「それじゃ、あたしたちそろそろ帰るからね、フェア」 あたりをすっかり宵闇がつつむ時分。夕方までの手伝いを終えて辞する姉弟の、かたわれの声が宿にひびいた。 厨房の奥、セイロンのとなりで皿を洗っていた娘が、首をねじ曲げて声を上げる。 「あ、うん、わかった! …ごめんセイロン、ちょっと見送り行ってきていい?」 「うむ、かまわぬよ」 答えを返したころには、エプロンで手をぬぐいながら、すでにフェアは玄関口へと駆けだしている。 「……やれやれ、そなたのその活力は、一体どこから来るのだろうな」 日中の忙しなさには、正直、手伝いに過ぎぬ自分でも気疲れを覚えるというのに。店のあるじの闊達さに、思わず苦笑まじりの言が落ちた。 「今日もありがとね、ふたりとも!」 つづいて聞こえてきたにぎやかなやり取りに、洗い終わった皿の水気をやわらかな布で拭き取りながら、セイロンは耳をかたむける。 「これ、あまりもののデザートだけどよかったら。ポムニットさんと食べて」 「やった、ありがと! ポムニットったら最近体重が増えたの気にしちゃってさ、ちょうど甘いもの断ちしてるとこなのよ。あの子の分までしっかりあたしが食べておいてあげるわね!」 「え、ホントに? ポムニットさん、全然太ってなんかないじゃない」 「あたしもそう言ってるんだけどさあ」 「ねえさんったらもう、勝手なこと言って……フェアさんの作ってくれたお菓子なら、ポムニットさんもぜったい喜ぶよ。……あの、ところで、フェアさん」 苦笑する少年の声が、途中からふっと小さく照れくさそうなものになった。 「ん、なあに?」 「いつものお礼っていったらなんなんだけど。よかったら、これ、使ってくれないかな」 「ああっ、ルシアンったらなによそれ! やらしいわ、抜け駆けね!?」 「な、なに言ってるんだよねえさん! そういうんじゃなくて、その…」 「わたしにくれるの?」 フェアの声が、おどろいたように応じる。 「えっとね……今日はさ、ほら、フェアさんの昔の誕生日だったでしょう? 古い日記が出てきて、思い出したものだから」 わずかの間、聞こえる会話がとぎれた。 「………そっか。うん。わたしもすっかり忘れてたよ」 なつかしむように、やわらかな声がした。 「ありがとね、ルシアン。……ほんとに、ありがとう」 「ごめんねセイロン、まかせっぱなしで。あ、もうほとんど片づいちゃってるじゃない」 ぱたぱたと厨房に走りこんできた娘は、ちらりとすまなそうな顔をしたあと、セイロンの重ねた皿を棚へと片づけはじめる。 その背中に、セイロンは声をかけた。 「店主殿。昔の誕生日とは、何のことかね?」 わずかにフェアの手が止まる。 「やだ、聞いてたの? うーん、たいした話じゃないんだけど」 肩越しにふりかえって、困ったようにフェアが笑った。 「むかし父さんが出て行ったとき、まだ小さかったものだから、わたし、自分の誕生日がいつなのかちゃんと覚えてなかったのよね。それで、リシェルとルシアンが、じゃあこの日にしようって決めて、祝ってくれてたのが今日なのよ」 「……なるほど、あのふたりらしいな。しかし、昔というのは?」 「四、五年前だったかなあ。ひょんなことから、テイラーさんがわたしのほんとうの誕生日を知ってるってことがわかってね。そういうわけで、今では昔の誕生日ってわけ」 思いをはせるようにほそめられた娘の目に、ふっと痛みの影が宿った。 「そのお祝いの日にはね…ポムニットさんがケーキを焼いてくれて、ふたりが持ってきたお花を家中に飾って、それで、一日、ずっといっしょにいてくれたんだよ。……ほんとうのお誕生日じゃなくても、わたしはすごく……うん、ほんとうに、うれしかった」 泣くのではないか。めったなことでは泣くことなどない娘だが、ふいにそんな気がして、セイロンはわずかに身をかがめた。 のぞきこんだその面に、けれどやはり涙はなく、伏せたひとみが間近でおどろいたように見開かれた。 「なによ、セイロン。こどもをあやしつけるみたいな顔して」 「いやいや、…そういえば店主殿。一体何をもらったのだ?」 「えっ? ああ、これだよ」 ぱちぱちとまばたきをして、フェアがエプロンの隠しを探った。ほら、と差しだされた手のひらに載っていたのは、小さな香水瓶。 「花の香りのコロン。ミントお姉ちゃんに教わって、ルシアンが自分で作ってくれたんだって。材料のお花も、お姉ちゃんの庭だけじゃ足りなかった分は、わざわざ遠くから取り寄せてくれたみたい」 すこし照れたような顔で、フェアは続けた。 「うれしいけど、でも、使う機会があるかなあ。料理に匂いがうつっちゃうといけないし」 思わず、セイロンは声を立てて笑っていた。 「一体どれほどつけるものだと思っておるのだ、店主殿は。どれ、貸してみたまえ」 瓶を受けとり、ふたを開ける。ふわりとやわらかな花の香がした。 かたむけた細い瓶の口に指を当て、わずかに指先につける。 向かい合うフェアの首筋に手をまわした。まず、うなじのあたりに軽く指を押し当てる。 「動くでないぞ」 びくりとした娘に声をかけ、もう一度香水を指に取った。 瓶を置いて、空いた方の手で耳にかかった銀の髪をかきあげる。あらわになった小さな耳の後ろに、指の腹をこすりつけるようにしてなじませた。 「とまあこのように、ほんの少し、香るか香らないかくらいでちょうどよいのだよ」 ぽんと肩をたたいて、セイロンは身を引いた。顔を赤らめてうつむいたフェアがぎこちなくつぶやいた。 「……あの、その、えっと、……ありがとう、セイロン」 「いやいや、礼には及ばぬ。店主殿とて、年ごろの娘御なのだ。娘らしく装う術のひとつくらい覚えたところでばちはあたるまいよ」 扇子を引き抜き、口もとに当てる。触れた指に恥じらう姿は愛らしいと思えたが、ただの戯れと流すには、いささか程度が過ぎたろうか。わずかな自戒とともに、ことさら何の他意も感じさせぬようかろやかに笑ってやれば、フェアがちいさく息をはいた。 「おや、どうした店主殿。ため息などついて」 「……なんでもないっ!」 ぶんぶんとフェアが首をふる。セイロンの鼻先へ、つけたばかりの香水がかすかに香る。 フェアの清潔な石けんの匂いに、ルシアンの選んだそれはよくなじんでいた。少しばかり複雑な気分にもなって、セイロンはあごに扇子の先を当てる。 「ふむ……このような祝いの日を知ったのも、巡り合わせというものだろう。なにか欲しいものはないのかね、店主殿。それが我に用立てできるものであれば、なお良いのだが」 そっと顔を上げたフェアが、まばたきをひとつ。わずかに首をかしげた。 「……それって、贈りものをしてくれるってこと?」 「ああ」 やや遠慮がちに、問いかけられる。 「なんでもいいの? 物じゃなくても」 「うむ。我に叶えられることであればな」 笑ってうなずいてやったのは、他人をほんとうに困らせるような願いを口にする娘ではないと知っていたからだ。けれど、己の甘えを許せぬ気性の彼女がそれでも口にした願いであれば、ほんとうに何でも聞いてやるつもりだった。 長いような短いような沈黙の後、ゆっくりとフェアは口を開いた。 「セイロンは、龍姫さまを見つけたら故郷に帰るんだよね」 「うむ」 鷹揚にうなずいてみせながら、思いがけない切り出しにセイロンはぎくりとする。 真面目な声音で、娘は言った。 「……じゃあ、セイロン。いつかあなたが至竜になったら、その年の今日、会いにきてほしいの」 その望みの意図をつかめず、セイロンは娘を見下ろした。いったい自分はどんな表情をしていたのか、彼女はちいさく笑って首をふる。 「わかってるよ。その日は、わたしが生きているうちには来ないかもしれない。だから、そのときに、まだわたしがここにいたらでいいの。ただ、顔を…竜の姿を、一目見せにきてくれれば。力のある至竜なら、自力で世界の狭間を超えられるんでしょう?」 返答に詰まっていると、フェアはひとみにからかうような笑みをひらめかせた。 「なによぉ、今でもそんなに、至竜になれるかどうか自信がないわけ? 前にあなた、言ってたじゃない。思いこまなきゃ、変えられるものさえ変えられないって。そんな弱気じゃ、至れるものも至れなくなっちゃうわよ」 セイロンは、のどの奥から笑い声をしぼり出した。 「……そうだな。店主殿の言うとおりだ」 「よーし、それじゃセイロン。約束よ?」 伸びてきた指が、そっとセイロンの指をからめとる。かるく上下に振って、フェアは満足そうにうなずいた。そのままするりとはなれたそれに、わずかなもの悲しさを覚えて、セイロンは娘の指先を見つめた。 かすかに笑うような気配があって、やさしい声がする。 「あなたが至竜になったらきっと、とてもきれいな姿なんだろうな」 セイロンは、ゆっくりと視線を上げた。 「さて……どうであろうな」 目が合うと、ひとみを細めてフェアは笑った。 「がんばってよね、セイロン。わたし、楽しみに待ってるから」 宵闇と、昇る月の一筋が差しこむ居室で、セイロンはゆっくりと寝台に腰を下ろした。 流れる銀の髪にも似て、虚空を横切る月のひかりを、気づけば目先で追いかけている。 「フェア、……我はな」 この場にいない娘へのことばを、セイロンは半ばで呑みこんだ。 かつて、わずかなりともこの目に映っていたはずの道筋が、どのようなものであったかわからなくなってしまったのは、果たしていつのことだったか。 己が気づかなかっただけで、それはかつての戦いの日々のうち、娘を抱きしめたときであったかもしれぬし、この宿に舞い戻ってきたときであったのかもしれず、あるいはほんのつい最近のことだったのかもしれなかった。 彼女の笑顔を、涙を、やさしさを、孤独を。 一つ受け入れていくそのたびに、己をつつむ堅牢な殻が、柔くゆがんでいくのがわかる。 ただやさしいばかりの日々をむさぼりつづける、己はもはや竜には至れはすまい。世界のきしむ音を、まるで他人事のように遠くに聞きながら、セイロンは静かにまぶたを落とした。 そうして、灯りを落とした厨房の、熾火だけが暗くかがやくかまどのそばで。 鼻の奥がつんと痛んで、冷たい石床にフェアはしゃがみこんだ。ぎゅうとひざをかかえて、できるだけ小さくちぢこまる。 「いつのまに、わたし、こんなに弱くなっちゃったのかな……」 あのひとの低い声、大きな手のひらに、やさしいまなざし。 そのすべてがわたしの日常から失われてしまう日を思うたびに、泣きわめきたくなるほど胸がきしむのに。 そんな気持ちをぶつけたなら、あなたは困って、わたしのそばから離れていってしまうだろうから。すくんで口をつぐみ、それでも、約束がほしいとだだをこねる。 「……ほんとうは、叶う日なんてこなくていい」 そうしたら、わたしはずっとずっとこの場所で、あなたを待ち続けることができるから。 こぼれそうな涙を閉じこめようと、フェアはきつくまぶたを閉じた。 fin. |