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13. 耳鳴り  [ Aty ]



とても、幸せだった日の夢を見た。
アティはそっと目を開ける。視界を占める闇に、ゆっくりとまたたきをした。
初夏の翠かがやく、やさしい夢のなごりは、取りもどす間もなく消えていく。
取って代わるのは、ざわざわと頭をにぶくかきみだす、音なき声だ。
アティはかたく目をつぶり、またそろそろと目を開けた。

大丈夫。わたしはまだ、だいじょうぶ。
耳もとでささやく悲しみが、嘆きが、自身のそれとは別のものだとわかっているのだから。

からだの節ぶしに違和感がある。まるで手足が自分のものではないような。
自分が、油の代わりに、砂を噛んでいるからくり人形であるかのような。
それを知覚する頭も水を吸ってふくらんだ海綿がつまっているようでぼうっとして、奇妙に現実感がない。
寝返りを数えて両手の指でも余ったところで、アティは眠りに戻ることをあきらめ、寝台から身を起こした。
うすい夜着の上から肩かけをはおる。
気だるい身体を意識して動かしながら、アティは暗い廊下をたどり、甲板への階段をのぼっていった。
かん、かん、かん、と冷たい音がひびく。
夜の甲板はかすかに風が吹いていて、アティは息をついた。
ひんやりとしたはだ寒さに、すこし普段の感覚を取りもどした心地になる。
気持ちをふるいたたせて、アティは船を降り、砂浜を歩きだした。
ゆっくり、ゆっくりと。一歩先だけを見て。
さくさくと踏みしめる青白い砂が、まばらな草に変わり。
潮気を帯びた風が、木々の香りと、おだやかな水の匂いを含んだ空気に変わる。
足もとが、丈の短い草からやわらかな腐葉土になって、アティは首を上げた。
ざわりと、木々の揺れる音がした。
風がいたずらに髪を乱して、駆け去ってゆく。
アティは小さく身ぶるいをした。
昼間でも、この場所に陽が落ちることはないのだろう。
落ち葉の積もる森の床にはわずかな下草さえもなく、幾重もの枝の屋根の下、
ぽっかりと昏い空洞になっている。
星明かりさえ届かぬ闇の中、それを見てとる自身にアティは嗤った。
「いつのまにわたし、こんな夜目が利くようになってたんでしょうねえ」
鏡で見れば、瞳孔が猫のようにとがっているのではないか。
そう思えばふいに泣きたくなって、アティはくちびるをかみしめた。
怖い。怖い。こわい。
それでも、自分が前に進むしかないと知っている。
だんだん強くなる、悲しい耳鳴り。
こちらへおいで、と、髪をつかんで引くなにか。
だいじょうぶだからと、呼び声にすくむ足へ何度も言い聞かせて、よろめきながら、その先へもう数歩。
足がもつれた。目の前の大樹の幹に、両手をつく。
アティは、そのまますがりつくように、その根もとへとへたりこんだ。
ざらざらとした木肌がほおにあたって、冷たい水と土の匂いがする。
力をふりしぼって空を仰いだけれど、目に映るのは黒々とした森の天井ばかりで、
ひとかけらのひかりも落ちてはこなかった。
この木の上には、きっと星の明かりがやわらかく降っているのだろう。
思っても、萎えた身体では冷たい木の幹にしがみつくのが精一杯で。
だって、胸に抱いたつめたく碧いこの剣以外に、自分を支えてくれるものはもう、ないのだ。
ずるりと、両の腕が落ちた。
あの日見た緑のひかり。やさしい風。
ひなたの匂い。
そのすべてが遠すぎて。
アティは小さくすすり泣いた。


それでもわたしは、この剣を抜き、立ち上がるから。
あなたを悲しませるものなんて、すべてわたしが消してしまうから。
あなたはそこで笑っていて。

最期に消えてしまうものなんて、どうか見えないふりをして。







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