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09. 四角い青  [ Nup * Aty ]



「先生、見てみろよこれ… って、あれ?」
 手のなかにすくった魚を、ぱしゃんと放してナップはあたりを見まわした。
 ほおを潮気のある風が撫でていく。
「先生は?」
 ひざまでひたすぬるい海水を蹴ってふりかえれば、スバルとパナシェがそろって首をふった。
「うん? さっきまで、そこらへんにいたと思うけどなあ」
「そういえば、いないよね?」
 ナップは知らず口をとがらせた。
「…どこ行ったんだよ、もう」
 そもそも彼女は、自分を誘ってここに来たのではなかったか。
 …まあ、自分も、スバルたちといっしょになって、魚捕りに夢中になっていたことは認めるが。
「ニイちゃん? どうかしたのか?」
 不思議そうに声をかけてきたスバルに、ナップは苦笑いをした。
「んー、オレ、ちょっと先生さがしてくるよ」
 また後でな、と手をふって、ナップは膝丈の水から飛び出した。


「……先生?」
 やっと見つけた相手は、護人ふたりと、そこここに花の咲く白い砂地にのんびり座っていた。
「あ、ナップくん」
 ほにゃりと、こちらを見上げて微笑まれ、ナップはため息をついた。
「なにしてるんだよ、先生」
「なにって…」
 首をかしげた相手の横で、白虎の亜人がごろりと寝返りを打った。おおらかな声で応えが返る。
「見りゃあわかるだろ、昼寝してるのさ」
「あのねえ、ヤッファ。いっしょにしないでちょうだい」
 さらにその隣のアルディラから、ため息混じりの訂正が入った。
「こんなとげのある花の上でごろごろと眠れるのは、貴方くらいのものよ」
「そりゃあ悪かったな」
 気を悪くしたふうもなく言ったヤッファに、砂地にすわったアティがのんびりとつづけた。
「うーん、私も、ついついお昼寝したくなっちゃいますけどねえ」
 お天気はいいし、ここはあったかくてきれいだし。
 アティと同じく砂地をえらんで腰を下ろしているアルディラが、そのきれいに整えられた眉をひそめた。
「やめておきなさい、アティ。痛い思いをするわよ。どうしてもっていうなら、このひとを下に敷いて転がることね」
「おいおい、オレは敷物かよ?」
 三人の会話に、ナップはしゃがみこんで丈の低い花々を見つめた。そっと指を伸ばす。
「いてっ……ほんとだ」
 雪白からうす桃色まで、色とりどりのやわらかそうな花弁に似合わず、さわった茎にはとげが付いている。
「こう見えても、バラの一種なの。ほら、いい香りがするでしょう?」
 ついと眼鏡を上げてほほえんだアルディラに、アティが興味を示す。
「わあ…ほんと、とってもいい匂いです」
 指先で花をすくうようにして、そっと香りをかいだアティに、ヤッファの茶々が入った。
「秋になれば、甘い実もつくんだぜ。あんたにゃあ、そっちのほうがいいんじゃねえか」
 あはは、と屈託無くアティが笑う。
「ああ、それもちょっと、心ひかれちゃいますねえ。…ねえ、ナップくん?」
 突然ふられて、ナップはくちごもった。
「そ、そんなの、先生じゃないんだから。それこそ、いっしょにしないでくれよな」
 そうですか、とアティは残念そうな顔をした。
 すこしだけ後ろめたい思いを覚えながら、ナップも白い砂の上に腰を下ろした。
 じわりと、砂からここちよい熱が伝わってくる。横目にアティの様子をうかがえば、すでに気にしたふうもなく空を見上げていた。
 釣られて、ナップも上を向く。
 混じりけのない、濃い青色の空だった。
 空のまんなかで、白くかがやく太陽の上を、ゆっくりとうすい雲がながれていった。すうっとその雲のふちが白金色に透けたと思ったら、また現れた太陽が、さえぎるものなく落ちてくる。
 立ちのぼる水蒸気が、ひかりにゆらりと揺らめいて。
 生命力そのもののまぶしさに、ナップは目を細めた。
 その視界のはしに、つと白い腕が伸びる。
「先生?」
 ふりむけばアティが、ぐっと頭上に手を伸ばしていた。
 空に伸びたその両の手の指が、なにやら四角い枠をかたちづくる。
「なにしてるの?」
 怪訝にナップが問えば、目をほそめてアティは笑っていた。
「空が、あんまりきれいだったので」
 見上げたまま、つづける。
「切りとって、残しておこうと思って」
 しばし、沈黙が落ちた。
 アティが地上へと視線を戻す。あやふやな表情と口調で、おそるおそる問いかけた。
「ええ、っと… わたし、なにかおかしなこと言いました?」
 ナップは、ぽりぽりとほおをかいた。ヤッファはくつくつと笑いを漏らしている。
「うーん、なんていうか、そうだね」
「まああんたらしいんじゃねえか」
「感心してるところよ、…よくそんなことを照れもなく、真顔で言えるものだって」
 呆れたようにアルディラが笑って、ぽつりとつづけた。
「そういうところ、ほんとにそっくり」
 アティが首をかしげた。
「……アルディラ?」
 そっと問いかける気配に、アルディラはちいさく首を振った。
「ううん、なんでもない。…ああ、そうだわ」
 思いついたように、声を上げる。
「どうせなら、映写機をもってくればよかったのよね。そうしたらいくらでも、フォトディスクを撮ってあげられたのに」
 言いながら、ほんとうに残念そうな顔になったアルディラに、アティが笑って首をふった。
「いいんですよ、アルディラ」
「え?」
 だって、とつづける。
「紙やデータに残しておくよりも」
 あおぐ空よりもさらに濃く深い青のひとみで、アティは笑んだ。
 ぱたんと、上体をたおして、片手を伸ばす。
 ながい髪が、さらりとあたたかな砂に広がった。
「こうやってこころにしまっておく景色のほうが、もっとずっときれいに決まってますから」



 一瞬ののち。
「……っ、たああい」
 顔をしかめて、アティが身を起こした。
「貴方ってひとは、…私の言ったこと、聞いていなかったの?」
 しかめつらしく言いかけたアルディラの顔が、おかしそうに笑みくずれる。
「もう、ほんと、そそっかしいんだから」
「くっく、ちがいねえやな」
 のどを鳴らしたヤッファに、ナップも苦笑混じりのため息をついた。
「あーあ…先生、だいじょうぶ?」
 涙目で、アティはとげの刺さった指先を目の前にかざした。
「ううっ。痛いです」
 見る見るうちにぷつりと浮かんだ血の玉が、ぱたりと下に落ちて。
 白い砂地に、ちいさな赤い染みをつくった。






 ナップは、はるか頭上、澄みきった青へと手をのばした。
 冷えきった大気のなか、人という存在への明確な拒絶を感じさせるほど、うつくしい色だ。
 倒れこんだ雪のそこらじゅうに、その冷たい青が反射している。
 針のようなまぶしさに目を開けていられなくなって、ナップはかたくまぶたを下ろした。
「ピー、ピ、ピピーッ!」
 甲高い電子音と共に、雪に埋もれたからだを揺さぶられる。
「ああ、…うん、オレは大丈夫だよ、アール」
 しわがれた声でナップはささやいた。
「すぐ、起きるから、…だから」
 ナップは、冷たくこわばった両手で顔をおおった。
 にじんだ涙の熱さえ、奪われあっという間に凍りつく。
 こんな命のないうつくしさは、あのひとに、まったく似つかわしくなどないのに。

 …なあ、先生。
 あの日切りとった空を、まだおぼえてる?



 空に伸びた白いゆびは、血に染まって

 いまも どこかで






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