Silent whisper  




「あいつが、おかしい」
 ぶっきらぼうに告げた少年に、太公望は困惑の目を向けた。
 とりあえず書きかけの書類を片づけ、ことりと硯に筆を置く。
 ここは斉国丞相たる太公望の自室である。突然窓を蹴破り出現した相手に、太公望はため息をついた。招かざる客のほうへと向き直り、卓に片ひじをつく。
「ナタク…ここへは来るなと言っておいただろう」

 先年、太公望は名実共に王となった姫発によって、周から離れた斉の国を封土として与えられた。といっても、それを望んだのは太公望自身である。
「どうして宰相にでもなって、俺を助けてくれないんだよ?」
 ふてくされた姫発に、太公望はこう答えた。
「廃業したとはいえ、わしは元仙道だ。そのころのわしを知る者も多いここにおっては、この国のためにならんだろう?」
 人間を越えた力の存在に、人は簡単にすがり傾倒してしまうものだから。
 最後は周公旦たち側近になだめられ、渋々姫発は太公望が斉へ行くことを許したのである。

 その言葉の通り、太公望は仙人界との縁を切り、人間として生きることを選んだ。仙道としての力も自ら封じ、そのころの知己にも、自分のもとを訪れるなと言ってあったのだ。―――そうはいっても、時折押しかけてくる者もある。脳裏に流れた空色の髪を、太公望は首をふって追いやった。意識を目の前の少年に戻す。
 懲りずに何度も来る者と同じように追い返そうかとも思ったが、この少年が降りてきたのはこれが初めてだった。よほどのことかと一応話を聞く体勢になる。
「あいつとは…太乙がか?」
 太乙のことでの相談ならば、わしでなくとも他にあたれば―――
 言おうとして、太公望は口をつぐんだ。先の戦乱の中、太乙の知己といえるような者たちはそのほとんどが封神されている。
 一つ息をついて、太公望はナタクに問うた。
「…おかしいとは、どのようにだ」
「おかしいんだ」
 どこかもどかしそうに、答えは繰り返された。
 さっぱり要領をえない。えないが…ナタクの様子に、太公望は眉を寄せた。めったに感情を宿さない瞳に、焦燥の色を見た気がして。かなりの間迷ってから、口を開く。
「…わかった。では…そうだな、おぬし、わしを仙人界まで乗せていってくれるか? あまり余人と接触したくはないのでな」
 四不象を呼んでもらってもよいのだが、それではおのずと他にも自分の来訪が伝わってしまうだろう。
 太公望の言葉を聞いて、ナタクはぐいと太公望の腕をつかんだ。ひょいと背中に放り上げる。慌てて太公望は声をあげた。
「ま、待て、待たんか! このまま行っては武吉たちが心配するであろう…にっ!?」
 言い終わらぬうちに、風火輪をふかし、ナタクは来たときと同じく窓から弾丸の勢いで飛びだした。
「相変わらず、落ち着きのない奴だのう…」
 すでに地上は遠い。太公望はナタクの背中で、呆れを含んで呟いた。

 そうして、乾元山は金光洞にて。
 太公望が訪れた頃には、日はもう落ちかけていた。
 いきなりやってきた太公望を、しかし金光洞の主は驚きながらも喜んで迎え入れる。
 いそいそとお茶の用意をする太乙真人に、太公望は苦笑した。ナタクの様子で心配していたが…。
 ―――どうやら、ただの取り越し苦労だったか。
 ナタクが何を気に病んだかは知らぬが、こちらは筋を曲げてまでやってきたというに…。
 安心すると、思わず愚痴をもらしたくなる。代わりに小さく呟いた。
「あれでナタクは、太乙になついておるからのう…」
 そのナタクは、太公望を送るだけ送って姿を消している。
「本当に、突然どうしたんだい? もうキミがこっちに来ることは、ないだろうと思っていたよ」
 はあと息を吐いた太公望に、太乙が声をかけた。小さめの卓子の向かいで頬杖をつき、黒い瞳を興味深げに瞬かせている。
 出された桃をひょいと取り、太公望は苦く笑った。
「…本当にのう。いや、ナタクに無理矢理連れてこられたようなものでな…。しかしあやつはどこぞへ行ってしまったし、どうやって帰れば良いやら」
「私の黄巾力士を使えばいいよ」
 気軽に言った太乙真人に、太公望は笑って首をふる。
「わしにはもはや動かせんよ。道術の心得がないのでな」
「じゃあ、楊ゼン君にでも送ってもらうかい?」
 何だったら呼んであげよう。笑顔の提案に、太公望はちょっと顔をしかめた。
「…遠慮しておく。あやつがまっすぐ下に送ってくれるとは思えん」
 あははと太乙は笑った。
「そりゃそうだ。聞いてるよ、彼、しょっちゅうキミのとこに行ってはふられてるんだって?」
「あやつがそう言ったのか?」
 さすがに驚いて問うと、太乙は吹き出した。
「ああ、やっぱりそうだったんだ。ごめん、今のは当てずっぽうさ。いやあ、楊ゼン君も可哀想にねえ」
 太公望は憤然と抗議した。
「どこがだ、どこが! 可哀想なのは、つきまとわれるわしの方であろう」
「………そう?」
 低く返された声に、太公望は眉をひそめた。
「…太乙?」
「本当にキミは、人間に戻っちゃったんだね」
 急な話題転換に、太公望は戸惑った。
「それが、何だと…」
「それで普通の人間として年老いて、楊ゼン君を置いていくんだろう? もう、彼は、ひとりなのに」
 太公望は絶句した。
「だって、もう玉鼎はいないんだから」
 一気にそこまで言うと、静かに、太乙は茶器を傾けた。静寂の中に、茶の注がれる音だけが響く。ふわりと暖かな湯気が立ったのが、ひどく場違いだった。
 言葉のない太公望をどう思ったか、太乙は窓の方へ目をやった。
「あのとき、私に、戦うだけの力があれば良かったのに」
「…のう、太乙」
 つぶやきに、太公望はやっと言葉を返した。何か、言わなければ。そんな義務感に駆られて。
「戦いの場にゆかずとも、おぬしはおぬしのやり方で、十分力を尽くしたではないか」
 我ながら詭弁だな、と内心苦く思う。かすかに目を伏せて続けた。
「だから…おぬしが気に病むことなど、何も…」
 突然、太乙ははじけるように笑い出した。おかしくてたまらない、といったふうに目元を抑える。
「バカだなあ、太公望」
 太公望は、太乙の言葉にぎょっと目をむいた。
「別に、私はそんなこと気にしてるわけじゃないよ」
 力が足りなかったのを悔やんでいるのは、キミのほうだろう?
 からかうように言われて思わず問いを口にする。
「では…一体、何を、おぬしは…」
 太乙はにこりと微笑んだ。
「こっちは寂しくなっちゃったね?」
 そうして、すっと席を立つ。窓辺によると、桟に白い手を掛け太公望を振り返った。
「あのとき、戦う力があれば…戦場にいれば、私もみんなと一緒にいけたのに、さ」
 くすくすと。子供のように、太乙は無邪気に笑う。再び外に目をやった太乙の視線の先に、太公望は肌を泡立てた。がたりと椅子を蹴って立ち上がる。
 遠く、崑崙山は玉虚宮の側。そこには、封神台が、静かに浮かんでいる。
「太乙、おぬし…」
「ねえ、どうしたらいいと思う? 太公望」
 こわばった舌を、太公望は何とか動かそうとした。
「み、みなは、おぬしが幸せに生きてゆくことを…」
「望んでいるんだ、なんてつまらないこと言わないでおくれよ」
 がっかりしたように太乙は息をはいた。
「別に死にたいなんて、言ってないだろう?」
 だって、そんなことしてももう遅いんだから。
「寂しくってもう、気が狂いそうだよ。ねえ、どうしたらいいと思う? ね、太公望」
 歌うように繰り返される問いかけに、太公望は立ちつくす。
「ねえ…」
 迷い子のように頼りない声音に、目眩がした。
 そしてキミも、私を置いていくんだね?
 暗く沈んでいく意識の中。
 そんな囁きが、最後に――聞こえた気がした。


 気がついたとき、太公望は、月明かり差し込む自室の寝台に横たわっていた。
 夢を、見ていたのだろうか。驚いて起きあがると、部屋の暗闇がふと動いた。一瞬身をすくめる。
「目を、さまされましたか?」
 聞き慣れた穏やかな声に、太公望はほうと息をついた。
 何故だか急に、涙が出そうに胸が締め付けられる。それを押さえてつぶやいた。
「楊ゼンか……」
「はい、師叔」
 突然、寝起きの頭がはっきりとした。
「…何故、おぬしがここにおるのだ?」
 確か自分は、仙人界に行ったはずで。
 それがここに帰っていて、さらにこやつがいるということは…。
「それはもちろん、僕が師叔をこちらにお送りしたからですが。太乙真人さまに、頼まれましたので」
「そ…うか」
 訊きたいことはあるのに、何も言えなかった。
 太乙はどうしていた? おぬしに何と言った? それに、おぬしは…。
 返ってくる答えを、聞きたくなかったのかもしれない。それに何より、いつもと違う楊ゼンの様子が口をつぐませていた。
 常なら、放っておいてもなんやかやとしゃべりだす彼が、ただ黙って静かにこちらを見ている。もし上に行ったのがバレたら、どうして声を掛けなかっただのなんだのと、うるさいだろうと思っていたのに。
 その暁の瞳は、暗い中では闇色に近く…太乙のそれを思い出させた。
 これまで楊ゼンが押しかけてきたときのように気軽に出ていけとも言えず、太公望は息を詰めていた。
「……師叔」
「なんだ」
 ようやっと口を開いた楊ゼンに、太公望は内心ほっとして相づちを打った。
 楊ゼンは、部屋の隅にあった椅子から腰を上げた。
「お疲れのようですし、僕はもう失礼します。…それでは」
「よ……楊ゼン!」
 早足で窓辺に寄った楊ゼンを、思わず太公望は呼び止めていた。自分でも驚くほどに大きな声が出た。
「……何ですか?」
 静かに、楊ゼンはふりむいた。白い月の光に、長い髪のふちが透けて蒼く輝いた。作り物めいて整った顔立ちが、何かを畏れるようなまなざしで、太公望を見つめる。
「あ……いや……」
 何故声を上げたか、自分でもわからず言葉を探す。
「師叔?」
「わしは……」
 月を背にして問う声が、かすかにすがる響きを帯びたと思ったは、気のせいだろうか?
 それにつられて、自分が何を言いかけたかに気づき、太公望は歯を食いしばった。
 ここで生きると。そう、決めたのではなかったか? 感情に流されれば、必ず後悔することになる。
 小さく息を吸って、太公望は言葉を押し出した。困ったように笑ってみせる。指先がかすかに震えるのを、上掛けの下で押さえ込んだ。
「……楊ゼン。太乙の様子を、時折でよいから、見てやってくれんか? 昔っから、どうもあやつは危なっかしくてのう。放っておくと、徹夜メシ抜き当たり前、そんな生活ばかりを……」
「師叔」
 楊ゼンが、薄く笑んだ。どこか諦めたような声音で問う。
「師叔が、見てさし上げればいいでしょう?」
 太公望は、出ない声を絞り出して、笑顔を作った。
「そうしたいのは、山々だがのう! わしは、もうそう長くはあやつにつきあえん。だから、これからはおぬしが、あやつを」
 楊ゼンは首を傾けた。ただそれだけの仕草に、思わず太公望は言葉を切った。
 口元が、かすかに微笑んでいる。
「……わかりました」
 窓辺に白い手が掛かる。…ふと。
「ねえ、師叔」
 色を失った瞳が、振り返った。
「あなたも、僕を……」
 きつく、きつく耳をふさいだ。だから。

 最後の言葉は、知らない。








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