クラウスがルルノイエの王城、その廃墟へと足を踏み入れたのは、年が変わって間もなくのことだった。 「………これほど、とは」 正面入り口へと続く、前庭へ一歩踏み入って。知らずクラウスはつぶやいた。ぐるりと首を回す。 記憶の中では美しかった庭園は、混乱の中での火災に枯れ果てていた。立ち枯れたさんざしの木へ、半ば無意識に手を伸ばす。つかんだ枝は手の中で、パキリとたやすく折れた。 「おい、クラウス」 軽く肩を叩かれ、クラウスは我に返った。おそらく、自分が思うより長い間立ちつくしていたのだろう。 「ああ、…すみません、ビクトールさん」 後ろに立った男と、数名率いた兵を振り返り、クラウスは微苦笑した。 「ずいぶん様子が変わっていたので、つい。…これでは王家の財も、どうなっているやらわかりませんね」 「おいおい、宝探しの最初からそんなこと言ってくれるなよ」 おどけた口調で言って、男は大柄な肩をすくめた。 「ま、へしゃげてようと金は金、石だって磨き直せばすむこった。少なくとも、どんなしろものになってたところで俺らの責任じゃねえさ」 男の軽口に、クラウスは少し笑った。 「…そうですね」 半ば崩れかけながら、無惨な偉容をさらす城を見上げ、クラウスは目をすがめる。 冬の陽光が、白く、空虚な明るさを満たしていた。 城に残された金品を回収するために、隊が組まれたのは皇都陥落からほんの数日後。その早さは、盗賊の類に持ち去られる前にとの配慮からだった。城を舐めた炎こそ収まったが、あたりはいまだ、落城の日そのままに放置されている。 城門からの庭園を抜ければ、そこが正面入り口だった。 「…こりゃ、素直には開いてくれそうにねえなあ」 ビクトールが、鉄の門扉をしばらく眺めてからうなった。城が崩れる際に、枠がゆがんでしまったらしい。扉に刻まれた白狼のレリーフは、いびつにたわみながらもなお、侵入者をかたく拒んでいた。 「そう、ですね」 クラウスもうなずいた。 「全員で、押してみましょう。それで無理なら…槌でたたき壊すしか」 言いながら、声が幾分沈むのが自分でもわかった。 「なんとかいけるだろ。たぶんな」 すっと横をすり抜け、ビクトールが前に出た。すれ違いざま、ぽん、と背をたたかれる。 「よし、そっちの片方がまだ取っつきやすそうだ。おいおまえら、こっち来て押せ!」 男のかけ声に、兵士たちが走り寄った。一拍遅れ、クラウスも加わる。 「くそ…重い、ってんだ、よ」 額に汗を浮かべ、ビクトールがうなった。ゆがんだ大扉を、数名がかりで押し続ける。 クラウスも、歯を食いしばって腕に力を込めた。 しばらくの後。ぎぎ、と不服げな音を立てて、扉は征服者たちを受け入れた。開いた扉の奥からかすかに焦げ臭い風が流れ、クラウスの隣にいた兵士が顔をしかめる。 ゆっくりと、薄暗い大広間へ踏み込む。あたりを落ち着きなく見回す兵たちに、クラウスは声をかけた。 「気をつけてください。生存者がいるとは思えませんが、どこかが崩れてくるかもしれない」 「で、どっちにいきゃあいいんだ」 太い声で闊達に問われ、クラウスは広間を見渡した。 「行けるところまで、まっすぐ行きましょう。宝物庫は、上の階ですから…上がれる場所を探さなければ」 先に立ち、血と土砂、砕けた大理石の彩る赤絨毯を歩む。しばらくして、クラウスは足を止めた。 「どうされましたか」 続く兵たちも立ち止まる。がしゃりと、軽甲冑が音を立てた。 「いえ、…どうやら」 クラウスは薄闇の奥を見透かし、目をすがめた。その先の大扉は、倒れた柱にふさがれている。 「この先の順路は、ふさがってしまったようですね。…左方の回廊から、迂回できるかもしれません」 「お待ちください、確認してきます」 クラウスの視線を受け、兵が一人、脇の回廊へと入っていった。 軍用の長靴に、砕けたシャンデリアが踏みしだかれ、ぱきんと澄んだ音を響かせた。クラウスは、はかなくきらめく残骸へと目を落とした。 この崩壊はハイランド側の軍師が起こしたものと聞いて、心中は複雑だった。 無用な破壊をといきどおる者もいたが、この結末は、実に都合が良かった。最後まで城に残り、最期までハイランドに背かなかった者たちは、生きながらえたとしても、多くが新体制に反する勢力となったことだろう。 最後の誇り、最後の忠義、最後の……この城は、それらすべてのよりどころであったのだ。そして今その崩れ落ちた姿で、ハイランドという国家の終焉を、わかりやすく告げている。 軍師としての理性は、いっそ感嘆を示す。ハイランドの人間ではなかったとはいえ、自分がくみした陣営の完全なる敗北を、訪れる次の国のために、惜しげなく与えたその軍師に。 だが、この国に生まれ、この国を愛した軍人として…変わり果てたすべてに、クラウスは唇を噛んだ。 それでも、自分に、この国を悼む権利などありはしないのだ。 クラウスは、顔を上げて闇を見つめた。 「お、戻ってきたぜ」 ちょうど機をはかったように、ビクトールが声を上げた。 がしゃがしゃと、無骨な甲冑の音が広間に近づいてくる。 「こちらの通路は生きているようです。先に、上り階段がありました」 高い広間の天井に、兵士の声が反響した。 二つほど階を上り、それからまた埃っぽい通路を進む。しばらく歩くと、その道先が明るくなった。中庭に面した回廊の壁が崩れ、間から落ちた陽光が、歩みに舞い上がる埃をきらきらと輝かせている。 クラウスはふと立ち止まった。 それとは反対側、入ってきた光に白々と照らされている壁をなぞって、目を細める。 「これは…」 宮城の見取り図を、頭の中で描き出す。自分たちの位置を確認して、クラウスは一つうなずいた。 「どうした?」 ビクトールが、後ろから問いかける。それに応じ、クラウスは壁の石組みを示した。 「見てください。間の石膏が砕けて、石がゆるんでいる。私の記憶では、この向こうが宝物庫となっているはずです」 指先で、軽く積み石の一つを押してみる。うまくやれば、回廊自体を崩すことなく壁に穴を開けられそうだった。 「大回りすれば、きちんとした扉がありますが…あれは頑丈だし、少々やっかいな鍵がかかっていますから。ここからのほうが楽に済むでしょう」 言いながら、クラウスは口の端を苦い笑みにゆがめた。 これではまるで、王家の至宝を荒らす盗人だ。いや、まるでではなく…私こそ、手引きする内通者そのものか。 「ふむ」 うなずいたビクトールは、クラウスから壁へと目を転じた。顔を近づけ、じっと観察する。 「そうだな、たしかに」 ついでのように、ふっと壁に息を吹きかける。とたん、ぶわりと砂埃が舞った。顔をしかめつつ、男は振り向いた。 「んじゃ、早速作業にかかるとするか」 「ええ、それでは…」 クラウスがうなずこうとしたのを、ビクトールはあっさりさえぎった。 「ああ、おまえさんはいい」 いきなりの言に、クラウスは瞬きをした。 「……は?」 思わず声が半音上がる。見返したクラウスに、男は追い払うように手を振った。 「んなせまいところで、全員壁に取り付けると思うか? おまえは他にめぼしいもんでも残ってないか、適当に見てきてくれ」 「はあ…しかし、」 他に探すほどのところなど。 「しかしもかかしもねえよ」 またも途中でさえぎって、男はクラウスの肩をつかんだ。軽く押しやられる。 「……ここのお宝の物色なんぞ、したかねぇだろおまえは」 拾えるかどうかの低い声に、クラウスは目を見開いた。見返してくる細められた濃茶の瞳は、存外やさしげな色をしていた。 どういう表情をすべきか一瞬迷ってから、クラウスはゆるゆると笑んだ。 「わかりました。それでは、行ってきます」 おう、と男は屈託なく応じた。 「迷子にならんようにな」 ちゃかした見送りに、クラウスは思わず苦笑を漏らした。 「……はい」 どこへともなく、すすけた回廊を歩く。どこも見覚えのある中、現れた細い石扉の前にクラウスは立ち止まった。 しばらく扉の取っ手を見つめ、ゆっくりと引き開ける。思っていたような抵抗はなく、扉はなめらかに動いた。 ひゅう、と吹き込んできた風がクラウスの髪をかき上げる。その勢いに目を細めて、クラウスは扉の外を見回した。そこは、城下を見渡せる広々としたテラスだった。 かつんとかかとが、高い音を立てた。ひび割れた石床を踏み、歩く。横殴りの突風に、クラウスは少しよろめいた。いつの間にか、日もかげってしまっている。 短い強行軍の後、テラスのへり、低い石組みへとたどり着いてクラウスは息をついた。腰より幾らか高い石組みのふちに手をかけ、身体を支える。 見上げた冬空も、見下ろした城下も灰色だった。 同盟軍の正軍師は攻略時、民に対する略奪や暴行を禁じていたが、戦の興奮の中では多少の行き過ぎも存在したし…なによりここは、ハイランド人の誇り、その結実たる皇都だ。多くの家は堅く扉を閉ざしていたが、幾らかは民間人の抵抗もあった。見下ろす街には、ところどころに荒れた様子も見て取れる。 自らの策で炎に身をさらし、天幕で休む上官へ、皇都城下での戦況を報告した時のことを、クラウスは思い出した。 彼はその冷めた面に、めずらしくも多少の敬意を浮かべて言ったのだった。 「……ハイランドに残る将官は、愚かではないな」 都市を囲む隔壁より内には、兵はほとんど配備されていなかった。おかげで同盟軍は、市街はほとんど通り抜け、たやすく城内へなだれ込むことができたのだ。城に入ってからはもちろん、数多くの兵と戦うこととなったが。 民はおそらく、皇王はその身を守るために兵を引き上げ、自分たちを見捨てたのだと思っただろう。そのために城下の民は格段におとなしくなったし…何より、民を巻き込む市街戦を行わずに済んだ。その甲斐あって、占領後も、想定していたほどには同盟軍への評は悪くない。 「ジョウイ殿、あなたは……」 皇王の行方を、少なくともクラウスは知らない。軍主率いる選抜隊が皇王の間にたどり着いたときに、すでに彼の姿はなかったのだという。負けが決まった後、民のために裏切り者の役を演じた彼が、命惜しさに落ちのびたとは思えなかった。きっと、クラウスにはわからない何かがあったのだろう。 その彼も、こんなふうにここから、この街を見ただろうか。そして―――最期まで、空の玉座を、落ちのびる皇王の背を守っていた、かつての同僚たちも。 ぼんやりと街を眺めやるうちに、いつの間にか風はおさまっていた。 そろそろ戻ろうかと、きびすを返したとき。 頬に、ふわりとなにかが触れた。驚いて手を当てると、指先に、冷たく濡れた感触が残った。 曇天を見上げると、重たげな鉛色の雲から、ゆっくりと落ちてくるものがある。 クラウスは、見上げていた空から、手元に落ちてきた白片に合わせて視線を落とした。手に受けようとした瞬間、風がそれを後方へとさらう。つられて、クラウスは後ろを振り返った。 ちいさな欠片は、テラスの縁を超えて飛んでいった。見つめる先、くすんだ色の街へと、また一つ、一つと舞い降りていく。静かに、それは勢いを増していった。崩れかけた城壁を、家屋を、石畳を、白くおおっていく。 ―――――ああ。 クラウスは、ぼんやりと見おろした。 灰が、降っている。 この城を、この街を、この滅んだ国を―――埋めてしまうために。 冷えた身体にまとわりつく灰は溶けず、クラウスの肩にも積もっていく。 埋もれていく街を見ようと、クラウスは縁の石組みに上体を預けかけた。 カラ、リ――― 乾いた音に、はっとするかしないか。 「この、馬鹿野郎!!」 鼓膜をふるわす怒声とともに、クラウスは後ろに引き倒された。風圧で舞い上がった白に、一瞬視界が染まる。 クラウスは、状況をつかみきれずにぽかんとした。冷たい石床にへたり込み、自分の襟首を引いた相手を振り返る。 「危ねえだろうが!!」 後ろで同じようにしりもちをついて、男は怒っていた。 「…ビクトール…さん?」 「だああ、呆けてんじゃねえ、前見ろ前!」 視線を前方へと戻す。と、さすがに血の気が引いた。 おそらくはもろくなっていたのだろう。クラウスの体重に耐えきれず、石組みが一部崩れかけている。 「……くずれて、ます、ね」 「…おう」 落ち着いたのか、男は深いため息をついた。 「おまえさん、自分で言ってたろうが。崩れやすくなってるから気をつけろって…」 「はい…」 半ば呆然とうなずいた頭を、ぐしゃぐしゃと男の手にかき回された。冷えていた頭には、革手袋につつまれたそれでも、どことなく温かかった。 「前から、しっかりもんに見えてどっか抜けてるたあ思ってたが…勘弁してくれ、クラウスちゃんよ」 むっとして、なにか言おうとクラウスは口を開けた。が、全面的に自分が悪いことに思い当たる。 ようやく、思考がまともに動き出した。 「ありがとうございます。……助かりました」 「いいや、子供のお守りも仕事のうちだからな」 ふざけた返答に、しかし今回も反論はできず、クラウスはゆっくりと立ち上がった。 雪に――灰でも何でもなく、雪にまみれた、自分の身体を見下ろす。横で腰を上げた男に飛ばさぬよう気遣いながら、クラウスは髪や服の雪を払い落とした。溶けて布地にしみこんでしまった分は、もういかんともしがたい。早く戻って、着替えるしかないだろう。 そう思っていたところ、隣で男が大きく頭を振った。跳ね飛んだ雪片が、まともにクラウスへ降りかかる。 「………ビクトールさん…」 「あ? わりぃわりぃ」 あっけらかんと謝る相手に怒る気もせず、クラウスは苦笑した。 「作業は終わったんですか」 「ああ。それで探しに来たんだが…声をかけようと思ったとたんにあれだ。びびったぜ」 言いながらも、男は笑っている。 「すみません、ついぼんやりとして」 頭を下げたクラウスに、男は手を振った。 「や、いいんだけどな。…どうかしたか?」 クラウスは、一つ瞬きをした。 「……灰が、降っているようだと」 気負いなく、言葉が滑り出た。男の屈託のない笑みにどこか、もういない赤毛の同僚が重なったせいかもしれない。 「そんなふうに思えて。すこし、感傷的になっていました」 最後は、おどけるように声を選んで。笑いとばしてくれれば、それで冗談になる。 しかしそれで見上げた男の表情は、クラウスの方が驚くほどに生真面目だった。 「そうか、…言われてみりゃあ、そんな感じがしないでもないが」 ふっと、男は革手袋の手を広げた。茶色いその掌に、ふわりとひとひら、雪が落ちる。 物珍しげに雪片を見つめる目に、ああこの人の故郷はあたたかい土地だった、とふと思いだした。それから、その故郷の街はすでに滅んでいることも。 「俺には、そうだな、白い花びらみたいに見えるぞ」 「……え?」 思わず問い返すと、しばしの沈黙の後。男はあわてて手を振った。 「ああいや、柄じゃねえよなあ! さすがに…」 ふわりと、載っていた雪の華が落ちる。 花びらは、下の白にまぎれて見分けがつかなくなった。 「そう、ですね」 積もってきた雪を見ながら、少しだけ笑う。 棺にそそぐ、白い花びら。 眠るひとを包む、しとねのように。 あるいは、見送る縁者の涙のように。 やさしく、切なく。 ゆっくりと、へりに近づいて、白い街を見下ろす。 「クラウス?」 呼ばれて、クラウスはふり返った。 「灰に埋もれる廃墟よりも、ずっといい…」 ゆるりと微笑む。 「……私も、そう思います。ビクトールさん」 白い花びらに、包まれて。 この地にほんとうの春が来るまで、まどろむために。 fin. |