夜更けに目が覚めた。 別段珍しいことでもない。ヴァンパイアなのだから。 シエラは寝台から身を起こした。部屋の本来の主は二人ともおらず、明かりもない室内は暗かった。 「ふあああ……よく寝た」 ひとつ大きく伸びをした。身軽に寝台を降りる。 「クラウスもおらぬし、帰るとするかのう」 重い扉を開け、静かに部屋から滑り出た。かすかに届くにぎわいは酒場のほうからで、おそらくキバ将軍はそちらにいるのだろう。 てっとり早く飛んでいこうと、シエラは手近なテラスへ向かった。 良く晴れた夜だった。中天にかかる月が、透明な光を地上へ投げている。シエラは手すりに背中を預け、空を仰いだ。 そのまま軽く目を閉じて、光を身体に受け止める。心地よさを感じながらも、シエラは重く息をついた。 この身に宿るは、月の紋章。愛したすべての子らを失って、それの与える永遠の夜の、なんと空しいことだろう。 優しくもつめたい月の下。自分はただひとり、永の孤独を生きるのだ。 そう思ったとき。ふと、脳裏にクラウスのおだやかな笑みが浮かんだ。軽く首をふる。 それこそ月のように、ひっそりと微笑む青年を気に入っている。 だから、それがどうしたと? あれをどうこうするつもりなどない。死にゆく村人たちを看取りながら、誓ったはずだ。この呪われし運命に、二度と誰も巻き込むまいと。 シエラはきつく身体を抱いた。翼ある身に姿を変えようと、意識を集中する。 「…シエラさん」 かけられた声にシエラははっとした。集った魔力を逃がして目を開ける。 先ほど想ったほほえみと、寸分変わらぬそれがそこにあった。 「クラウス、さん」 開け放したままのテラスの入り口に、青年はひとり立っていた。 「いつから、そちらにいらっしゃったの?」 気配を逃した驚きを押し隠し、シエラは問うた。 「しばらく前から。考え事をされていたようだったので、お邪魔をしてはいけないかと、思ったのですが…」 ゆっくりと月の下に歩みでながら、クラウスは続けた。 「シエラさんが羽根でもはやして、どこかへいってしまうのではないかと思えて」 青年は少し笑った。 「……すみません。おかしなことを言いました」 シエラは何とか笑みを返した。 「わたしは、ここにいますわ」 「そうですね…」 頷きながらも、クラウスはシエラの瞳をじっと見た。そこから、シエラの本心を読みとろうとするかのように。 視線を逸らそうと小首を傾げて、シエラは銀の髪をかき上げた。その手を、突然クラウスにつかまれた。 「クラウスさん…?」 クラウス自身が、自分の行動に驚いているようだった。困ったように視線をさまよわせてから、少し早口で言った。 「ええと…その…、シエラさん。長くここにいらしたんですか? ずいぶん、冷たくなっていますけど」 シエラはくすりと笑った。 「ご心配にはおよびませんわ。…わたしは、もともと体温が低いんです」 普通の人間などよりも、ずっと。続きは心の中で呟く。 「こんなところでわたしとともにいては…クラウスさんこそ、冷えてしまいますわよ」 同じ運命に、引き込んでしまいたくなる。その前に、いっそ逃げてくれればいい。そう思うのに、自ら切り捨ててしまうこともできない自分に苛立つ。 クラウスの瞳が、ふと陰った。 「どうか、したんですか?」 「え?」 意図がわからず問い返す。 「今のシエラさんはなんだか…無理をして笑っているように見えます」 シエラは思わず呟いた。 「普段のわたしも、無理をしているように…見えますか」 口を開けば、もう止まらなかった。 「もしかしたら、クラウスさんが知るわたしは、本当のわたしとはまったく違っているのかもしれない。他の人間を完全に理解するなんて、できるわけがないのだから。…そうでしょう?」 自分はいったい何を言おうとしているのだろう。 「ましてやわたしは…!」 「…シエラさん」 静かな声が遮った。青年の瞳がゆっくりと瞬く。 「私は、シエラさんのすぺてを知っているわけでは…もちろんありません。でも、わかっていることもありますよ」 青年は続けた。 「シエラさんは、優しくて、強い人です。例えシエラさん自身が、そう感じておられなくとも。他者がすべてを知ることができないように、自分自身ではわからない部分もまた、人のこころにはあるんですから」 ずっとつかんだままだったシエラの手を、青年はそっと両の手で包み込んだ。 「それに…ご存じですか? 手の冷たい人は、心があたたかいのだと。きっとそれは、真実なのだと…私は今、思いましたよ」 微笑んだ青年。それが欲しいと、シエラは思った。 けして叶わない、叶えるつもりのない願い。 それでも、今この時だけ。優しい夢を見ることは、許されるだろうか? シエラは、にじみそうになった涙を隠して微笑んだ。 「クラウスさん。……もしもわたしが望んだら、わたしのそばに居て下さいますか?」 青年は目を丸くして、…それから頬をかすかに赤らめた。 「…いつまででも」 けしてうつつには望まない。 ただ…夢を見せて。ひとりではないという夢を。 この夜が明けてしまう、そのときまで。 fin. おまけ。 延々と続く、面倒な書類事務のさなか。 やたらと楽しそうにしている青年に、シュウは目をすがめた。 「ずいぶんと浮かれているようだが…何か面白いことでもあったか?」 「いいえ、別に?」 青年は、軽く首を傾げてみせた。 そうは見えないが。呟いて、シュウは次の書類に手を伸ばした。 「ああ、私が取ります」 渡される拍子に手が触れた。と、何故か青年の動きが止まった。 「…どうかしたか?」 問うと、慌てて否定が返った。 「あ、いえ、すみません! なんでも…」 「だから、全然そう見えないんだが…」 ぶんぶんとかぶりをふられ、シュウはひとつため息をついた。 「まあいいが…何なんだ、一体」 クラウスは、触れた指先をじっと見つめた。 すみません、シエラさん…。 心の中で謝る。 あの話…やっぱりただの迷信なのかもしれません。 |