はらり、とうすくれないの花が散った。 花びらは、静かに、静かに降りつもっていく。 「シード」 クルガンは、低く同僚の名を呼んだ。 桜の古木の下。腕を枕に横たわり、目を閉じた男のまぶたがひくりと動いた。 「こんなところにいたのか」 城の裏手、城壁間近のこの場所に、クルガンが訪れるのは初めてだった。何もせずとも目立つこの男を、その目撃証言をもとに追ってきた先がこの場所だったのだ。 ゆっくりと上がるまぶたの下から、琥珀の瞳が現れる。 「…んだよ。なにか、用か」 細くすがめられた目が、クルガンを見上げた。 「ああ」 そのまま黙り込んだクルガンを、焦れたふうにシードは促した。 「…で?」 「人が話をしているのだから、まずその姿勢をなんとかしろ」 ちっと舌打ちが響く。つもりかけた花びらのなかから、シードはしなやかに半身を起こした。 「これで文句ないだろうが。…で、なんだって」 睨みあげてくる相手に、クルガンはわずか苦笑した。 「こんなところでうたたねをしていては…いや、おまえに風邪を引く心配はいらんが、下の者たちに示しがつかないだろう」 シードの瞳が険悪にひそめられた。寝起きの不機嫌な声が、さらに低くなる。 「どういう意味だよ、それ」 「風邪を引くほどやわな鍛え方など、していないと思ったまでだが?」 うそぶいたクルガンに、シードは顔をゆがめてみせた。 「そりゃどうも、と」 長い指先が、うるさげに紅の髪をかき上げる。からまっていた花びらが、するりとすべり落ちた。 同じ紅色のはずのひとひらは、シードの髪に絡んで白く目を引く。白い軍服の膝まで落ちて、それはようやく薄い色を取り戻した。 ふいと、なにかに気づいたようにシードの視線が上がる。 つられてクルガンが目を上げると、突然強く風が吹いた。 細めた視界に、吹雪にも似て花びらが舞った。 ほおに軽い感触が触れては、なでるようにやさしく滑り降りていく。 それは、やわらかな嵐だった。 風は、ふいにまた収まる。 再び花びらにまみれたシードに、クルガンは身をかがめた。わずかに身を引こうとする相手に構わず、皮手袋を外すと頭に載ったひとひらをつまみあげる。 しなりと、かすかな水気が指先を冷やす。まだ、そこには命の残り火があった。 「…儚い、な」 洩れた呟きは、耳聡く捕えられた。 「ああ?」 シードは顔をしかめ、ドンと老樹の幹を突いた。 かすかな揺れに、はらはらと桜が降る。 「違うだろ」 やさしい雪のなか、シードはにっと笑った。 「こういうのは…いさぎよい、って言うんだぜ」 シードは落ちる花びらを見上げ、眩しげに目を細める。花枝からすり抜けて落ちる陽光に、その瞳が琥珀色にきらめいた。 「……そうかもしれん」 クルガンは、ゆっくりとうなずいた。 花は樹を生かすために。 この男は、この国を守るために。 いまだ永らえる命を手放し、散ることすら惜しまないならば、 ―――その在りようは、いさぎよいと呼ばれるのかもしれない。 どさり。シードの身体がふたたび地に倒れ込んだ音で、クルガンは思いから覚めた。 「………おい」 低く呼ぶと、面倒そうに声が返った。 「…まだなにかあるのか?」 「私が何をしにきたと思っている…」 クルガンは苦笑した。 「クラウスが探していたぞ。ミューズの傭兵砦への出兵が近いというのに、おまえの隊の編成書が出ていない、と」 ぱちりと、シードは目を開けた。 「もう仕上げてあるのだろうな?」 「…………まだだ」 まずい、と頬を引きつらせた同僚に、クルガンはため息をついてみせた。 「他軍にまで面倒をかけるな」 シードは勢いをつけて立ちあがった。水に濡れた犬のように、派手に身震いをする。ついていた花びらが辺りに降り落とされた。 「とりあえず…クラウスのところまで行ってくる」 「ああ、そうしろ」 言ってクルガンは、桜の樹をふり仰いだ。うすくれないの霞に、目を細める。 走り出しかけていたシードが、ふと立ち止まった。 「おまえが、花の風情を楽しもうってたちだとは知らなかったぜ」 楽しげな声音に、クルガンはこめかみを引きつらせた。 「…おまえにだけは言われたくないのだが」 クルガンの呟きはきれいに無視して、シードは屈託なく笑った。 「盛りは過ぎちまったがな…来年、花見でもするか。クラウスも誘って」 ああでもあいつ、宮中で酒などとか言ってうるせぇし。ぶつぶつと呟くシードは、これからそのクラウスに叱られに行くことなど、すでに忘却の彼方らしい。 クルガンはひとつため息をついて、それからわずかに苦笑した。 「そうだな。……それもいい」 次の春にもまた。 この、いさぎよく美しい花と、ともに在りたかった。 そして、ふたたび春は巡り。 崩れた城壁の隅には、おだやかな白いひかりがわだかまる。 そのひかりのただなか、半ば幹を引き裂かれねじれた桜の下に、青年がひとり立っていた。 踏みしめる白い瓦礫の隙間から、そっとつる草が這い出している。 ふわりと、そよ風が吹いた。 青年の長い前髪が、さらりと流れる。隠されていた瞳が上を仰ぎ見た。 風は細い枝先に触れ、そっと花びらを揺り落とす。 青年は、眩しげに瞳をすがめた。白い頬を、花びらが滑り落ちる。 そのまなじりから、するりと水滴が落ちた。 青年の足もと、白い瓦礫の陽だまりに、薄い灰色の染みができる。 ぽつり、ぽつりと染みは数を増やした。 うすい唇が、かすかに開いた。 「……約束を、守りに来ました」 ささやきに応えるものは、すでにない。 はらり、とうすくれないの花が散った。 |