■  絆の名  ■



「ふーん、ふふんふん……」
 マグナは、ケーキを載せた銀のトレイを手に屋敷の廊下を歩いていた。
「……ふんふふんふん、ふんふーん」
 中庭に面した窓から午後の日ざしが降りそそぎ、肌に触れる空気はあたたかい。テラスで茶会としゃれこむには絶好の好天だった。育ちざかりのマグナにとって、居候先であるこの屋敷の主人、ギブソンの午後のお茶につきあうのは剣戟の絶えない日常における数少ない楽しみの一つであったから、足取りも軽い。
 テラスへ向かう道すがら、通りすぎかけた厨房の前で、マグナはふと足を止めた。
 ごとん。がたごとん。
 中から、何やら物の落ちる音。思わず耳を澄まして届いた声音に、その物音の主が知れた。
『………みゃああ――ん』
「ああ、なんだチビか」
 この屋敷の猫の声で思いだして、マグナは厨房の扉に手をかけた。
 ネスティから、紅茶に入れるミルクを持ってくるよう言いつかっていたのだった。
「ありがとなーチビーおかげでネスにどやされずに……」
 扉を開け放つ。きょろきょろと見まわしたが、チビの姿はなかった。代わりに、部屋の片隅で人影がひとつ動く。
「あ、シャムロックさん」
 調理台の陰に、仲間のひとりが膝をついているのを見て、マグナは声を掛けた。
「あの、……いまここにチビがいませんでした?」
 シャムロックの背が、大きくびくりと揺れる。そのまわりには、彼が取り落としたのだろうか、茶葉の缶やトレイが散らばっていた。怪訝に思って、マグナはそちらへ歩み寄ろうとした。
「どうかしたんですか? ……シャムロックさん?」
 フウッ、と激しい威嚇音。身をこわばらせたマグナから機敏に飛びすさり、床からこちらを見あげるシャムロックの全身が、はっきりと視界に入る。
 そうして、自分が『チビ』だと思っていた鳴き声の正体に、マグナは腰をぬかしてへたりこんだ。



「…………マグナ?」
 いっそやさしいほほえみだった。
「僕は、君によーく言い聞かせたよな?」
 にっこりと、ネスティの稀少なその笑みが、見る見るうちに鬼の形相へと変成していく。
「ええ、えええと、えっと、………」
 次の一言が死を招く。
 マグナにしては正確な状況判断のもと、けれども結局口を突いた言葉は。
「………何だっけ?」
「き」
「……機?」
「君は馬鹿かーッ!!!!?」
 耳を吹き飛ばさんばかりの勢いに、マグナはとっさに頭を抱えてしゃがみこんだ。
「あうう、ううええええご、ごめんネスうぅぅぅ」
「あれほど、憑依召喚の危険性は教えただろう! 理解していなかったのか!? そんなものを君に期待した僕がああそうか馬鹿だったのかッ!!?」
「うううう、ごめんってばネスぅ……」
 身を丸めたところでさほど小さくなってもいないマグナが、半泣きでうめいた。
「わかってるんだ、俺がバカなのもネスが説教魔なのもアルミネがゲイルなのも蒼の派閥が蒼いのもシャムロックさんがアレなのも、ぜんぶぜんぶ俺のせいなんだ〜〜……」
 微妙に責任の所在が曖昧な問題も混入しながら、けれど兄弟子の耳はしっかり重要な箇所は聞き取っていた。
「そうだ! 問題はそこなんだ!」
 びしっと指した先に存在しているものは、
『……にゃあ?』
 テラスの長椅子で、窮屈そうに膝を折って座るシャムロックの、変わり果てすぎた姿だ。
 髪から突きでた三角の耳は大きく、鎧の下からはみ出した長い尻尾が椅子の脚に巻きついている。きょとんとした顔で首をかしげるその瞳孔は針のように細く―――総じて言えば、猫型の亜人そのものだった。


「で、まあ、…………なんだ」
 怒鳴りすぎかつ怒鳴られすぎて、ぐったりテラスの石床にへたりこんだ兄弟弟子のその脇に、フォルテはのそりと身をかがめた。そのさらに後ろでは、微妙な表情をした仲間たちが遠巻きにしている。
「お疲れのとこ、わりいんだが。……ありゃあいったい、どうなってるんだ?」
 くいと後ろに倒した指の先では、ばかでかい猫耳野郎と化したシャムロックが、手甲を舐めてはそれを頭にこすりつけるという猫スタイルで髪を梳いている。
 ネスティが、ゆっくりとうつろなまなざしを上げた。
「ああ……あれは、」
「アレは?」
 ふ、とこわれた笑いを口の端に張りつけて、ネスティが続けた。
「……エールキティだ」
「うううううぅ……」
 マグナのうめきがバックコーラスに入る。
「この超バカ者が、先だっての戦いで彼に憑依させた幻獣を、すっかり忘れて送還させてなかったんだ……」
 フォルテは、頭からすっと血が下がるのを自覚した。
「なっ……おい、じゃなにか、あいつはこのままバケモンになっちまうっていうのかよッ!!?」
 異形と化したトライドラの領主の姿と、そして、ほおを主君の血で濡らし、嗚咽をこらえるようにゆがんだシャムロックの横顔がよぎった。それは、過去というにはまだ生々しすぎる記憶だ。
「おまえらのんきに兄弟げんかしてる場合か―――!!」
 ネスティの薄い肩をつかんで、前後にゆすりたてる。
「なんでもいいから、ちゃっちゃとあいつを元に戻しやがれッ!!」
「ま、ま、待っ、……ちょ」
 必死にさえぎろうとする声もそろって揺れる。
「だ、……大丈夫だフォルテ、彼は戻れる!」
 ようやくつむがれた言葉に、一気に緊張が解ける。フォルテは荒い息をそのままに、がっくりと両手を床についた。
「な、んだよ、先にそれを言ってくれよなあ……びびったろうが」
「……そちらが、最後まで言わせなかったんだ」
 肩を揺らして、ネスティが小さく咳きこんだ。おさまった喉が、そのままため息を漏らす。
「かの領主のことを言っているんだろうが、彼に憑いていたのは悪鬼だったろう。メイトルパの住人は基本的に、人間の魂を取りこむ性質を持っていない。今だって乗っ取られているというよりは、彼自身と幻獣がまざりあっているようなものだ。ここまで憑依が進んでしまえば、召喚主による送還も、ましてやルウたちの祓いも難しいだろうが……」
 ネスティがようよう立ち上がり、しわの寄った上着を整える。フォルテも腰を上げた。
「もともと、護衛獣相手のような永続的な召喚をかけたわけじゃないんだ。……幻獣をこの世界に固定化させている魔力が尽きれば、勝手に還る」
 そのあたりをわかっていなかったらしい召喚主のほうが、いくぶんほっとした様子を見せた。
「なーんだ、ほっといても……」
 ネスティが素っ気なく続けた。
「ああ、そうだ。ただし、調律者とまでうたわれた召喚師による術の効果が切れるのが、一週間後か一月後か、はたまた一年後になるものか。……そこまでは知らんがね。僕は」
「あは、は、はは……」
 マグナのかわいた笑いが、明るいテラスにむなしく、ただむなしく流れるなか、肩に触れるものを感じて、フォルテはゆっくり視線を向けた。
 いつのまにかそばに来ていた渦中の騎士が、首をかたむけ、そのほおを自分の肩に預けていた。優美な尻尾が、するりとフォルテの足にまとわりつく。
「シャムロックの耳としっぽ、ノエルとおそろいだね!」
 無邪気に駆けよったオルフルの娘が背伸びをして、シャムロックの亜麻色の髪を撫でた。首をめぐらせ、娘を見下ろしたシャムロックのひとみが、気持ちよさそうにほそめられる。
 おだやかな幼なじみの表情に、フォルテは知らずのどを詰まらせた。
 もうずっと、こんな彼を見た覚えなどなかった。
「………お前」
 こぼれたつぶやきに、まっすぐなまなざしが自分に向けられる。
 そこに、敬意はない。苦悩も、悲嘆も、いつかの日に見た絶望も。
 手を伸ばす。髪のなかにすべらせ、ゆるくかきまぜた。ひょっこりと飛び出た大きな獣の耳、髪と同じ色の短毛におおわれたそれの付け根を掻いてやる。
 シャムロックのくちびるが開いた。けれどそこから自分の名がつむがれることはなく、ただ、やわらかくのどがなる。引かれるようにのどもとに手をすべらせれば、くすぐったそうにあごが上がった。
 フォルテは、シャムロックの両肩に手をのせ、力を込めた。相手は、逆らうことなく膝を落とす。それに合わせてしゃがみこんだ。
 くずした正座のような姿勢で座りこむシャムロックの背に、両腕をまわす。
 肩口にひたいを当てる。目もとがじわりと熱くなった。
「フォルテ……そ、その、ごめん、俺……」
 相当がっくりきているように見えたのだろう。後ろからおずおずと声をかけてきたマグナに、フォルテはひたいを男の肩に付けたまま、ゆるく首を振った。
 フォルテの行動に、じゃれつかれていると思ったのか、シャムロックの首がこちらに寄せられる。髪の中につっこんだ鼻先をすんすんと鳴らし、そのままぐりっと押しつけられた。くすぐったい。思わず、吐息混じりの笑いが漏れた。
 この幼なじみと、再会した日のことを思い出す。
 敵軍のただなかで、己の部下のため、その身を捨てようとしていた。敵の騎士道を信じ、死を目前にしながらも、ただまっすぐに立っていた。
 戦場で生きるには優しすぎる性根は、自分の知るこどものころと何も変わらないまま、その精神は、流浪の身となった今なお高潔な騎士で在り続けている。
 不器用な生き方だ。その姿はうつくしく、好ましく、けれどひどく痛々しい。

 なあ、と声に出さず問いかける。
 お前は、こんなふうに身体の力を抜いて、安らぐことだってできるじゃないか。全部投げ出してさえしまえば。忘れてしまえば。誰がそれを責めたって、オレが、オレだけは―――
「………シャムロック」
 思うより、せっぱ詰まった声になった。
 自分の腕の中、それこそ猫の子のようにすり寄ってきていた身体が、わずかにすくむ。
「あ、いや、わりい」
 おどかしてしまったかと、フォルテはあわてて顔を上げた。
 至近距離で、シャムロックと目が合った。つい先ほどまで、日だまりにまどろむようだったひとみがぱっちりと見開かれ、その焦点が、目の前の自分に合わされる。
 思わず、フォルテは相手をなだめようとしていた言葉を飲みこんだ。
 まっすぐな、真摯なまなざしが、じっとこちらを見つめる。針のようだった瞳孔が、ふっと丸くなった。ゆっくりと、シャムロックのくちびるが開く。
「………フォルテ、様?」
 亜麻色のひとみに、自分の間抜け面が映っていた。頭にあった獣の耳も消えている。
「どうしたんですか、何か、……ッ!?」
 案じる声音でそこまで言って、シャムロックは今度こそ身体をこわばらせた。
「はっ? え、……あの、……なっ」
 腕に力を込める。締めあげるくらいに、その背を抱きしめる。
「シ、シャムロックさん、戻ったんですか!?」
「何だと!?」
 元凶の召喚師、その兄弟子二人の驚いた声が、他人事のように遠い。
「お前……シャムロック、お前なあ……ッ」
 泣きたいのか笑いたいのかわからない。
 こいつは今、自らに課した重荷をほんのひととき降ろして、楽になれたんだ。そんな身勝手なことを、確かに思っていた。
 それでも、たったの一声だ。王に列なる者の呼び声ひとつで、こいつは、ほんのわずかなまどろみからすらも、立ち戻ってしまうのだろうか。
「フォルテ様……?」
 とまどう声、おずおずと動いた腕が、遠慮がちにフォルテの背に置かれる。
「まあ、一時はどうなることかと思ったが、良かったぜ」
 一度、かたく目を閉じて、フォルテは顔を上げた。笑って、腕から力を抜く。勢いよく立ちあがる。それに従い、あわててシャムロックが立ちあがろうとしたところに半泣きのマグナが飛びついて、ふたたび尻餅をついた。
「シャムロックさああああん!」
「うわああああっ!?」
「ほんっとよかった、シャムロックさん! すみませんでしたああああああ!!」
「おい、こら、やめないかマグナ! まったく申し訳ない、このバカが迷惑を……」
「いえ、その……ああ、待ってください、フォルテ様!」

 騒ぎを背に、ひらりと手を振ってフォルテは歩きだした。
 口の端に、にがく笑みを刷く。

 自分に、彼の幸福を定義づける権利などありはしない。
 それでも、彼の中で自分に付された定義、そうまでさせるその価値が、己が内を流れる聖王の血脈以外の何かであればいいと、ただ、それだけを願っていた。





fin.


back