木々のざわめきに重なって、キィン、と澄んだ金属音がひびく。 里山の奥へとのぼってゆく石段。その半ばで立ち止まり、アティは行く手をふりあおいだ。 石段を守るかのように両脇からそびえ、アーチ状に組まれた柱の列は、そのすべてがあざやかな朱に塗られている。その奥に見えるのは、シルターンの神をまつった鎮守のほこらだ。 ひょう、と一陣の風が吹きおろす。かたかたと、それを追いかけて竹が鳴る。 四方におどる髪を押さえて、アティは目をほそめた。 「やっぱり、ここで当たりでしたね」 小脇にはさんだ教本の束と稽古用の木剣をかかえなおし、アティは石段を上り始めた。 「…破ッ!」 上りきった瞬間、裂帛(れっぱく)の気合いが耳を打った。 視界を、結い上げた白銀の髪が流れる。ひらめく刃が残像となって目に焼きついた。 鬼人の青年のかまえた白刃、その切っ先が、対する相手へ鋭くおそいかかる。 刹那、迎えるように身がまえていた男が動いた。 腕を抜いた外套の袖がひるがえる。無造作に伸ばされた金髪が、背の黒地に、はっとするような鮮やかさで散った。 一息に踏み込み、相手のふところへ飛びこんだ男のこぶしが、刀をにぎる腕を内側から打ちすえる。刃の軌道がずれ、空いた胴体へともう一方のこぶしをねじ込む。瞬間、その殴打のいきおいに逆らわず、鬼人はおおきく後ろへ飛びすさった。 そこで二人の動きが止まる。双方が構えを解き、アティへとふりかえった。 「よう、先生じゃねえか」 先ほどまでの闘気をきれいに収め、ほがらかに、男がアティへと笑いかけた。 「あ……」 知らず息を詰めていたアティは二度、三度のまばたきをした。はっとして頭を下げる。 「ごめんなさい、カイルさん、キュウマさん。お二人の鍛錬の邪魔をしちゃいましたね」 鬼人の青年がその表情を、かすかな笑みに動かした。 「いえ、どうぞお気になさらず。…それよりどうされました、アティ殿」 「キュウマさんを探してたんです。御殿にいらっしゃらなかったので、こちらかなと」 「なんと、自分に御用でしたか。それはまた、どのような?」 背筋をただして問われ、あわててアティは手を振った。 「そんな、かしこまらないでください。あのですね、ゲンジさんから伝言を預かってきたんです。時間のある折に庵に立ち寄っていただけないかって」 切れ長の赤いひとみが、わずかに大きくなった。 「そのことを伝えるためだけに、わざわざ自分を探してくださったのですか?」 「え? あ、はい…」 うなずいてから思い至って、アティは言葉を継いだ。 「そうですよね、ごめんなさい、急ぎの用向きでもないのにお邪魔してしまって」 「いえ、そういうことでは。ただ、お忙しい中ご足労いただかずとも、屋敷の誰がしかにでもお言づてくだされば……」 言の半ばで、青年はかるくかぶりをふった。 「……いや、まず、お礼を申し上げるべきでしたね。かたじけない、アティ殿」 「お礼だなんて、授業から帰るついででしたし、キュウマさんの立ち寄りそうなところを散歩がてらまわってきただけですから」 「なんにせよ、お心遣い感謝します。せっかくお伝えいただいたのですし、これから伺うことにしますよ」 「そうかい。ま、この続きはまたおたがい、手の空いた時にでもな」 「では…自分はこれにて」 鷹揚に言ったカイルにうなずいて、キュウマはアティへ一礼した。きびすを返す。 「いってらっしゃい、キュウマさん」 駆け出せば、石段の下、あっというまに小さくなる鬼忍の背に、アティは大きく手を振った。 「なあ、先生」 後ろから呼ばれて、アティはふりかえった。目を合わせれば、にっとカイルが笑う。 「今からなんか、予定はあるかい?」 「そうですね…いいえ、特には」 「そいつはよかった。せっかく場所柄もいいことだしよ。キュウマの代わりと言っちゃなんだが、一手御指南ねがえないか? このままじゃ、どうにも動き足りないんでな」 「えっ?」 笑顔の男を前に、しばしアティは沈黙した。 「………もしかして、私に、カイルさんの相手をしろって言ってます?」 「おう」 あっさりと肯定され、アティは半ば呆然とした。ふざけた様子もなく見下ろしてくるまなざしに、気を取り直す。 「そ、それは…構いませんけど。そんな、私なんかが相手じゃ、まともな打ち合いにもならないと思いますよ?」 「そんなこたねえだろ。ナップの太刀筋を見る限り、あんたもそれなりの腕前だと思うんだが」 「もちろん、軍学校で標準的な武器の扱いは、ひととおり学びましたけど。正直、私の剣術は、実戦で使えるレベルじゃないです。特に、軍に配属されて以後に受けた訓練は召喚師としてのものがほとんどでしたし」 「ふむ」 しばし、カイルは考えるそぶりを見せた。 「帝国軍の剣技ってやつを、一度じっくり見せてもらいたいんだよな。俺だって、先生が武闘派だと思ってるわけじゃねえさ。もちろん、加減はさせてもらう。…それでも駄目かよ?」 真顔で問われ、アティはふっと息をついた。小さく笑みを返す。 「わかりました。…及ばずながら、お相手させていただきます」 カイルは目を閉じた。ほそく深い息を繰り返しながら、ゆっくりと肩を、ひじをまわす。 余人からすればせいぜい体をほぐしているとしか見えないだろう一連の流れは、カイルにとっては別の意味を併せ持つ。血の巡りとともに、体内の気が活性化していく感覚。この気の流れを練り上げ増幅させ、己の意志でもって操る。それこそが、カイルの使うストラの本質だった。 最後に大きく息を吐いて、対峙する相手へと目を合わせた。 「なあ、先生」 娘は、稽古用の木剣を手に立っていた。固さの無いその立ち姿は、彼女の気がとどこおりなく巡っている証左だ。 「俺はかまわねえが…そんな得物でいいのかよ?」 「刃がないほうが、気兼ねなく打ち込めますから」 心配無用と言い切られ、カイルはうなずいた。 「そうかい、それじゃこっちも遠慮なく行かせてもらうぜ!」 身構えたカイルに応じて、アティがなめらかに帝国式の敬礼をひとつ。そのからだの前で、細身の木剣をかまえた。 ほう、とカイルは眉を上げた。かるく上がった切っ先に、基本通りに半身を下げて、急所をかばう立ち姿。 まっすぐにこちらを見据える表情には気負いがなく、なかなかさまになっている。 知らず、口の端が上がった。…楽しませてもらえそうじゃねえか。 気を吐いて、カイルは一気に己の間合いまで突っ込んだ。 様子見に打ちこんだこぶしを、アティはまともに受けようとせず、牽制の刃をふるってななめに飛びすさった。そのなぎ払う刀身を、あえて武具をつけたこぶしで受けて、間髪いれずに追いすがる。そのまま数合打ち合って、カイルはますます笑みを深くした。 正直、一撃は軽い。急所にくらわなければ決め手にはなるまいが、自分の打ちこみをかわしつつ、その機を狙う剣さばきは、けして並の腕前ではなかった。 こぶしをにぎりなおしたカイルに、アティが半身を下げた。またもそのまま引くか、と思わせた次の瞬間、彼女のひとみがきらめいた。よじれた身体を戻す反動で、地を踏みこみ、飛びだしてくる。 「…はっ!」 のどもとを狙っての鋭い一閃。カイルは身をひねった。前のめりになったアティの背へと、とっさに強く打ち下ろす。 「……ッ!!」 ほそい体は、簡単にバランスを崩して前方へと転がった。 カン、と高い音を立て、その手の木剣が石畳を打つ。 「悪い!」 あわててカイルはこぶしを納め、駆け寄った。受け身を取ってうずくまるアティを助け起こす。 「…だいじょうぶか?」 背中を支えたカイルの腕のなかで、アティの体が数度痙攣した。食いしばった口許が、カイルを見てゆるゆると笑みのかたちを作る。 「今のは効きました…やっぱり、私じゃ、相手になりませんでしたね」 「いや、俺こそ、つい力が入っちまった。…悪かったな」 頭を下げると、アティは笑って首を振った。 「平気です、ちょっと息が詰まっただけですから」 言いながら、剣を支えにゆっくりと身を起こし、立ち上がる。 「………っ」 とたん眉根を寄せたアティに、カイルは顔をしかめた。前によろめく身体を支えに入る。 「す…すみません」 よりかからせた自分の胸に手をつき、慌てて一人で立とうとするアティに、ため息をひとつ。 「おい、無理すんなよ」 カイルは、背中を支えていた手をしっかり腰に回しなおした。一息に、アティの体を抱き上げる。 「え、ちょ、ちょっと待ってください、カイルさん」 腕の中から上がったうろたえた声に、カイルは手を伸ばし、置いてあった彼女の教本を拾いあげた。 「ああ、そうか、これも要るよな」 「いえ、そうじゃなくてですね」 もがく体を、よいせと抱きなおして、歩き出す。 「暴れるなって。落としゃしねえがよ、運んでる意味がないだろうが」 「そ、そんな、…自分で歩けますから」 「バカ言え、こんな足もとおぼつかない奴を歩かせられるか。船に戻るまで、大人しくしててくれ」 「う…っく、で、でもですね」 しまいには泣き出しそうな声に、カイルはため息をついた。 「……なあ先生。俺にこうされてるのが、そんなに嫌なわけか?」 「そんな、滅相もない! ただ、その……」 恥ずかしいじゃないですか、と消え入りそうな声が返る。カイルはふっと息を吐いた。 「しゃあねえなあ。…ほれ」 下りかけていた石段に、ぽんとその体を降ろす。 「ありがとうございます……」 心底、ほっとした様子でアティが頭を下げる。カイルはその前にしゃがんで、背中を向けた。 「……あの?」 「おぶってやるって言ってんだよ。…それも嫌だってんなら、無理やりにでも抱いてくぞ」 わずかに声を低くすると、あわてて首を振る気配があった。 「そ、それはちょっと」 「で? どうする、先生?」 かなり長い間があった後。 「……ううう、わかりました。お願いします……」 観念したような声とともに、両の肩に、遠慮がちな重みがかかった。 風の気持ちよい午後だった。 背に負った相手の意を汲んで、川沿いの、人気のない道を歩いていく。 川原から吹きあげる風に、ほどよく涼を含んだ空気が外套に入りこみ、裾をはためかせた。 「あ。ちょっと、ごめんなさい」 その重い音にまぎれて、ふいにアティが声を上げた。 「ん?」 そっと髪をかきわけられる感触。何とも言えないこそばゆさに、思わずカイルは首をすくめた。続けて、娘の指が慎重に頭皮をまさぐる。 「やっぱり…カイルさんも、ケガしてるじゃないですか」 ほら、と後ろから突きだされた指先には、たしかに赤いものが付いていた。 「ああ、キュウマの太刀を避けて転がった時にでも、すっちまったんじゃねえか。大した傷でもないだろ?」 気にせず歩を進めるカイルの髪を、ぎゅうとアティが引っ張った。 「ダメですよ、放っておいちゃ」 「お、おいおい」 「道理で、ほこりっぽくなってると思いました。せめて、傷口の泥は落としておかないと」 化膿してしまっては大変ですから。きっぱりと言い切って、その指が横を流れる川を指した。 「ほら、ちょうどいいじゃないですか。少し、休んでいきましょう?」 ひんやりと水を含んだ布が、カイルの頭をぬらした。 気遣いを感じさせる動きで、そっと土埃をぬぐっていく。 膝立ちになって、真剣な顔でのぞきこんでくるアティにカイルは苦笑した。 「まったく、あんたは他人のこととなると、とたんに大げさになるんだな」 なかば無理矢理に座らされた河原の石は、午後の陽の熱をためこんでいてあたたかかった。白いハンカチをにぎったアティが、かたくなに首を振る。 「こう見えても、医師をこころざしたこともあったんです。打ち身と切り傷は別なんですから、油断しちゃいけません。……はい、とりあえず、こんなところで」 「なんだったら、俺も先生の背中をみてやろうか?」 アティは、一瞬きょとんとした顔をしてから、あわてて首を振った。 「い、いえ、結構です!」 カイルは吹き出した。 「冗談だよ」 午後の日射しがじわりと外套越しにしみこんでくる。ここちよさに、あぐらをかいたまま、カイルは身体の力を抜いた。目を細め、ゆっくりと息を吐き出す。 「あの…」 申し訳なさそうな声に、カイルは目を開けた。向かいの石に腰を下ろした娘が、うかがうようにこちらを見ている。 「ん? なんだよ、先生」 「やっぱり、疲れましたよね? 私を背負って、ずっと歩いてきたんですもの。いいかげん自分で歩けますから…」 カイルは思わず苦笑した。 「おいおい、見くびってもらっちゃ困るぜ。あんたみたいな軽い荷物でへばるほど、やわな鍛えかたはしてねえよ」 「あ……そう、ですよね」 アティが、ちいさくため息をついた。 「カイルさんは、たえず鍛練を重ねて…ほんとうに、どんどん強くなっていますから…」 そのまま落ちた沈黙を埋めるように、せせらぎの涼しげな音が場を満たす。川面に砕けた陽光が、わずかにうつむいた彼女の髪の上で踊る。 「先生?」 うながすように問うと、水音にまぎれて、ぽつりと呟きが落ちた。 「……カイルさんは、自分の持つ力が怖いと思ったことって、ありますか?」 「先生は、あるのか?」 ためらうような沈黙の後、アティは口を開いた。 「剣を得てから、私は、異世界の高位の存在と、たくさんの誓約をしたんです。そうやって、力を得ました。…簡単に、人を傷つけてしまえる、大きな力を」 うつむいているその表情はわからない。 「みんなを守るためには、戦わなくちゃいけないって、わかってるのに。それでも、強すぎる力を持つことが、それを、誰かにふるうことが…怖くて」 泣くような笑うような声が、つぶやいた。 「こんなんじゃ、ダメですよねえ、私」 そうしてまた、口をつぐむ。 川面から、風が一陣吹きあげていった。ふわりと浮いた長い髪が、また流れ落ちて、彼女のほおをおおっていく。 「……なあ、先生」 ふうっと息をついて、カイルは口を開いた。 「力があれば、それだけ、他人を傷つけずにすむんじゃねえかと、…俺は思うがな」 「…えっ?」 「自分と互角、もしくは格上の相手とやり合うのに、手加減なんて器用な真似はできねえよ。どうかすればその息の根が止まるまで、相手をたたきのめしちまう。…恥ずかしい話、さっき先生とやった時も、一瞬マジになっちまったからなあ」 カイルは苦笑した。 「一番大切なのは、力に呑まれないだけの強い精神さ。受け止めるだけの器がなきゃあ、いくら力があっても、それが自分の身を滅ぼすだけだ」 「強い、精神」 繰りかえしたアティに、うなずく。 「実のところよ、ほとんど先代からの受け売りなんだがな。力に溺れず、常にその器たる己のこころを鍛え、高めよ、ってな。戦う相手を、必要以上に痛めつけずに済むように」 アティはくちびるを噛みしめ、うつむいている。 「何のために、自分が強くなりたいと思ったのか。それを忘れないで、己が正しいと信じるままにやりゃあ、力にふりまわされることなんざねえと、俺は思うぜ」 そしてその意味では。 彼女には、己が身に宿る力を恐れる必要など、ありはしないだろうにとカイルは思う。 「さて、そろそろ行くか?」 陽の傾くにつれ、吹きよせる風も涼を増す。カイルは、勢いをつけて立ち上がった。 ずっと黙りこんでいた彼女へ、手を差し出す。 そっとカイルの手を取って、アティは立ち上がった。そのまま手を握りしめて、うつむいている。 「先生?」 ためいきまじりに苦笑をひとつ。 その手を引いて、カイルはアティを背に負いなおした。 後ろ頭に、ひたいをかるく押しつけられる。さらさらと流れ落ちた紅い髪が、カイルのほおをかすめた。 よいせ、とカイルは背負った娘の身体をゆすりあげた。 「まあ、なあ。それでも、たしかに人間、向き不向きがあるもんだしな」 カイルは小さく笑った。ゆっくり、ゆっくりと歩いていく。 「先生は、故郷に医術を持ち帰りたくて…人を救う術として、召喚術を学ぼうとしたんだろう?」 返事の代わりに、肩をつかんだアティの指に、かすかに力がこもった。 「つまりは、そういうこった」 彼女が、その力を、彼女が本来願っていたようなかたちで使うことのできる、そんな日々がはやく来ればいい。 そしてそのためにこそ、自分は力を欲し、こぶしをふるうのだと。 思った続きはのみこんで、かわりにカイルは声を上げた。 「そろそろ着くぜ、先生」 ちょうど、森の向こうに、海賊船の帆柱の先が見えてきていた。 「ええ、……」 泣きそうで、けれどひどくあたたかな声が、カイルの耳をかすめて消える。 「……ありがとうございます、カイルさん」 斜陽が、帰路をやわらかな金色に染め上げていた。 fin. |