■  ちぎれる赤  ■



「脱ぎたまえ、店主殿」
 低木に実る甘い実へと、指を伸ばした姿勢のまま。
 耳に届いた低い声に、ぽかんと口を開けて、わたしはセイロンの顔を見つめた。多分、たっぷり三十秒くらいはかたまってたと思う。

 え? 脱げって、この着物のこと?
 着慣れないシルターン風の服は、アカネに教わりながら、悪戦苦闘の末にようやく身につけたものだ。
 広い襟をからだの前で合わせて、腰にまきつけた細長い布で押さえた衣装は、シリカの森へ行くのならと少し裾を高めにしてもらったこともあってか、思っていたより動きやすい。
 職人さんが丹精をこらして織った布地には魔に抗する力もこもっているのだそうで、なんだか身体によくなじむ感じで、……いや、いまはそんなことはどうでもいいんだってば。
 つまり、なんで、それをまた、彼の前で脱げって?

「……聞こえておるかね?」
 ちょっと困ったような声で、食材用の籠を抱えたセイロンが、わたしのほおを軽く叩いた。
「え、……あ、うん?」
 心配そうな顔こそしているものの、セイロンはまったくいつもどおりの様子で。
 なんだか妙な発言が聞こえたような気がしていたのだけれど、たぶん何かを聞き違えたんだ。自分を納得させて、わたしは軽く頭を振った。
「ごめんセイロン。よく聞こえなかったから、もう一回おねがい」
 そうかそうかと、ほがらかにセイロンは笑った。ちょいと扇子で裾のほうを指す。
「脱ぎなさいと言ったのだよ、店主殿」
 わたしも釣られて笑みを返す。
「ああ、なんだやっぱ、り…………って、えええぇえ!?」

 わたしは、思わず後ろに飛びすさっていた。
 落ち葉の下から出ていた木の根に、これまたシルターン風の履き物のかかとがひっかかって、後頭部から思い切り倒れそうになる。
 あわてたセイロンが、腕を伸ばしてわたしの身体を引っぱり返した。
「何だ、どうした、落ち着きたまえ」
 後ろにまわされた腕が、そのままわたしの背中を支えて引き寄せる。
 いや、なんだも何も、思いっきりあなたのせいですから!
 叫ぼうとして息を吸ったら、セイロンの黒い着物に焚きしめられた、なにか良い香りを胸いっぱいに吸いこんでしまって軽くめまいがした。
「だいじょうぶかね、店主殿」
 もう、息も絶え絶えで答えられない。
 首を振ったわたしに、しかたがないなと言いたげにセイロンはため息をついた。
 そのまま、すっとかがんで、わたしの前に片膝をつく。
「ほれ。我の肩に手をついてよいぞ」
 頭がくらくらしていたこともあって、わたしは言われるままに腰を曲げて、セイロンの両肩に手をついた。大きく息をして、呼吸を落ちつける。
「ええと、………で、なんだっけ?」
 顔だけ上向けたセイロンが、わたしの目を見て不思議そうにまばたきをした。
「何、と言われてもな。……我が脱がせてやらねばいかんのか?」
「え、えええっ!?」
「まあ、別にかまわぬが……」
 足もとから聞こえた呟きに及び腰になるより早く、がっしりと足首をつかまれる。
 バランスを崩しそうになって、わたしはセイロンの肩にふたたび体重をかけた。
 冷たい指が、ついとくるぶしを撫で上げる。ぞわりと背筋を駈け上がる感覚に、鳥肌が立った。肩をつかむ手に、思わずぎゅっと力がこもる。
「セ、セイロン……ッ」
 身震いしたわたしの様子に気がついたふうもなく、彼はぶつくさとつぶやいた。
「まったく……誰だね、この草履を用意したのは。まったくそなたの足に合っておらぬではないか」

「へっ? ………ぞう、り?」
 呆けてつぶやいたわたしに、視線をわたしの足下へやったままのセイロンが答えた。
「うむ、ずいぶんひどく擦れてしまっておるな。痛むだろう?」
 ……確かに、紐があたっている部分が赤くなって、ちょっと皮がむけている。
 セイロンは、わたしの履いた黒塗りの履き物をはぎ取って、足の指を通していた赤い紐に、袖から出した布の端切れを器用に巻き付けた。
「少しはましになるだろう。そなたを裸足で歩かせるわけにもいかぬからな、宿に帰るまではこれで辛抱してくれ」
 言いながら、片足ずつ、丁寧に持ち上げて履かせなおしてくれる。
 呆然としたまま、わたしはこっくりうなずいた。
「……本当にだいじょうぶかね、店主殿」
 怪しむように問われて、またもうなずく。
「なんなら、我が負ぶっていってやってもよいが」
 更にうっかりうなずきそうになって、わたしは全力で首を振った。かあっと顔が熱くなる。
「いいです……いや、よくない! ほんとにいいから! ごめんなさい、勘弁して……ッ」
 あっけに取られたふうのセイロンを置いて、走り出す。
「て、店主殿! そのように走っては…… ……遅かったか」

 わたしの足もとで、ぶちっと、赤い紐の切れる音がした。






fin.


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