■  星の牢獄  ■




 ゆらりと、壁の燭台が炎を揺らめかせた。
 部屋の隅にわだかまる闇が、常より深い。
 そう感じられるのは、このティントという街が、この世ならぬ死人の軍団に侵されているという事実を知るゆえだろう。
 そこに自らの弱気をも悟って、クラウスは広げた地図に息を落とした。
 結局のところ、手持ちの戦力でやるしかないのだ。
「今後の防衛線ですが… …カイ殿?」
 言いながら、広げた地図から顔を上げて、クラウスは軍主の視線が卓上のそれでなく、自分に向けられているのに気がついた。
 はしばみ色の双眸が、こちらを凝視している。
「……あのさ」
 思い詰めた声音で、少年がつぶやいた。
「クラウスさんは、どうしてここにいるの」
「えっ?」
 質問の意図をつかめず、クラウスは少年を見つめ返した。
「あ、……ご、ごめん」
 少年は、我に返ったように目を見開いた。
「なんか変なこと、聞いちゃったね」
「カイ殿…?」
 問いをこめて、その名を呼ぶ。少年はあやふやに笑んで、首をふった。
「……ごめん。何でも、ないよ」
 ほほえむ少年は、けれど、ひどく暗い目をしていた。


 どうして、気づかなかったのだろう?
 彼がそんなにも追いつめられていたことに。
 残された手紙を見たとき、最初に訪れたのは驚愕。しかしそれはすぐに理解へと変わった。
 なぜ、少年はここにいたのか。
 そうあってしかるべき理由なら、いくつでも挙げることができた。だが、彼がここに在りたいと望む理由など、クラウスには何も考えつかなかった。
 故郷を追われ、この国へ逃れてきた。それでも、敵国の雄となって血を流す必要などなかった はずだ。…自らの親友とたもとを分かってまで。
 少年の望むものは、きっとここにはなかった。だから姿を消した。
 それは、至極当然のことではないか?


 外は亡者の徘徊で混乱の極みにある。父より贈られたレイピアをベルトにつるし、動きやすい兵装をまとったクラウスに、リドリーが眉を寄せた。
「……本当に、そなたも前線に出られる心算か」
 クラウスはかすかに笑った。
「くどいです、リドリー将軍。そのことなら、もう話し合ったはずでしょう」
「あれほどにそなたが強情だとは思わなかったぞ。やはり、父上に似ておられる」
「何より優先されるべきは、カイ殿の捜索です。そうでしょう?」
 リドリーが、深く息をついた。
「でも、心配して下さるお気持ちはありがたく」
「……あの腕ならば、余計なものであったやもしれぬがな」
 ティントは大軍の入れるところではない。そこで必要なのは、全体に及ぶ戦略ではなく、一つでも多くの指揮の執れた小隊だ。ましてや、相手は心理戦がどうのといえるようなしろものでもない。
 そう言って説得してなお、リドリーは難色を崩さなかった。最後にはリドリーの副官を務めるコボルト相手に手合わせを申し込み、その相手を制して見せて、やっと彼の同意を得たのだ。
「同じ息子を持つ父として、キバ殿がそなたを思う心はわかっているつもりだ。…無理は決してなされるな」
 互いに策で謀り、謀られた間柄ではあったが、律儀な質の父とこの将軍が意外に気の合っていることをクラウスは知っている。純粋に気遣ってくれる言葉は、こころにあたたかく響いた。
「お強いことはもちろん存じておりますが…戦場では、何があるやもしれません。ご子息のためにも…リドリー将軍こそ、どうぞお気をつけて」
 リドリーの口の端が、引きつるようにわずか上がった。
「互いにな。こちらこそ………気遣い感謝する」
 どうやら、微笑もうとしたらしい。そうと悟って、クラウスは不器用な将軍に頬をゆるめた。


 びしゃりと、ぬめる液体がはねた。
 それは血ですらない。頬を汚したそれを、ぬぐう余裕はクラウスにはなかった。
 生ける屍たちは、どこからともなくあふれでて、きりなく襲いかかってくる。
 乱れた息を整える間もとれず、歯がみをする。
 体格に恵まれないクラウスは、技術と敏捷さとを必要とする剣術を選んで学んできた。そのあたりの兵士たちなら楽にいなせる程度の技量は身に付け、柔弱な見かけで侮る者を黙らせたこともある。
 しかしそれでも、己が優秀な兵士たりえないことをクラウスは自覚していた。試合と違って長時間に渡る戦闘においては、相応の体力がなければ最後まで持ちこたえられない。
 そのことは、自分が一番よくわかっている。だが、すべてを捧げる決意をした少年が戻らなければ、ここでただ生き延びたとて何の意味もありはしない。
「カイ殿!」
 剣を振るいながら、クラウスは大声で呼ばわった。しかしその声は、悲鳴と怒号に溢れる戦場では、己の耳にすら届かない。
 思うように動かなくなってきた身体に、クラウスはほぞを噛んだ。側から、自隊の兵士が声をか けてくる。
「クラウスさま! これではきりがありません…!」
 すっかり上がっていた息を強引に押さえて、落ち着いた声音で応えを返す。
「そうですね。一度、隊をまとめ直した方がいいでしょう」
 七、八人程度で小隊を組んだが、自隊の兵のうち一人が欠け、残る者も程度の差はあれ何らか の手傷を負っている。クラウス自身も例外ではなく、亡者の爪に掻かれ、二の腕から血が落ちて いた。他の隊でも同程度、もしくはそれ以上の負傷者がでているだろう。
 素早くクラウスは戦況を見回した。しかし、指揮官の片割れとも言える自分からして前線に立 っているのだ、すでに見える範囲のどこにもまともに統制のとれているらしき隊はなく、乱戦の 様相を呈している。
 どこにいるともしれない指導者の発見を目的とした、小隊ごとに分散しての戦いは、軍を確実 に消耗させていた。
 このままでは、ティントは落ちる……!
 捜索の指示を出した時点で、少年の不在はすべての兵の知るところとなった。その事実が、軍 の志気を確実に落としている。そうなることがわかっていても、隠しておくわけにはいかなかっ た。
 今、彼なしでここを守れたとしても、続く戦いで同盟軍は持たない。彼という要の存在だけが、 ばらばらの都市同盟を結びつけているのだから……
 …いや。そこまで考えかけて、クラウスは思い直す。
 結局のところ、それは言い訳にすぎなかった。
 彼がいなければ、同盟が危ういのは事実。だが、それはこのようなやり方を選んだ、本当の理由ではなかった。少なくとも、クラウスにとっては。
 自分が彼を欲する故に、皆の命を、ティントを危うくするような策を、私は選んでしまったの だ。
 身のうちの思いを、しかし欠片も表に出すことはなく、クラウスは落ち着き払った表情で指示 を出した。
「市内に展開する隊へ合図を。負傷した者と市民を救助しつつ、市の入り口付近へ戦力を一度集 めます」
「はい!」
 高低差の激しいティント市の一番下に、閉ざされたこの地でただ一つ他との接点となる道があ る。その道と接する入り口は人為的に土地がならされ、陣を敷くとまでは行かずとも、兵を集め るくらいの広さはあった。場合によってはそのまま一度クロムまで引き、体勢を立て直す。それ はあらかじめリドリーとも打ち合わせた内容だった。
 クラウスの命に従い、兵は信号弾の準備を始めた。地の利の悪さから命令系統の混乱が予測さ れるなかで、最低限の指揮をとるために、アダリーに作ってもらってきたものだ。数はわずかに 三個。それぞれに異なる色の閃光を放ち、それらの意味するところについてはすべての兵に伝え てある。
 ぱっと白い光が、空に散った。破魔の紋章を材料に加えた、と老発明家が自慢していただけの ことはある。クラウスはゾンビたちの動きが目に見えて鈍ったのを見て取った。
「今のうちに!」
 クラウスは周りの兵に向け、精一杯声を張り上げた。

 重い足を引きずるように、石畳の街を駆ける。
 灰色の建物の合間に、クラウスはふと渋い緑の軍服を見た気がした。
 足を止めた指揮官に気づいて、少し行ってから隊の者たちもそれにならう。
 クラウスは息を呑んだ。
「リドリー将軍!」
 さほど離れていない路地、そのいくらか奥へ入ったところ。石壁に身を寄りかからせるようにし てリドリーが立っていた。その足下には、十数体の亡者たちが転がっている。
「おひとりですか!? どうしてこんなところに…ッ!」
 駆け寄ったクラウスは、リドリーの様相に言葉を詰まらせた。
 間近で見れば、そこかしこから血がにじみ、いつも襟までかっちりと整えられている軍服にも破 れが目立つ。中でも腹をえぐった傷は深く、そこから下を赤黒く染めつつあった。
 しわがれた声が返った。
「……そなたは無事であったか」
「そんな、私の心配などより……!」
 ずるりと、リドリーが壁をするように崩れ落ちた。慌ててクラウスはとなりに膝をつく。
「衛生兵! 将軍に手当を! 残りは、入り口で敵を防いでください!」
 クラウスは後ろの兵たちに叫んだ。狭い路地だ、数名も入り込めば身動きがとれなくなる。
 できるだけ傷に障らぬようにリドリーの身体を横たえて、クラウスは唇を噛んだ。
 かなり深い。おそらくは、内臓にまで届いているだろう。クラウスは傷の見立てについて深く学 んでいはしなかったが、命に関わる傷であることは、素人目にも明らかだった。
「どうして……ッ」
 思わず呻きが洩れた。
「…不覚をとった」
 かすれた声が耳に届いた。
「真っ先に足をやられてな。仕方なく、ここで応戦していたのだが…そなたが来てよかった」
 リドリーは、汚れた手袋に包まれた手で路地の奥を指した。
「あの者を」
 クラウスはその動きを追って目をやり、そして気がついた。
 リドリーの剣はその長身にふさわしく大振りなものだ。このような狭いところでは思うように振 るえまい。
 その彼があえて路地に踏み込んだ原因が、そこにあった。
 子供がひとり、行き止まりにうずくまっていた。おびえた瞳が暗がりでひかっている。その白く 細い腕からは、ぽたぽたと血が伝い落ちていた。
「……わかりました。ここではまともな治療もできません。あの子もつれて、移動しましょう」
 亡者たちは動きこそ鈍いが、生者の気配をかぎつけてか、ひとつところに留まっていれば際限なく 集まってくる。
「いや、私は…」
 ため息まじりの声を、クラウスは強くさえぎった。
「リドリー殿がなんと言われようとも、ともに来ていただきます」
 リドリーは困ったように沈黙した。クラウスは、強く拳を握った。
「お願いです、リドリー殿…。私が父を想うように、ご子息もリドリー殿を想っておられるこ とでしょう」
 しばらく沈黙が落ちた。クラウスは、息を詰めてリドリーを見つめていた。
 小さく、リドリーが息を落とした。
「わかった。私も参るとしよう」
 そこに、確かに自分への気遣いを読みとって、クラウスは小さくつぶやいた。
「……リドリー殿」
 なんと続けたかったのかは、自分でもわからない。
 ただ、気をゆるめれば、子供のように泣き出してしまいそうだと、そう思った。

 出血を押さえる程度の処置を施して、上着と、路地の奥に立てかけてあった竿を使った簡易な 担架にリドリーを載せる。何度か亡者の襲撃を防ぎ、あたりにとりあえず敵の姿が見えなくなっ たのを見計らってクラウスたちは路地から走り出した。
 揺れが傷に響くのだろう。呻き一つ漏らさないものの、リドリーの白い革手袋に包まれた手が、 きつく担架の棒を握りしめていた。静かに運ぶことができればよかったが、集まってくる亡者たちがそれを許さない。リドリーの助けた子供を背に負って走りながら、クラウスは必死に他の兵の姿を探していた。
 道に倒れ伏し、動かなくなっている者たちの安否を確かめる余裕は既になかった。一人二人を 運ぼうとしたところで、今まとまった数の亡者に襲われればひとたまりもない。一刻も早く兵の 集まる地までたどり着く、それが今自分のなすべきこと。助けに走るのは、その後だ。
 理性ではそう判断を下しながらも、それに従うことはクラウスに苦痛を強いた。
 いつもの戦場とは違う。倒れているのは、戦場で命を散らす覚悟を持った兵士ばかりではなく、 無辜(むこ)の市民たちでもあったのだから。それでも、救いたいと願う者の存在が、クラウスを前に進ませていた。


 隠れて亡者の群をやり過ごしながら、撤収中だった他の隊と合流し、何とか陣にたどり着いた のが半時後。混乱の中、リドリーを数少ない魔法の癒し手へ委ね、クラウスは息をついた。
 これ以上、リドリーのために自分ができることは、何もない。そして今為すべきは、将の一人 として兵の指揮をとることだ。
 地に厚布を敷き、横たえられたリドリーの側へ膝をつく。女性の癒し手の額には続く紋章 の行使のためか、薄く汗が浮いていた。癒しを妨げないように、クラウスはそっとささやいた。
「…行ってまいります、リドリー殿」
 リドリーの耳が、ぴくりと動いた。
 重たげに目蓋が上がり、濃い茶色の瞳が現れる。その茫洋とした視線が、クラウスを捉えたよ うだった。
 物言いたげにリドリーの口元が動いた。クラウスは身体を折って耳を寄せたが、結局言葉らし きものは紡がれなかった。
 ふ、と小さく吐息が洩れた。また、ゆっくりと目蓋が落ちる。
 そしてそれきり、リドリーが意識を取り戻すことはなかった。



「ごめん、なさい…ッ」
 目の前にうなだれた少年の、小さく細い肩。少しためらってから、クラウスはそっとそこに手 を置いた。
「ご無事で何よりでした、カイ殿」
 この肩に載せられた期待。その重み。
「…頬が、はれていますね。きちんと冷やした方がいいですよ」
 クラウスは肩に載せた手を、赤くはれあがった少年の頬へと上げた。触れるか触れないかのと ころでそっと包む。
「…シュウさんが」
 少年はぽつりとつぶやいた。
「これが、ぼくが裏切った人たちの、痛みだって」
 でも、と続ける。
「こんなんじゃなかったよね。クラウスさんだって、ひどいけがして、たくさんのひとが、死んじゃって…リドリーさんも…」
 冷たいものが、クラウスの手を濡らした。
「ぼくの、せいで…」
「いいえ」
 強い否定に、少年は顔を上げた。拍子に、やわらかなハシバミの瞳からまた一粒、涙が落ちた。
「多くの者が命を落としたのは、我が失策。カイ殿に責はありません」
「でも…」
 クラウスは苦く微笑んだ。
「…本当に、そうなのですよ」
 指先で、少年の涙をすくいとる。
「この間…どうして私がここに、同盟にいるかと、訊かれましたね」
 少年は、ゆっくりと瞳を瞬かせた。
「……うん」
 クラウスはかすかに目を伏せた。
「それは、カイ殿。…あなたが、この地にいるからです」
 少年は目を見開いた。
「私が、あなたを選んだから。……リドリー殿の命よりも、ティントよりも。だから、あなたに責は、ないのです」
 そうして。責はないといいながら、この少年に枷を課す。
「カイ殿が、いまの私にとっての、すべてです。ルカさまが亡くなられた今も、ここに留まる、その理由です」
 あなたが、必要なのだと。
 だから、どこにも、行かないでくれと。

 ふいに気がついた。
 少年が追いつめられていたことくらい、本当は、知っていたのだ。
 ただ、何も気づかないふりをした。
 自分たちなどいらないと、そう言われてしまうことが恐ろしくて。

「本当に、醜い…」
 クラウスはつぶやいた。
 リドリー殿のことを、尊敬していた。どこか、父と重ねているところさえあったかもしれない。 その死の報を聞いたとき、愕然としたのは…そんな相手でさえ、切り捨ててしまった自分を知っ て。
「…クラウスさん?」
 少年の声が、そっと耳を打った。
 いまだ涙に濡れた瞳が、それでも気遣いをこめてクラウスを見ていた。
 やさしい少年。必要だと乞われたなら、けしてその手を拒めない。
 そしてその小さな肩で、ただひとり、すべてを背負い込む。
 それを知っていて、自分は。
「カイ殿…」
 母国を裏切っている苦しみも、友と戦場でまみえる痛みも。
 望まず人を手にかけることへの恐れも。
 知っているのに。
「どうか…どうか」
 それなのに。
「私たちを、導いて下さい」






fin.


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