刃にへばりついた獣の血と脂を、端布でぬぐい取る。 つう、と汗が一筋、うつむけた目もとへ流れ落ちた。視界が下草の緑ににじむ。 ゼロスは一度かたく目をつぶり、ついでに大きく頭を振って、首すじにまとわりつく髪を払いおとした。 取り戻したクリアな視界のもとで、獣の爪を受けた刀身に刃こぼれがないか、木々の間からこぼれる陽のひかりにかざしてじっくりとながめる。問題なさそうだと判じて、ゼロスは長剣を鞘におさめた。 ふり返れば、すでに獣のしかばねは解体されはじめていた。 黒い剛毛におおわれ鋭い爪をそなえた四肢と、雄牛のそれによく似た頭部は胴体から切りはなされ、湿った黒土の上から、にごった目が恨めしげに宙をにらんでいる。積まれたそれらの上にのせられた、この生き物についていたと思えば冗談のように優美な白いつばさには、点々と赤黒い血が染みこんでいた。 地面に横たえられた巨体をおおう皮は大ざっぱにはがされ、開かれた胴体に手をかけたロイドが、その腰回りの肉をナイフで手ぎわよく切りとっていく。 木立を通り抜ける風の向きが変わって、吹きつけたおびただしい臭気に、ゼロスは思わず息をつめた。 肉を食う獣の肉は臭みが強く、食用には不向きだというのは俗説だ。実際のところ、ゼロスはそれなりにうまいと思える味に調理された肉食獣の肉を、宮廷の晩餐で口にしたこともある。 とはいえ、グロテスクなモンスター――今回は、魔科学によって複数の生き物を掛け合わせた合成獣を解体して、このあたりはビーフだと評するロイドの感覚には、どうにもついていけない。 生まれ育ちの違いと片付けるにも、同じ村で育ったというハーフエルフの少年もげっそりとした顔をしているのを見るに、これは生来の図太さによるところだろう。 頭をひとつ振って、ゼロスは旅の荷に歩みより、一抱えほどもある鉄製の深鍋を取りあげた。取っ手を持って片手にぶら下げる。 「ゼロス?」 こちらの動向をめざとく目に留めたロイドが、尋ねるように声を上げた。 ひらりと肩越しに手を振って、ゼロスは水場へと歩きだす。水汲みに行こうという意図が伝わったのだろう、よろしくな、と明るい声が背中に当たった。 いまだ、野営の準備にはあまり役立てない自覚のあるゼロスに、五つ年下の少年は、何くれと無く世話を焼こうとする。 たとえば、即席のかまど一つ作るにも、一人で済ませてしまった方がよほど早いだろうに、材料に使う石の選びかたから熱心に説明した上で、やってみろよとゼロスにうながす。火を付ける段となれば、コツを口にしながら火打ち石を目の前で使ってみせもした。 世話を焼くという言い方は、適切ではないかもしれない。監視役という部外者ではなく、あくまで旅の仲間としてあつかい、集団の一員としての役割を果たさせようとする意志が、そこには感じられた。 ロイドに教えられるさまざまなことは目新しく、元からの旅の連れたちと同列に置かれた気の置けない友人のようなあつかいは、どこかくすぐったい感覚をもたらした。 案外、悪くない。気づけば、そんなことを考えている自分に、自分でおどろく。本当の意味で仲間になることなどできはしない身で、何を。 岩の間から清水のわき出る泉のかたわらに片ひざをつく。水面を見下ろせば、どこか途方にくれたような男の顔が映って、ゼロスは勢いよく鍋を泉の中へとつっこんだ。 数往復して汲んできた水の最後の一杯を、ちょうど肉の処理を終えたロイドに持っていってやったのは、ちょっとしたサービスだ。 放っておけば自分で洗いに行ったろうが、十中八九、血と臓物のかけらがこびりついた手をそのまま泉につっこまれる。明日の朝にはまた使うことになるだろう水場だ。できれば、それは遠慮ねがいたい。 そう相手に言ったところで理解されないだろうことはわかっていたから、これはゼロスなりの折衷案でもあった。 「おー、ありがとな」 屈託なくロイドは笑って、ゼロスがかたむけた鍋のふちに手を差しだし、流れ落ちる水で汚れを洗い流す。ゼロスもへらりと笑いかえした。 「いんや、どういたしまして」 ナイフを革の鞘に収めながら、ロイドがはずんだ声で言う。 「今日は肉鍋だってさ。食事当番はジーニアスだから、期待してていいぜ!」 「あっ、そう……」 半ばより少し多いくらいの水かさが残る鍋を、ひとまず足もとに置く。今日の鍋の具は、野菜だけ選り分けて食べられないものかと内心考えながら、ロイド言うところの『ビーフ』の下ごしらえをするジーニアスを眺めていると、ふと視線を感じて、ゼロスは首をひねった。 とっくに何か次の作業にかかっているだろうと思っていたロイドが、濡れた手をぶらさげて、こちらをまじまじと見つめていた。 「なんだよ、ロイドくん。あ、ハンカチは貸してやらないぜ」 はじかれたように、ロイドが首を振った。あわてた様子で、手をズボンにこすりつけている。 「や、別に! そういうんじゃねえよ」 じゃあ、なんだったんだよ。思いながら、ゼロスは肩をすくめるにとどめた。 周りの者たちの言動すべてに神経を張りめぐらせてきた王都での日々を思えば、我ながらあきれるほどの適当ぶりだ。いやしかし、裏もなければ腹芸もできないと知っているコイツを相手に、神経をすり減らすほうが馬鹿らしいというものだろう。つらつらと考えて、そこでゼロスは苦笑した。 「あーあ、俺さま、しいなのこと笑えねえかも」 いつのまにやら、目の前のコイツの脳天気が、自分にまで移ってきたらしい。それがさほど不快とも思えないあたり、もう相当に重傷だ。 こみ上げる自嘲をためいきごと飲みこめば、ロイドが困った顔をした。 「はあ? しいながどうしたって?」 「気にすんなって、こっちのハナシ!」 自分の馬鹿さ加減がおかしくなって、ゼロスはやけくそ気味の笑い声を上げた。 この街道を行く旅人たちが、長年使ってきたのだろう。踏み固められ、森の中にぽっかり空いたくぼ地で野営の準備をすっかり終えてしまっても、夏の日が落ちるにはまだ間があった。 手もとがよく見えるうちに懐剣の手入れをしてしまおうかと、自分の荷をあさりかけたところで、ふたたび視線を感じて、ゼロスは顔を上げた。 少しはなれたところに座って、リフィルに申しつけられたらしい教本(ただしほとんどめくられた様子はない)をひざに載せたロイドと目が合う。何を言ってくるでもなく、ただじっと向けられるまなざしに居心地の悪さを覚えて、ゼロスは首筋をかいた。 「……なあ、さっきからさ、俺さまの顔になんかついてるか?」 「へっ? あー、目と鼻と口ならついてるな」 「アホか、誰もんなこた聞いてねえっつーの!」 素の口調で返答をしてきたロイドに思わずわめき返す。 鍋の番をするジーニアスの横で古びた書物に目を落としていたリフィルが、顔をしかめてこちらを見やった。あわてて愛想笑いを返してから、ゼロスは元凶のほうへと視線を戻した。変わらず、ロイドは何も考えていない顔でこちらを見つめていた。 だめだ。コイツのやることすべてに、意味を求める方が間違っている。 ためいきひとつであきらめて、話題を変えようとゼロスは少年の手もとに目をとめた。 「……つーか、ロイドくん、また食ってるのかよ」 「ん、ああ、うん」 教本を開きっぱなしに、手にしていた干し肉の最後のひとかけを口に放りこみ、ロイドが少し気まずそうな顔をした。 そういえば、最近のロイドは以前にも増して食欲が旺盛だ、と思う。三度の食事に加えて、保存食をつまんでいたり、果物をかじっていたりと、なにかを口にしているところをよく目にする。 「育ち盛りっつっても限度があるだろ。そんなのべつまくなし食ってたらぽよんぽよんになっちまうぜ〜?」 荷を置いて、どっこいせと立ちあがる。ロイドのそばにしゃがんでその脇腹をつついてやると、噛んでいた肉を飲みこみ、ロイドが顔をしかめた。 「おい、こら、ってやめろよもう、ゼロス!」 くすぐったかったのか、大きく身をよじる。本がバサリと地に落ちた。 「うん、前より確実にお肉がついてるな」 「うっ……!」 ショックを受けた顔をして、そのまま自分の腹を見下ろし動きを止めた相手に、威勢の良い反論を期待していたゼロスはまばたきをした。うすい教本を拾って手渡してやる。ちらりとのぞいた中身がどう見てももっと年少のこども向けであることには、いまさら触れるつもりもない。 「……それがさあ」 すなおにそれを受け取ったロイドの口から、ぽつりとつぶやきがこぼれた。 「おまえを見てると、なんか腹減ってくるんだよな、俺」 「……はあ?」 思わず、間抜けな声が出た。何を言いだすんだ、このガキは。 「この麗しのゼロスさまのかんばせに、見とれるならまだしも食い物が欲しくなるってどういう感覚してんのよ。つか、見ると腹減るってんなら、そもそも見なきゃいいだろうが」 「なんか、ほら、おまえの髪って飴細工っぽいじゃん。近くだと、果物みたいな匂いもするし」 「ああそりゃ多分、髪に使ってる香油の……じゃなくて、俺さまの話、聞いてました?」 ゼロスのツッコミをまるっとスルーして、ロイドがふかぶかと息を吐いた。逆立てたとび色の髪ごと、その頭がうなだれる。 脱力したいのはこちらのほうだ。ゼロスはがりがりと頭をかいた。 「つーかさ、ロイドくん、たしかに俺さまの髪はお手入ればっちり、つやつやのさらっさらのいい香りでしょーけど? だからって、自分の食い意地が張ってるのを、さも俺さまのせいみたいに言わないでくれっかなあ?」 「ええー……」 ばっさり切ってはみたものの、ロイドのしょぼくれた様子は腹を空かせた仔犬のようで、なけなしの同情心が動く。ためいきをついて、ゼロスは腰を上げた。 「はあ〜……しゃあねえなあ。夕飯までまだあるし、そんなに腹減ってんならなんか間に合わせで作ってやるよ」 「ほんとか?」 ぱっと、ロイドの目がかがやく。 「おう。この俺さまが、野郎のためにわざわざ腕を振るってやるんだ、ありがたく思えよな」 「思う思う、ありがとなゼロス!」 ロイドの調子が上向くそのお手軽さ具合に、ゼロスは思わず苦笑した。 「それまでは、ほれ、これでも食ってまぎらわせてろよ」 自分の荷物をあさって、ゼロスはリンゴの砂糖漬けの包みを取り出した。 期待のまなざしを向ける子どもに笑って、紙包みから一口大に切った果実をつまみ出した。こちらを見あげる相手へと、身をかがめる。 「はい、ロイドくん、あ〜ん」 わざとらしく甘い声音を使ってつきつけた指に、ロイドが困惑したような顔をした。それから、ためらいがちに口をひらく。 気色悪いことをするなと顔をしかめるか、そうでなければ、無造作に鳥のヒナのような大口を開けるところを想像していたゼロスは、少し意外に思いながら、つまんだ果実を差しだした。 ひらかれた小さな隙間に、指先をつかって押しこんでやる。果実をロイドの舌先にのせて引きだす指が、目測をあやまって、その下くちびるをひっかけた。 「ッ!?」 ロイドの肩が大きく跳ねた。その右手が口もとをおおう。 「あー、悪ィな。ひっかいたか?」 咀嚼することなく飲みくだしたらしく、ごくんとロイドののどぼとけが動いた。とたんげほげほと咳きこんで、顔を真っ赤にする。もったいねえな、と思ったのは、自分も小腹が空いてきたからだ。 「おーい、大丈夫かよ、ロイドくん」 「……や、いや、うん……」 いいのか悪いのかわかりづらい相づちに、まあいいかとゼロスは肩をすくめた。 「んじゃまあ、腹ぺこのロイドくんのために、サンドイッチでも作ってきますかね」 片手に持ったままだった菓子包みから、もうひとかけらつまみ出す。ぽいと自分の口にも放りこんだ。べたつく指先を舐めとって、片足を軸にゼロスは身をひるがえす。 「ゼ、ゼロスッ!?」 食材の入った荷物をあさりに向かおうとしたゼロスを、ロイドのひっくり返ったように高い声が引きとめた。 「あん? ああ、大サービスでトマトは抜いといてやるから安心しろよ」 「あ、いや、その……」 呼びとめておきながら、ロイドはあやふやに首をふり、まだ赤みのひかない顔をうつむかせた。 「なんか、俺、もう入りそうにないから……ごめん、やっぱ、作ってくれなくていい」 「はあ?」 怪訝な思いで返せば、ますますロイドの頭が下がっていく。 「ロイドくんが食い物を遠慮するとか、なに、腹でも痛くなったってか? 変なモン拾い食いしたんじゃねえだろうな」 「そんなことしてねえよ。してねえけど、なんか、苦しいっつーか……スポンジかなんか、ぎゅうぎゅうにのどの上の方までつめこんだみてえ」 「おいおい、マジで大丈夫かよ」 ふざけた様子もなく言われて心配になってくる。とってかえして、ゼロスは少年の前に片ひざをついた。 「ちゃんと息吸って、吐けるか? ほれ、吸って〜、吐いて〜」 指先であごをすくって、気道を確保。肩口をぽんぽんとたたいてやりながらうながせば、少し短いながらも安定した呼吸音が返る。 「うーん、問題なさそうだけどなあ。ロイドくん、ちょっとおおきく口開けてみ?」 とたん、ぎょっとしたようにロイドが口を引き結んだ。あきれてゼロスは首を振った。 「こんな時に悪ふざけとかしねえよ。なんかなってないか、見てやるだけだって。ほら」 催促に、そろそろと口が開かれる。すかさず、ゼロスは下の歯に、あごにかけていた手の親指をひっかけた。もう片方の手も口の中に入れ、上あごをぐいと引っぱりあげる。 「ッ……んー!!」 とたん、ロイドが情けないうめき声を上げた。反射のように上がった腕がゼロスの肩を押す。 「暴れんなっての。ほれ、舌出せ、べーって。それとも俺さまに引っぱり出されたいか?」 にやりと笑ってやると、ロイドの体がこわばった。しばらくの硬直の後、ゆっくりと舌が伸ばされ、のどの奥が見えるようになる。 ひざ立ちになったロイドに顔を近づけて、ゼロスは口の中をのぞきこんだ。 「ん〜………」 見える範囲では、それらしき異状は見て取れない。ゼロスの力がゆるんだのを感じたのだろう、ロイドが強引に、あごを拘束していたゼロスの手を振りはらう。 「もっ、もういいだろ!? 治った! 治ったから!!」 半ば絶叫して、ロイドは立ち上がり、全速力で駆けていった。 あっというまに消え去ったその背中に、ゼロスはあっけにとられつぶやいた。 「……なんだってのもう、わっけわかんねえ」 腑に落ちない思いを飲みこんで、ゼロスは立ちあがり、ひざの土を払いおとした。 「まあ、あれだけ元気なら問題ねえな。あ〜、心配してやって損した」 倒木を飛びこえ下草を蹴散らし、全力で駆けて、野営地が木立の間に見えなくなるくらいまではなれたところで、ロイドはようやく速度を落とした。のろのろと数歩、惰性のように進んでから、とうとう足を止める。 「……………何、やってんだ、俺」 荒い息をととのえながら、がっくりと両ひざに手を突けば、自分のジャケットとグローブが目に入った。 もとより赤は好きな色だ。自分で言うだけあって手入れの行き届いたゼロスの長い髪がひらめけば、自然にそちらへ目が動く。 結果として、視線に聡いゼロスにあからさまに不審な顔を向けられながらも、そうして相手がこちらを見ている間は、まだ問題ないのだ。 ところが、向けた視線の先に、誰かに気を取られているゼロスの姿や、女性に笑いかけるその横顔を見いだせば、とたんに、きゅうと空腹めいた心許なさに腹がしめつけられる。 それがいまや、むしろ胸が破裂しそうな勢いで、むくむくと熱いかたまりがふくらんで、息ができないほどに身の内を圧迫していた。 腹が空っぽでもいっぱいでも、どっちにしたって苦しいだなんて、一体全体どういうことだ。 すっかり血が上った頭を抱えこむ。 少し早い夕飯に呼ぶ声さえ耳に入らぬまま、あたりがすっかり澄んだ日暮れの赤色に――熱を帯びたほおと、そして、名も知らぬ病をもたらした男の髪と同じ色に染まるまで、ロイドはひとり、うずくまっていた。 Fin. |