何より優先する。そしてその結果、左腕を失ってしまった。そんな師叔に、天才で格好良くてすばらしい僕ができることは何か……つまりそのことで、僕は悩んでいたのである。
 ………うーん………

「…ゼンさん………楊ゼンさん!」
 はっ!? 僕としたことが、思索に熱中して呼びかけに気がつかなかったなんて!
 隣を歩く天化くんの声に、僕は意識を浮上させた。
 顔を向けると、天化くんは半眼で僕を見つめていた。…失礼だな、そんな怪しい者を見るような目で。
「さっきからどうしたさ、楊ゼンさん。一人でぶつぶつ言って、なんか不気味さ…」
「…いや、ちょっとね」
 僕はさらりと応えた。
「もうメンチ城も間近だというのに、戦いらしい戦いもなかっただろう? でも、このまますんなり行くはずはない。妲己が仕掛けてくるのはいつかと、それが気になってね」
 ついでに瞳にはかすかな憂いを含ませておく。
「そういや師叔も、おんなじようなこと言ってたさ」
 天化くんは、感心したように僕を見た。素直で良い子だな、天化くんは。まあ師父の道徳真君さまからしてあんな方だから、まっすぐ…というかむしろ単純な性格になるのも当然か。
 うんうんと頷きつつ、天化くんは続けた。
「ちょっちアレなとこもあるけど、やっぱ楊ゼンさんは師叔の片腕なんさねぇ」
 ―――そうか!
 天化くんの言葉に、僕は目を見開いた。なんか聞き捨てならないことも言ってた気がするが、この際それは置いておく。
 文字通り、僕が師叔の片腕となればいいのだ!
 僕の変化なら、思い通りに動くのはもちろん、感覚だって完璧だ。
 そうすれば、右腕だけでは難しいだろう書類事務や食事はもちろん、着替えだって、入浴だって手助けができる!
 …邪な意図などは、けっっしてない。本当に、僕は、師叔のためを思って! そう、師叔の…。思わず笑みが漏れる。
「ふ…ふふ…」
「よ、楊ゼンさん……?」
 こわばった天化くんの声が耳に届いた。僕は後ろに下がろうとしていたらしい彼の肩をがっしりつかみ、笑顔を向ける。
「ありがとう、天化くんっ! キミのおかげで悩みが解決したよ!」
「そ……そりゃ、良かったさ…」
 僕が礼を言っているのに、いまいち嬉しそうじゃないのは何故だろう。
 まあいいや。この喜びの前には、なんだって些細なことだし。


 ―――と思っていたのにっ! その後、妲己と趙公明(立体映像)が来てばたばたしていたと思ったら…。

「じゃあ太公望、私はナタクと乾坤圏の修理に戻るよ。気を付けて行っておいで」
 カメラ目線の太乙師伯に、師叔は鷹揚に頷いた。
「うむ、早いところ頼むぞ。ナタク抜きで趙公明の相手というのは、ちと辛いからのう…。まあ楊ゼンや天化もおるから何とかなるとは思うが……と、楊ゼン?
 先ほどから、仏頂面でどうかしたか?」
 こちらを見た師叔は僕の顔の前で、ひらひらと左手を―――「左手」を、ふってみせた。そう、この科学オタクの太乙師伯が師叔に義手なんか持ってきたせいで、僕の幸せ計画は台無しになったのだ。
「…いえ、なんでも」
 ないわけではもちろんない。
「お、そうか」
 どうしてそんなあっさり納得してしまうんですかっ!?
 いや、不機嫌の理由をつっこまれても困るんだけど、なんか淋しい…。これじゃあまるで、思いっきり僕の一方通行みたいじゃないか。ううう。
「あ、太公望?」
 黄巾力士によじのぼりかけたところで、太乙師伯は首だけこちらに巡らせようとして、べちゃりと地に落ちた。何事もなかったように起きあがってぱたぱたと黒い服の裾をはたく。…あ、背中の変な飾りが折れてるなあ。
 ちょっと後ろを気にしたようだったが、まあ良いか、と息を吐くのが耳に届いた。ほてほてと師叔の方に戻ってくる。
「キミの義手のことで、ちょっと思い出したんだけど」
「ロケットパンチに水鉄砲、まだ他にも変な仕掛けがあるんかい…たかが腕に何故そこまで凝っておるのだ…」
「発明は私の生き甲斐だからねっ! ぐふふふふ…」
 妖しく笑う太乙師伯に、師叔はげんなりとした顔になった。
「もしや、自爆装置なぞ付けてはおらんだろうな」
「あのさあ、太公望……」
 悲しそうな声に、師叔は笑って返した。
「ま、さすがのおぬしもそこまでイっちゃってはおらんか」
「……どうしてそれを? 今言おうと思ってたのに」
 本日二回目のロケットパンチが、太乙師伯を撃沈した。

「ひ、ひどい、太公望……私は、キミのことを思って……っ」
「どこがだどこがっ!」
 師叔に足げにされつつ、太乙師伯は僕の方へすがる視線を向けた。
「た、たすけてよーぜんくーん……太公望がいぢめるよぉ」
 捨て犬のように切なげな瞳が見つめてくる。僕は、太乙師伯に手をさしのべた。
「わかりますよ。太乙真人さまは、本当に師叔のことを想ってらっしゃるんですよね」
「そう、そうなんだよう、私は……」
 その手をぎゅっとつかみ、僕はにっこり微笑んだ。
「その言葉、しっかり師匠に伝えておきますから」
「……へ?」

 きっかり3秒後、ほうけた太乙師伯の顔から血の気が引いた。
 うちの師匠と太乙師伯はいわゆる理無い仲、更に言い換えるならラブラブばかっぷる、というやつなのだが。淡泊そうな見かけ(いや実際に悟りを開いた仙人なんだけど)によらず、師匠はかなり情深い。何しろ、師伯と親しげに話しこんでたってだけで、愛弟子の僕相手に妬いてたこともあるくらいだ。
 僕はにこにこと続けた。
「いやあ、太乙真人さまが、そんなに師叔のことが好きだったなんて」
「ちょっ、キミ、楊ゼン!? そんな、ええっと、そーゆういみじゃ……」
 何か弁解したがっていたみたいだけど、知ったこっちゃない。
 ナタクに引きずられるように、機上(?)の人となった太乙師伯に、僕は笑顔で手を振った。
 師叔は汗ジトで僕を見つめていた。
「のう、楊ゼン……おぬし、あやつになんか恨みでもあるのか?」
「いやですねえ、師叔。別にあんなの、ちょっとしたあいさつじゃないですか」
「そーか……?」
「ええ、そうですとも」
 そう。あんなくらいで僕の気持ちは収まらない。ちゃんと機会を改めて、今回のお礼はさせてもらうつもりなんだから。
 天化くんが呟いた。
「楊ゼンさんって……やっぱり」
「なに?」
 優しく笑いかけた僕に、天化くんはぶんぶか首を振りたくった。
「なんでもないっ! なんでもないさっ! 俺っちなんっにも言ってないかんね!?」
 どうしたのかな。何でもないって顔でもないけど。
 まあいいや第二段。そんなことより……

 ―――とりあえず、復讐には何が一番効果的かな?








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