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10. 禁忌  [ Yafha * Aty ]



「………こんばんは、ヤッファさん」
 封じたはずの遺跡の目覚めとともに大地を襲った、叩きつけるような暴風雨は、夜半近くにはやさしい霧雨に変わっていた。
 床に伏してまどろむなかで聞いた声に空耳を一瞬疑ってから、己の聴覚に限ってそんなこともあるまいとヤッファは身を起こした。庵の入り口を覆った布を巻き上げる。
 闇の中、まとわりつく水のとばりに濡れそぼった娘が、庵の入り口に立っていた。
「どうしたアティ、……なにかあったのか」
 ぼんやりとしたひとみでこちらを見あげて、娘は何も言わなかった。
「まあ、とにかく入れや。そんな濡れ鼠じゃ身体に障る」
 これほど遅い時間に娘が訪ねてきたことはない。己の住処へ引きこむことを迷ったのは一瞬だった。庵へと流れこんでくる湿気と冷気に背を押されて、娘の腕を引く。ヤッファに従って、おとなしく娘は庵に入ってきた。
「おい、大丈夫か? どうしたってんだよ」
 引っぱり出した布で大雑把に髪をふいてやりながら、重ねて尋ねたヤッファに、たましいをどこかへ忘れてきたような声音で娘はささやいた。
「………てください」
「なん、だって?」
 手が止まる。何かを聞き違えたのだと思った。もしくは、やましい己の思いゆえの願望か。
「………今夜、いっしょにいさせてください。私のこと、好きにしていいですから」
「おまえ、……自分が何言ってるか、わかってるのか」
 たぶん自分は、あっけにとられた顔をしていたのだろう。すべり落ちた布の下からのぞいた娘の目もとが、くしゃりとゆがんで、笑顔になった。
「あはは……っ、そう、ですよね。ほんと、私、なにを言ってるんだろ。ダメに決まってますよね、そんなの。……ちょっと、いま……おかしいみたいで、…ッ」
 笑顔のそのひとみから、ぽろりと大つぶの涙がこぼれ落ちた。
「ごめんなさい、わすれてくだ」
 気がつけば、娘を引き寄せていた。
「……どうしちまったんだよ、アティ」
 こたえは返らず、声も立てずに、娘は静かに泣いていた。
 ちいさな頭を抱えこんだ胸に、冷たい感触が染みこんでくる。
 娘は小さくしゃくり上げた。息が苦しそうだった。
 その顔を両手ではさんで上向かせた。娘はかすかに首をふる。
「見ないで、ください……」
 そっと、ぬれた目もとに口をつける。
 涙をすすって、ちいさな子どもにするように、背中をゆっくり、ゆっくりとなでてやる。
 雨の音だけが、さあさあとやさしかった。



「……ヤッファ!」
 過ぎし日から、深く沈んでいた意識を引き戻したのは、旧い知り合いの声だった。
 細く目を開ければ、庵と外をへだてる布を巻き上げて細身の男が立っている。
「いいかげん起きなさいよ。アンタ、日がなその調子で腐ってるそうじゃないの。マルルゥちゃんが心配してたわよ」
 気だるい体を起こす気にもなれず、だまって見あげる。
 その肩ごしに、差しこんでくる日射しが目にまぶしい。
 苛ただしげに、男は続けた。
「ああもう、ふぬけた顔しちゃって! アタシだって、久しぶりに会った飲み仲間、しかもいい年した男捕まえて、こんな説教したくないわよ。…ちょっと、聞いてるの?」
 返答を一瞬考えてから、結局萎えて、目を閉じる。
 長いような短いような、静寂の後。
「ねぇ……」
 かすかなため息が、耳に届いた。
「アンタがいつまで経ってもそんなんじゃ、……センセが悲しむじゃない」
 ゆっくりと目を開ける。流れる雲にすうと日が陰って、見えた男の表情は、耐えがたい痛みを耐える者のそれだった。
 もう、ずいぶん前から、自分はそんな感覚を失ってしまった。
 昔を思い、夢にまどろみ、そうして過ごした日々のうちに。
 ぼんやりとそう思ってから、吐きだす息とともに、言葉を押しだす。
「オレのなかじゃ、…あいつはいつでも泣いてやがるんだ。最後に別れた時から、ずっと」


 封印したはずの剣が、すべてをあざ笑うようにあのほそい手に舞い戻った日。
 収まりかけた嵐のなか、あの娘が庵を訪れたのは、ただ不安で、泣きじゃくる幼子のようにすがりつく相手を必要としていただけで。だから己は間違ってはいなかったと、そう思う。けれど。

 あの晩、まだ白かった手を取って、なりふりかまわず引きずり倒していたならば。
 あいつを、こちらに引き留めておけただろうか?

 埒もないことを考えて、もう何もないはずの虚ろな胸の空洞が、かすかに痛んだ。








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