進軍のうちに、反乱軍はいつしか解放軍と呼ばれるようになっていた。それは、ゼノビアの皇子を旗頭に抱え、負け知らずの彼らにふくらんでいった民衆の期待のあらわれ、そのものだった。 ライの海。現在解放軍が在するこの地は、豊かな自然に恵まれた、大陸最後の楽園として知られている。解放軍は、ここを治めていたランドルフ枢機卿を倒し、次の地へと進むための態勢を整えていた。 物資の補充や後処理などで、皆があわただしく立ち働いている。その中でアーウィンドは、返り血を落とす間もなく仲間の様子を見まわっていたところを従軍僧侶のアイーシャに捕まり、治療を受けていた。 ロシュフォル教の最高位たる聖地アヴァロンの大神官、その後継と目されるアイーシャは、十代の半ばという若さにも関わらず、僧侶としての高い能力を持っている。 「ほら、座ってください!」 高く澄んだ少女の声が、緑なす野に響きわたった。 「もう…どうしてこんな格好でふらふら歩いてらしゃったんですか?」 平らな岩に座らされ、アーウィンドは、上目づかいに仁王立ちの少女を見上げた。 「だってほとんど、わたし自身の血じゃあないのよ」 首をふりふり、アイーシャは治癒の呪文を唱えた。 その白い小さな手から、癒しの淡い光があふれ出す。 「小さな傷だって油断はできないんですよ。返り血も泥も落とさないままでは特に! そこから膿んできたりしたら…」 軽く睨みつけるその顔は、それでもやはり愛らしい。 くすりとアーウィンドは笑いを漏らした。 「聞いてらっしゃるんですか!?」 「アイーシャって、なんだかお母さんみたいね。ええ、もちろん聞いてるわよ」 「か、からかわないでくださいッ」 少女のほおが薔薇色に染まる。からかってるわけじゃないのに、とアーウィンドは笑って首を振った。 やさしく人を癒し、そして時に、愛する者を傷つける闇を激しく憎む彼女の強さは、確かに人の子の母を思わせる。たとえ年若くとも、その二つ名の通り、彼女は聖母だった。 少しすねた様子のアイーシャに笑みをこらえ、アーウィンドは口元に手を当てうつむいた。 そこに、低く通る声が降ってきた。 「こちらにおられましたか」 あら、とアーウィンドは声の主を見上げた。珍しく兜を外した相手の、肩口まで伸ばされた金髪が光に鈍く輝いている。 「どうかしたの? ランスロット」 「先ほどから、ウォーレン殿が貴女をお探しでしたよ」 老軍師の名を出され、アーウィンドは一つまばたきをした。 「あ、忘れてたわ。軍議を開くから、来てくれって言われていたの」 特に悪びれる様子もなく、うんうんとアーウィンドはうなずいた。 「でもまあ、わたしは出なくたっていいわよね。ウォーレンと皇子がいるんだもの」 「……………。ところで、アーウィンド殿」 先の発言には敢えて触れず、とりあえず見てとったアーウィンドの様相に、ランスロットは深く息をついた。 「先ほどの戦闘で、また前衛に出ておられましたね? 貴女はもう少し、ご自分の身をいたわるべきだと思いますが」 呆れた声音に、言われた相手は叱られた子供のように首をすくめてみせた。 「だって、しょうがないでしょう? こっちが苦戦していたんですもの。大体わたしは剣士なのに、おとなしく後ろで見てろ、なんていうほうが無理だと思うわ」 ランスロットは眉を寄せた。 草地から突き出した岩に無造作に腰掛けたアーウィンドを見下ろし、もう一度ため息をつく。そうして、いつも言っていることですが、と切り出した。 「貴女はわれわれ解放軍の要です。もしその身に何かあったなら、取り返しがつかないのだということをわかっておられますか?」 アーウィンドは笑って答えた。 「大丈夫よ。トリスタン皇子がいるでしょう?」 「……アーウィンド殿」 ランスロットが怒ったらしいのを見て取って、アーウィンドはあさっての方向に視線をそらした。鮮やかな赤い髪が、さらりと流れる。 そこにアイーシャが救いの手を差し伸べた。 「そのくらいで許して差し上げたらどうですか、ランスロットさま」 くすくすと笑う少女に、ランスロットは困り顔になった。 「しかし、アイーシャ殿…」 一方ほっと息をついたアーウィンドのほうにも、アイーシャはしっかりとくぎをさす。 その傷を癒しながら、 「でも、ランスロットさまの言われることももっともです。確かにアーウィンドさまはお強いですけれど、敵のただなかに突っ込んでいかれるなんて、危険すぎます。実際、こんなに傷ついていらっしゃるでしょう」 アーウィンドの瞳が、ふいに真剣な色を帯びた。静かな声が紡がれる。 「…そうね。でも、わたしが引けば、他の誰かが危険に身をさらすことになる。 そうでしょう?」 アイーシャは困った顔をした。ランスロットも返す言葉に詰まったように口ごもる。 「し、…しかし指揮官が前線に出て行くというのは、誉められることではありますまい」 「ええ。だからこそ」 アーウィンドはうなずいた。 「指揮はわたしでなく、トリスタン皇子が取るべきだわ。彼はそれに十分な能力を持っているし、この先…そう、帝国を倒した後のことも考えるなら、そのほうがいいはず。もちろん、わたしもウォーレンも、最大限にその助けをするけれどね」 アーウィンドは静かに、言葉を継いだ。 「…皇子は経験さえ積めば、きっと優れた将となるでしょう。だからわたしはその剣として、先頭に立って戦うの」 でも、とアイーシャはうつむいた。小さな手に、ぎゅっと僧衣のすそを握りこむ。 「わたしは、アーウィンドさま…あなたのことが、心配なんです」 少女の淡い色の瞳が、不安げにまばたきを繰り返した。 「だから…あまり無理を、なさらないでくださいね」 アーウィンドの深緑の瞳が、少し驚いたようにアイーシャを見つめた。次の瞬間、それが柔らかく細められる。 「ありがとう、アイーシャ」 でもね、とアーウィンドは続けた。 「なんだかんだ言ったけど…何よりわたしは、手を汚すことを人任せにしたくないの。それはわたしの役割だわ。……だってわたし、剣術バカですものね」 最後はおどけるように、アーウィンドは笑って見せた。 「……わかりました」 ランスロットは、仕方がないといったふうにうなずいた。改まって、真剣な表情になる。 「貴女が敢えて剣となると言われるのなら、私が貴女の盾となりましょう。 貴女は、我々解放軍にとってかけがえのない方なのですから」 「…ありがとう、ランスロット。頼りにしてるわ」 アイーシャは、軽く瞬きをした。そう言って微笑む横顔が、どこか寂しそうに見えた気がして。 「…アーウィンドさま?」 アーウィンドはひょいと振り返った。 「なあに、アイーシャ」 その瞳はいつもと変わらぬ、強い光を宿している。 「あ、いいえ、なんでもありません」 アイーシャは首を振った。 「治癒はもう終わりましたから」 「いつも、ごめんなさいね。心配かけて」 アーウィンドは軽く目を伏せた。意外に長いまつげが、白い頬にうすく影を落とす。 「でも、わたしが無茶できるのは、あなたが…、あなたたちが、後ろにいてくれるからなのよ」 いつになくしおらしい様子に、アイーシャはどぎまぎする。 「そんな、アーウィンドさま…」 うつむいていたアーウィンドは、顔を上げるとにっと笑った。素早く立ち上がる。 「というわけだから、これからもフォローをよろしくね!」 言うと同時に駆け出したその後姿は、仲間たちの陰にすぐ埋もれてしまった。 あっけにとられて見送ったアイーシャは、半ば呆然としたまま呟いた。 「…うまく逃げましたね。そんな風に言われたら、何も言えないじゃないですか…」 あなたを、信じているから。 預けられた信頼に、アイーシャはなんだか泣きたくなった。それをこらえて、パシパシとまつげを震わせる。ふと隣に立つ騎士を見上げると、ランスロットは、アイーシャの視線にうなずいた。 「まったく、あの方にはどうにもかなわないな…」 言いながらも、騎士の様子は決して困っているふうではなく。前を見つめるその瞳は、深く穏やかな色をたたえていた。 生真面目で、いつも難しげな顔をしている騎士の珍しい姿に、アイーシャは少し驚く。 ほほえましくて、思わずくすりと笑みが洩れた。そんなアイーシャにランスロットは首をかしげた。 「何か、おかしかっただろうか」 アイーシャはいいえと首を振った。 「たいしたことじゃないんです。…ランスロットさま」 騎士の目を見つめて微笑む。 「こたえたいですね」 あの方の、信頼に。それにふさわしい自分でありたい。 言葉にしなかった続きは、相手にも伝わったようだった。 「…ああ。そうだな」 騎士の微笑みは、あたたかかった。 |