■   桜忌  ■




 はらり、とうすくれないの花が散った。
 花びらは、静かに、静かに降りつもっていく。


「シード」
 クルガンは、低く同僚の名を呼んだ。
 桜の古木の下。腕を枕に横たわり、目を閉じた男のまぶたがひくりと動いた。
「こんなところにいたのか」
 城の裏手、城壁間近のこの場所に、クルガンが訪れるのは初めてだった。何もせずとも目立つこの男を、その目撃証言をもとに追ってきた先がこの場所だったのだ。
 ゆっくりと上がるまぶたの下から、琥珀の瞳が現れる。
「…んだよ。なにか、用か」
 細くすがめられた目が、クルガンを見上げた。
「ああ」
 そのまま黙り込んだクルガンを、焦れたふうにシードは促した。
「…で?」
「人が話をしているのだから、まずその姿勢をなんとかしろ」
 ちっと舌打ちが響く。つもりかけた花びらのなかから、シードはしなやかに半身を起こした。
「これで文句ないだろうが。…で、なんだって」
 睨みあげてくる相手に、クルガンはわずか苦笑した。
「こんなところでうたたねをしていては…いや、おまえに風邪を引く心配はいらんが、下の者たちに示しがつかないだろう」
 シードの瞳が険悪にひそめられた。寝起きの不機嫌な声が、さらに低くなる。
「どういう意味だよ、それ」
「風邪を引くほどやわな鍛え方など、していないと思ったまでだが?」
 うそぶいたクルガンに、シードは顔をゆがめてみせた。
「そりゃどうも、と」
 長い指先が、うるさげに紅の髪をかき上げる。からまっていた花びらが、するりとすべり落ちた。
 同じ紅色のはずのひとひらは、シードの髪に絡んで白く目を引く。白い軍服の膝まで落ちて、それはようやく薄い色を取り戻した。
 ふいと、なにかに気づいたようにシードの視線が上がる。
 つられてクルガンが目を上げると、突然強く風が吹いた。
 細めた視界に、吹雪にも似て花びらが舞った。
 ほおに軽い感触が触れては、なでるようにやさしく滑り降りていく。
 それは、やわらかな嵐だった。

 風は、ふいにまた収まる。
 再び花びらにまみれたシードに、クルガンは身をかがめた。わずかに身を引こうとする相手に構わず、皮手袋を外すと頭に載ったひとひらをつまみあげる。
 しなりと、かすかな水気が指先を冷やす。まだ、そこには命の残り火があった。
「…儚い、な」
 洩れた呟きは、耳聡く捕えられた。
「ああ?」
 シードは顔をしかめ、ドンと老樹の幹を突いた。
 かすかな揺れに、はらはらと桜が降る。
「違うだろ」
 やさしい雪のなか、シードはにっと笑った。
「こういうのは…いさぎよい、って言うんだぜ」
 シードは落ちる花びらを見上げ、眩しげに目を細める。花枝からすり抜けて落ちる陽光に、その瞳が琥珀色にきらめいた。
「……そうかもしれん」
 クルガンは、ゆっくりとうなずいた。

 花は樹を生かすために。
 この男は、この国を守るために。
 いまだ永らえる命を手放し、散ることすら惜しまないならば、
 ―――その在りようは、いさぎよいと呼ばれるのかもしれない。

 どさり。シードの身体がふたたび地に倒れ込んだ音で、クルガンは思いから覚めた。
「………おい」
 低く呼ぶと、面倒そうに声が返った。
「…まだなにかあるのか?」
「私が何をしにきたと思っている…」
 クルガンは苦笑した。
「クラウスが探していたぞ。ミューズの傭兵砦への出兵が近いというのに、おまえの隊の編成書が出ていない、と」
 ぱちりと、シードは目を開けた。
「もう仕上げてあるのだろうな?」
「…………まだだ」
 まずい、と頬を引きつらせた同僚に、クルガンはため息をついてみせた。
「他軍にまで面倒をかけるな」
 シードは勢いをつけて立ちあがった。水に濡れた犬のように、派手に身震いをする。ついていた花びらが辺りに降り落とされた。
「とりあえず…クラウスのところまで行ってくる」
「ああ、そうしろ」
 言ってクルガンは、桜の樹をふり仰いだ。うすくれないの霞に、目を細める。
 走り出しかけていたシードが、ふと立ち止まった。
「おまえが、花の風情を楽しもうってたちだとは知らなかったぜ」
 楽しげな声音に、クルガンはこめかみを引きつらせた。
「…おまえにだけは言われたくないのだが」
 クルガンの呟きはきれいに無視して、シードは屈託なく笑った。
「盛りは過ぎちまったがな…来年、花見でもするか。クラウスも誘って」
 ああでもあいつ、宮中で酒などとか言ってうるせぇし。ぶつぶつと呟くシードは、これからそのクラウスに叱られに行くことなど、すでに忘却の彼方らしい。

 クルガンはひとつため息をついて、それからわずかに苦笑した。
「そうだな。……それもいい」

 次の春にもまた。
 この、いさぎよく美しい花と、ともに在りたかった。




 そして、ふたたび春は巡り。

 崩れた城壁の隅には、おだやかな白いひかりがわだかまる。
 そのひかりのただなか、半ば幹を引き裂かれねじれた桜の下に、青年がひとり立っていた。
 踏みしめる白い瓦礫の隙間から、そっとつる草が這い出している。


 ふわりと、そよ風が吹いた。
 青年の長い前髪が、さらりと流れる。隠されていた瞳が上を仰ぎ見た。
 風は細い枝先に触れ、そっと花びらを揺り落とす。
 青年は、眩しげに瞳をすがめた。白い頬を、花びらが滑り落ちる。
 そのまなじりから、するりと水滴が落ちた。

 青年の足もと、白い瓦礫の陽だまりに、薄い灰色の染みができる。
 ぽつり、ぽつりと染みは数を増やした。

 うすい唇が、かすかに開いた。
「……約束を、守りに来ました」


 ささやきに応えるものは、すでにない。
 はらり、とうすくれないの花が散った。





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