「アリーゼ?」 扉の外から、遠慮がちにかけられた声に、アリーゼはペンを走らせる手を止めた。 「はい、どうぞ?」 蝶つがいのきしむ音とともに、背中に当たる空気が揺れた。指先で落ちかけた眼鏡を上げて、ふりかえる。 暗い扉口から、長身の青年がのぞきこんでいた。 「廊下に、光が漏れてたからさ。まだ寝ないのかい? 明日は早いんだから、無理してちゃダメだよ」 「あ、はい、もう少ししたらちゃんと休みます、けど…」 アリーゼは知らず口をとがらせた。 「もう、先生ったら。私、こどもじゃあないんですから。そんなに心配してくれなくたって、だいじょうぶですよ?」 ぱたんと扉を閉じて、青年が机のそばまで歩みよる。 見下ろす顔が、いたずらっぽい笑みを浮かべた。 「へえ? ところで、先生って呼ぶのは、もう止めてくれるんじゃなかったかな」 あ、と声を上げて、アリーゼは口もとを押さえた。ずっと伸ばしてきた髪が、さらさらと両肩からすべり落ちる。 「そ、そうです、止めたんですよっ。……だって」 おずおずと見上げた先で、おだやかに、やさしくレックスが笑んだ。 「だって。私は、…」 「うん、アリーゼは」 身をかがめたレックスのまなざしが、すぐそばにあった。 そっと伸びてきた手が、こわれものを扱うように、アリーゼのほおを撫でる。 「明日から、俺の家族になるんだもんな」 触れた手は夜気にひんやりとしていたけれど。 顔から、ぼっと火がでるんじゃないかと思った。 「ず、ずるいです。こんなの、反則ですよ…っ」 たまらずアリーゼはうつむいた。とっさにほおを両手で押さえるも、涙が出そうだ。 「ア、アリーゼ?」 うろたえた声が降ってきて、あわててアリーゼはパシパシとまたたきをした。 「ええっと、…ですね」 にじみかけた涙をふりはらって、顔を上げる。自分よりよほどあわてた様子のレックスに、ぺこりと、アリーゼは頭を下げた。 「あの、…なんでもないですっ。ごめんなさい」 困ったような、照れくさいような顔で笑って、レックスがほおを掻いた。 「いや、俺こそ、ごめん。なんか、くすぐったいっていうか。不思議な感じだよな」 おたがい、どうしたらいいのか、よくわからないまま。 見合わせた目に、くすりと笑みを交わした。 「心配かけちゃって、すみません。でも、これだけ書いてしまったら、ほんとにすぐ寝ますから」 「って、なに書いてるんだ? 日記とか?」 「あ、ええと、その…」 知らず口ごもってから、アリーゼはささやいた。 「手紙、です。…おとうさまへの」 「手紙?」 おどろいた顔をしたレックスに、ええ、とうなずく。 「いつ届けることができるかなんて、わからないですけど。どうしても今、書いておきたくて」 そっと、書きかけの羊皮紙をなぞる。 「知ってますか? 花嫁の手紙、って」 視界のはしで、レックスが首をかしげているのを見て、アリーゼはほほえんだ。 「結婚のお式の時に、花嫁さんが、お父さんお母さんに渡すんです。これまでの感謝の気持ちとか、伝えたいことをたくさん書いて」 私も、アルディラさんのところで、結婚式についてのいろんな記録を見せてもらっていて、初めて知ったんですけどね。 アリーゼは笑って付けくわえた。 「そっか…」 つぶやいてから、レックスがその眉を寄せた。 「…あの、さ」 ふいに辛そうな顔になったレックスを、アリーゼはきょとんと見つめた。 「ごめんな、アリーゼ」 「えっ? なにがですか?」 レックスは、ためらうような気配の後、口を開いた。 「俺さ、…ほんとうにすまないことしたって、思ってる」 うつむいたまま、続ける。 「お父さんにとっても、アリーゼにとっても、おたがいがたったひとりの家族だったのに」 レックスは、ためいきのように、静かに息を吐き出した。 「アリーゼを、こんなふうにお父さんから引きはなすことになって。結局、恩を仇で返すようなかたちになっちゃっ…」 「…なに言ってるんですかっ!」 アリーゼが伸ばした手のひらで口をふさがれて、レックスが目を白黒させた。 「ア、アリーゼ!?」 そのまま、がたんと椅子を蹴って立ち上がる。 「もうもうもうもう、先生ったら!」 この期に及んでこのひとは、なにを言ってるんだろう。 「私はもうこどもじゃないんだって、何回言ったらわかってくれるんですか?」 「え、ええっ?」 ほんとうにわかっていないらしい様子に、地団駄を踏みたくなる。 「私が、先生のそばにいることを選んだんです。先生にかどわかされて、閉じこめられてるわけじゃあないんですよっ?」 なのに、そんな言い方じゃあ。憤慨のままに、アリーゼは続けた。 「私には私の意志があって、私自身が決めたことなんです。だから、先生にすまながってもらう必要なんかほんの少しもないんですってば! それで謝るなんて、それってすっごく私に失礼なんだってことわかってます?」 レックスが、かすかに目を大きくした。 「あ…」 一息に言いつのったなごりで、肩で息をしながら、アリーゼはちいさく苦笑した。 「私の言いたいこと……ちゃんと、伝わりましたか?」 うん、とレックスがうなずいた。 「……俺、知らないうちに、アリーゼ自身の気持ちを無視しちゃってたんだな」 大きく頭を下げる。 「ほんとにごめん。…いつになっても、アリーゼには教えられてばっかりで。俺、先生失格だよなあ」 あはは、と情けない顔で笑うレックスに、くすりとアリーゼも笑った。 「そうやってすぐ、なんでも自分の責任だって思いこんじゃうところは、もうずーっと昔からの、先生のクセですもの。そう簡単には直らないですよね」 でも、だからこそ。 アリーゼはレックスを見上げた。きっぱりと、力を込めて、ことばを続ける。 「これからも、びしびし! 先生のとなりで、口うるさく言い続けちゃうんですから」 あっけに取られているレックスに、指を突きつける。 「覚悟、しててくださいね?」 レックスのびっくり顔が、ゆるゆると、しあわせな笑みに変わっていく。 「うん。…うん、アリーゼ」 長身がかがんで、アリーゼの上に影を落とした。 「ありがとう…」 ぎゅっと。押しつけられた胸のあたたかさと、男のひとのにおいに顔が熱くなる。 「せ、せ、先生…」 アリーゼは口をぱくぱくさせてから、ようやく声を押しだした。 「…私のはなし、聞いてたんですか!?」 「うん」 「じゃ、なに笑ってるんですかっ」 「うん」 「私、まじめに言ってるんですよ?」 「うん…」 レックスは、うれしそうにうなずくばかりで。 「もう、先生、いいかげんにっ」 「……あのさ」 ちいさく、耳元でささやかれて、とっさにアリーゼは口をつぐんだ。 「家族と別れるのが、辛くないはずなんて、ないんだ」 すべりこむレックスの低い声が、ほおを押しつけた胸からもひびいてくる。 「でも、たしかにそれは、俺が謝る筋合いのことじゃないと思うから、そのかわりに……うぬぼれ、かもしれないけど。言わせてほしい」 レックスの、おおきく息を吸う気配があった。 「俺を選んでくれて。…俺の家族になってくれて、ありがとう。アリーゼ」 自分の背中を抱きしめる腕が、かすかにふるえていたから。 「ねえ、先生……?」 アリーゼは、そうっと青年の背に腕を回した。 「おとうさまをひとりぼっちにして、申しわけないとも、思ってますし。離れるのがさびしくないって言ったら……うそですけど」 できる限りの力を込めて、抱きかえす。 「先生がひとりで、無理して笑ってるかもって思ったら、もっともっと、私つらくなっちゃいますもの」 アリーゼは、片方の腕をすこしだけゆるめて、自分よりずっと大きな背中をなでた。 「だから、ずっと、いっしょにいてくださいね……レックス?」 顔を上げて見あげた先で、目を固くつぶった青年が、かすかにうなずいた。 おとうさま。 これまでずっと、ありがとうございました。 心配ばかりかける娘で、ほんとうにごめんなさい。 もっともっとたくさん、お話ししておけばよかったって、今になって思います。 でも、もう会えなくなるわけでも、おとうさまの子供でなくなるわけでもないので、 お別れは言いません。 いつかきっと、先生といっしょに会いに行きますから。待っていてくださいね。 それでは…って、そうだ、忘れるところでした。 どうか、これからはもう、心配しないで。 なぜって… 「どんなことがあったって、二人いっしょなら」 抱きしめる腕のなか、つま先立ちになって。アリーゼはそっとささやいた。 「ぜったい大丈夫だって、信じられるんですから、ね?」 fin. |