■  追憶の殻  ■




「なんだい昼間っから…情けないねえ」
 酒場の女主人は、呆れたように肩をすくめた。
「あぁ、別にいいじゃーん…おれどうせひまだしー酔っててもぜんぜん」
 カウンターに半ば突っ伏したまま、シーナは適当に手先を振った。
「なんかあるだろ、身体でも鍛えるとか。その剣、さびても知らないよ」
「いーよ、これおれのじゃないし。オヤジのだから」
 昼間の酒場は静かだ。
 何しろ日の高いうちは誰もが忙しい。だからこそ、シーナは暇をもてあましていた。
 先日この城へやってきたばかりだったが、はるばるトランまでひっぱっていかれたそれ以後は、特段お呼びもかからない。軍師付という名ばかりの肩書きのもと、適当に寝ては起きる日々。
 シーナ自身が、この日常をどう捕らえているかと言えば、実のところそれほど不満はなかった。ここで副軍師を務める昔馴染みの少女をかまってみたり、さいころを転がしたり、たまにはこんなふうにのんびりするのも悪くない。
 女主人は、ふうとキセルを吸い込んだ。
「あたしだってね、そんなに暇じゃないんだ。夜の支度をしなきゃならない。あんたの相手ばかり、してるわけにもいかないんだけどね?」
 すっと指を伸ばすと、粋なしぐさで灰皿を打つ。キンとすんだ音が響いた。
「んー……つれないなあレオナさーん」
 そのきれいに整えられた爪先に見とれつつ、シーナはこてんと頭を倒した。頬に、ざらりとした木の感触が伝わってくる。
 きぃ、と扉の開く音がした。
 姿勢は変えることなく、シーナは扉へ視線を投げる。自分と同い年くらいの青年が、一人入ってきたところだった。
 訪問者は昼の酒場の静けさを乱すことなく、音のない足取りでシーナの視界を横切っていく。
 知らない顔だ。
 ぼんやりそんなことを考えていると、レオナがくだんの青年へと身を乗り出した。ひょいとキセルの先を向ける。
「クラウスじゃないか…珍しいね。シュウの旦那にでも、頼まれものかい」
 …クラウス。耳に入った名前を、シーナは頭の中で復唱した。副軍師の少女との会話の中に、出てきた気がする。興味のない話には記憶の容量を割かないのがシーナの常だったが、どうやらそれは比較的新しい情報だったらしい。その名を持つ青年が、少女と同じ副軍師だということまで思い出せた。
「いえ、今日は休みをいただいています」
 落ちついた、耳に心地よい声が応えた。
「父が、ブランデーの取り寄せをお願いしていたと思うのですが…届いているか、伺いに」
「ああ、それならとってあるから、持っておいき」
 レオナは身を返すと、後ろの酒棚から瓶を一本選び出した。
「しかし、キバ将軍も…お一人で飲むんじゃ、張り合いのないことだろうに」
 青年は苦笑した。
「私は、酒をたしなみませんので…こればかりは付き合えません」
 レオナは、どんと瓶をカウンターに置く。
「なんなら、酒場まで飲みにくればいいじゃないか。まったく、ここは呑んべえが多いから…相手には事欠かないと思うけど」
 わずかに沈黙が落ちた。
「……そうですね」
 穏やかな応えだった。しかしシーナは、レオナがはっとしたように眉を上げるのを見咎めた。
「ああ…余計な口、聞いたかもしれないけどね」
「いいえ?」
 青年はかすかに笑んだ。
「ありがとうございます、レオナさん。父にも、そう勧めてみますよ」
 青年は流れるように礼を取ると、酒瓶を受け取って身を返した。
 そうして入ってきたときと同じく、静かに、かつ速やかにシーナの視界から消えうせた。


「……ねえ、レオナさん」
 深くため息をついた女主人に、シーナは声をかけた。
 カウンターで転がっていた自分が無視したおされたのはまあいいが、先だっての妙な雰囲気は気になっていた。
「なに? いまの」
 レオナは、すいと細い眉を上げた。いぶかしげな視線が見下ろしてくる。
「なに? って、なにがだい」
 まさかあれ誰、とか言い出すんじゃないだろうね。言われてシーナは、違う違うと手を振った。
「だからさ。なんか…変じゃなかったか?」
 は、と訊き返そうとしたらしいレオナの表情が、ふと理解したそれに変わる。
「……仕方ないかもしれないけどねえ。あんたが来たときにはもう、クラウスたちはここにいたんだし」
「はあ?」
「あんまり、ひとさまの素性を気にするようなたちにも見えないか…」
 事情はわからないものの、無知を呆れられていることはわかった。
「なんなんだよ、結局」
「…わざわざ説明するほどのことでもないさ」
 レオナはそれだけ言うと、軽く肩をすくめた。
「えぇ?」
 はっきりしない言いように、シーナは口を尖らせた。
 レオナはすっと姿勢を正した。シーナの目の前で、パンと手を打ち合わせる。
「さ。もう、本当にいいかげん出てっておくれ。あたしはこれから、仕入れに行ってくるんだから」
「へいへい、失礼しますよ」
 断固とした口調に、しぶしぶシーナは腰をあげた。これ以上粘っても無駄なことは経験上、わかっている。
 ひらりと後ろに手を振って、シーナは酒場を出た。
「ま、おれには関係ないけどさ」
 ひとりごち、次に転がり込む場所の検討を始める。
 そしてそのまま、青年のことなど忘れてしまう。
 ……そのはずだった。


 軍師さまとくれば、自分とはおおむね縁のない人種だ。
 シーナの感想はそれほど間違っているわけではなかったが、しかし忘れていたのは、彼が気に入っているアップルもまた、軍師としての禄を食んでいるという事実だった。
 結局シーナは、その足でアップルの部屋へ押しかけることにした。ノックは省略で扉を開ける。
「アップル、いるかー?」
 声をかけつつのぞきこむと、椅子にかけたままふりかえったのは先程の青年だった。
 静かな瞳が、ほんのわずか驚いた気配を帯びてシーナを見つめる。
 シーナももちろんそれなりに驚き、首をひねった。
「あれ? ここ、アップルの部屋だろ」
 シーナの声に、青年はゆっくりとまたたきをした。扉に背を向けていたのを、椅子ごと身を返す。
「今、アップルさんはお留守ですよ。半時ほどで戻られると思いますが」
「ふーん?」
 相槌を打ち、シーナはさっさと部屋に入った。
 青年の脇を通りぬけ、部屋の奥、青年の向かいにある椅子に腰かける。
 間に挟まったテーブルの上には、おびただしい量の紙束と書物がつんである。
 書類らしきものを下敷きに、シーナは両肘をついた。
「じゃ、ここで待たせてもらうぜ。歩きまわるのも面倒だし」
 青年はうなずくと、手にした書類に目を落とした。
 ふと、シーナは積まれた書類を一枚つまみ上げ、しげしげと眺めた。どうやら布陣に関する何かを記したものらしいというところまではわかったが、軍略は彼の専門外だ。すぐに飽きて、元に戻す。
 それから、すでに書類に意識を戻しているらしい青年へと目を移した。
 …全く動きがない。時折、ぺらりと書類を繰るばかりで、後は視線のみが書面を滑っている。
 つまらないのでこれにも飽きて、シーナは口を開いた。
「なあ、おい」
 一拍遅れて、青年が動いた。ふっと視線が、シーナのほうへと上げられる。
「…はい」
 静かな目に、シーナはほんの一瞬ひるんだ。その理由もわからないまま、とりあえず言葉を押し出す。
「さっき、酒場で会ったよな。あれからここに来たわけ?」
 いいえ、と青年は首を振った。
「私の部屋は、こちらの隣りですから…一度戻ってから伺いました」
 確かに、先ほど持っていった酒瓶はない。うなずいてから、シーナは首を傾げた。
「あれ、でもさっきさあ、今日は休みだって言ってなかったっけ? なんでおしごとしてるんだ?」
 青年はおだやかに笑んだ。
「ええ、お休みですよ。今は、アップルさんのお手伝いをしているだけです」
 うわ、と小さくシーナは声を上げた。
「休みにわざわざ仕事してんのか。真面目だなあ、おまえ…ええと、クラウスだっけ」
「ええ、シーナ殿。一応、初めましてになりますか」
 小さく頭を下げられ、シーナはぱちりとまたたきをした。
「おれの名前、知ってるんだ」
 青年は苦笑した。
「あなたも、私の名をご存知だったようですが。知っていますよ、トランからいらした、大統領のご子息のことくらいは」
「へえ…でもおれ、おまえを見かけたのって、今日が初めてだったぜ」
「そうでしたか…あまり出歩きませんから」
 そこでシーナは、口をつぐんだ。青年は、いまだ書類を手にしたまま置いていない。
 シーナを見ている瞳が、ゆっくりまたたきをした。一回、…二回。
 そのまま書類へと戻っていきかける気配を察し、慌ててシーナは口を開いた。
「それじゃさ、いつもなにしてるわけ」
 青年の注意が、シーナへ戻る。
「もちろん、職務を」
「そりゃそうだけど…」
 シーナは眉を寄せた。
「そうじゃなくてさあ、休みの時…って、いや、今そうなんだろうけど。まさかいつも、こんなふうに働いてるわけじゃないだろ」
 しばらく、青年は黙った。シーナが、なにか続けようとしたところでやっと応えが返る。
「ええ…まあ。そうですね、仕事をしていない時は…部屋で、書物などを読んでいます」
 何となくほっとして、シーナは笑った。
「へえ、本好きなんだ。じゃ、図書館とかよく行くんだろ。おれはめったに行かないけど…司書のエミリアさんて、美人だよなあ?」
 茶目っ気を込めて、シーナは青年を覗きこんだ。
「…いえ」
 静かに、青年は首を振った。
「図書館へは、行ったことがないので…わかりません」
「………は?」
 シーナは、ぽかんと口を開けた。
「………なんで?」
「あまり、出歩くのが好きではないので」
 幾分混乱しつつ、シーナは問うた。
「そりゃさっき聞いたけど…じゃ、なに読んでんだよ」
「アップルさんや、シュウ殿から本をお借りしていますが」
 なんでもないような調子で言われて、シーナは我に返った。
「ああそう、そりゃいいけど…あのさ、借りに行かないわけ? 図書館に」
「ええ」
「…なんで?」
 さっきも聞いたな、と思いつつシーナはくり返した。
「ですから…出歩くのが、」
「なんかおかしくねえ?」
 シーナは、顔をしかめてさえぎった。
「…そうですか?」
 言って青年は、かすかに笑った。
「おまえ、仕事するか部屋にいるか以外にないのか?」
 あっさりとうなずきが返る。
「そうかもしれませんね」
 おいおい、とシーナは呟いた。それでは、これまで見かけた覚えがないのも道理である。
「なんでまた…」
 言いかけてシーナは止めた。尋ねても、まともな応えはきっと返らない。
 そんな気がした。


 それから、シーナはこの静かな青年に興味を持った。
 自分には彼の精神構造がさっぱりわからなかったが、わからなすぎて、なんとか理解してみたくなったのだ。
 ありていに言えば、ちょうどいい暇つぶしのつもりだった。始めは。


「よお、クラウス!」
 バンと扉を開けて、いきなり声をかける。
 青年は読んでいた本から目を上げた。いきなり部屋に押しかけた訪問者に、驚きも嫌がるそぶりもなく静かに言う。
「こんにちは、シーナ殿。何のご用ですか」
 青年は、シーナの名を少しだけ不思議なアクセントで呼ぶ。そういえば、軍を率いる少年や、その義姉だという少女も、同じような発音でシーナを呼んだ。どこかの土地の訛りなのだろうか。
 シーナはずかずかと上がり込み、部屋を見まわした。
「めずらしいな、今日はオヤジさんいないんだ」
 この部屋を訊ねて、青年がいないことはほとんどなかった。以前聞いた言葉通り、仕事でなければ部屋にこもりっきりらしい。それはなぜだか彼の父も同じで、二人揃っていないことなどシーナが知る限り初めてだった。
「父は、兵士の演習に出ています」
 言って、クラウスはパタンと本を閉じた。机に置かれたそれを見て、シーナは思わず口もとをゆるめた。
 始めのころ彼は、シーナが来ても書類や本を片付けようとはしなかった。作業の手を休める、ただそれだけだった。
 単に、毎度長居するシーナに諦めただけかもしれないが、それでもなんとなくうれしかったのだ。
 椅子にかけ、シーナはにっと人なつこく笑んだ。
「じゃあさ、どうせひまだろ。ちょっと外でようぜ」
「いえ、申し訳ありませんが…」
 静かな拒絶に、とたんシーナはむっとした。
「いいだろ、おまえもたまには出かけたって。別に酒場に行こうって言ってるわけじゃなし」
 クラウスはゆっくりと首を振った。
「外は、好きではないので」
 シーナは、険悪に目を細めた。小さく舌打ちをする。
「またそれかよ」
 動揺したふうもなく見かえしてくる青年へ、シーナは身を乗り出した。
「なあ、こもってばっかで飽きないか?」
 クラウスは、おだやかに笑ってかぶりを振った。
「いいえ、別に」
「…おれなら耐えられないけどな」
 クラウスの落ち着き払った態度に、イライラとシーナは爪を噛んだ。
 人を知ろうとわざわざ努力したことはなかったが、それでもシーナは、相手の感情には敏い方だと自負していた。しかし、クラウスが何を思っているのか、その表情の下がいまだに読めない。
 話しかければ、きちんと応えが返る。今のように、微笑みもする。
 人当たりはよい。
 だが、それだけだ。
「おまえさあ…そんなんじゃ、ともだちいねーだろ。もちっとまともに、人づきあいってもんを…」
 シーナはクラウスに聞かせるというより、半ば愚痴のようにこぼしかけた。
「友人は、いますよ」
 シーナは、驚いて顔を上げた。
 クラウスは、シーナを見てはいなかった。
 反論したという口調でもなく。ふと、言葉が口を衝いて出たようだった。
 クラウスは一つまたたきをして、ゆっくりと息をはきだした。
「…いました、ですね。もう…二度と会うこともない」
 ひどくその目は遠かった。諦めと、それでも懐かしむような光が、クラウスの瞳をよぎった。
 初めてかもしれなかった。この青年の、本当の感情らしきものを見たのは。
 しばらく呆然として、それからシーナは我に返る。
 自失にとってかわったのは、急激な怒りだった。
「…そうかよ」
 自分でも驚くほど、押し出した声はこわばっていた。
 突然ひらめきが訪れたように、わかってしまった。
 外に出ようとしないのも、やんわりとあしらって受け入れようとしないのも。それはすべて、当然のことだったのだ。
「シーナ殿?」
 クラウスが、驚いたようにシーナを見つめていた。
 こんなふうに、上っ面では反応してみせても。
「おまえ、ここにいるのがいやなんだな?」
 首を振って、シーナは訂正を入れた。
「いや…始めから、どっか別のところを見てるんだ」
 ちらりと、クラウスの表情が動いたような気がした。だが、もう止まらなかった。
「なら、帰れよ! こんなとこにいないで、ともだちのいるところへ帰ればいいだろ!」
 今度こそはっきりと、クラウスの顔色が変わった。
「…あなたには、関係ないでしょう」
 わずかに声が震えている。青ざめているのは、怒りのためか。それとも他のなにかだろうか。
「ああ、関係ないだろうさ」
 彼と友人に、なりたかったのだ。そして、いつかはなれるのではないかと思っていた。
 なのに結局のところ、踏み込んで返ってきたのは、始めから相手にもされていなかった事実だけ。
 シーナは吐き捨てた。
「どうだっていいんだろう? なのになんでおまえ、こんなところにいるんだよ」
 がたんと乱暴に席を立つと、背を向ける。シーナは勢いよく部屋の扉を開けた。
「…帰れません」
 小さな声が、背中に当たった。
「もう、帰る場所が、私たちにはないんです…!」
 初めて聞く、傷ついた響きには耳をふさいで。
 シーナは、クラウスの部屋から飛び出した。


 それから、もうシーナはかの青年と親しく話すこともなく。
 時折、遠くからアップルやシュウと話している姿を見るだけだった。
 そうして時は過ぎ、戦は終わりを告げる。


 シーナがルルノイエ陥落の報を聞いたのは、本拠たる城の酒場でだった。
 駆け込んで来た兵士の告げた勝利に、どっと呑んだくれたちが湧きあがる。
 今は従軍していてこの地にはいない青年と、もうこの世界にもいないその父親。
 既にシーナは二人の出自も、彼らがこの地へ来るまでのいきさつも知っていた。
 ―――敵国ハイランド。
 そこで、将として一軍を率いていながら同盟へと寝返った、裏切り者。
 ぼんやりと頬杖をついたシーナに、レオナが声をかけた。
「このめでたい時に、なーに辛気臭い顔してるんだい。ほら」
 鼻先に突き出された果実酒を、のろのろと受け取る。
「今日はあたしのおごりにしとくよ」
「あー…サンキュ」
 怪訝そうな顔で、レオナが覗きこんでくる。
「…本当に、どうかしたかい」
 適当に手を振って、シーナは返事の代わりにした。
 困ったように肩をすくめ、レオナは、盆にいくつかグラスを載せて歩いていった。その先から、またどっと歓声が起こった。
 シーナは、カウンターに頬をつけた。喧騒の中、小さくつぶやく。

「あいつ、あんなに帰りたがってたのにな」






fin.

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