■  ちがう明日  ■




「……痛っ!」
「うわっ、何やってんだよ、先生!?」
 突然の叫びに、カイルは甲板へ上がりかけていた足を引きとめた。
「あ…あれれ?」
 娘の困惑した声が、甲高い少年のそれにかぶさる。
 カイルは知らず苦笑した。今度はなんの騒ぎだ、いったい。
 彼女とその教え子を客人として迎えて以来、この船はずいぶんとにぎやかしくなった。
「まったく、かしましいのはソノラだけでじゅうぶん間に合ってたんだがなあ」
 ひとりごちつつも、足はすでに騒ぎのもと、船長室へと向いていた。つまるところ、自分もこの現状を好もしく思ってしまっているのだから、まあ致しかたがないのだろう。
「おい、さっきから、なにを騒いでるんだよ?」
 声とともに押し開けた扉の向こうでは、顔をこわばらせた少年と、苦笑を浮かべた娘とがテーブルを挟んで向かいあっていた。
「あ…カイルさん」
 顔を上げたアティが、ぺこりと頭を下げた。
「すみません、ちょっと場所をお借りしてます」
「や、それはいいんだけどよ」
 普段は地図を載せた広いテーブルには、色とりどりの紙が広げられている。
 カイルはそれらをざっと見やって首をひねった。
「なんなんだ、こりゃ?」
「あー、実はですねえ」
「…スバルたちに、新しい教科書を作ってやろうと思ってさ」
「紙を切りそろえてたんですけど」
「先生が…」
 そこで二人は顔を見合わせた。
「あはは、ちょっと、手がすべりまして」
 アティが手にした薄青の厚紙に、ぽつんと紅い染みがある。
「指を切っちゃいました」
「おいおい、大丈夫かよ?」
 問うたカイルに、アティはこっくりうなずいた。
「ええ、もう血も止まってますし、傷自体はほんとに大したことなかったんですよ。ただ」
 困ったように小首をかしげる。
「どうにもさっきから、うまくまっすぐ切れなくって…このナイフ」
 カイルはアティの手元をのぞきこんだ。
「…どれ?」
 目をすがめて、にぎられた得物をたしかめる。カイルはため息をついた。
「あー…あのなあ、先生」
「…はい?」
 よく見れば、それは普段アティが杖とともに下げている短剣だった。
 もともと、護身用というのもおこがましいような細身の刃だ。そういえば手入れしているのを見たこともないが、召喚術を得手とする彼女である。実際には果物の皮をむくだとか、それこそペーパーナイフの代わりくらいにしか使っていなかったのだろう。
「このナイフな。最近なんか、むだに固いもん切っただろ。刃こぼれしてるぜ」
 見れば、アティはなにか思い当たるような顔をした。すこしばつの悪そうな調子でつぶやく。
「あ。ええっと、そういえば、お芋畑で石を掘りだすのに使ったようなー…」
「おいおい、先生よ」
 さすがに呆れて、カイルは苦笑した。
「そりゃまた、無茶な使いかたをしたもんだな。…まああんたらしいっちゃ、えらくあんたらしい話だがよ」
「うう…お恥ずかしいです」
 アティはちいさく身をちぢこまらせるようにした。その耳たぶがうっすらと赤い。
「ま、いいさ」
 言いながら、カイルはひょいと短剣の刃を指で挟んだ。
「貸せよ、研ぎ直してやるから」
 ぱちりと、アティがまばたきをした。
「え? いいんですか?」
 びっくりした顔で言うのに、笑ってやる。
「これ以上あんたにいらん切り傷こさえさせるわけにもいかねえしよ。刃物をまかせるんなら、スカーレルのやつが一番だとは思うんだが…」
 そういやどこ行ったんだアイツ、と顔をしかめれば、アティがああと声を上げた。
「今日は、ミスミさまのところに用事があるって言ってましたよ」
 そこでほんわりと目もとがなごむ。くちびるをほころばせ、アティは続けた。
「みなさん、ずいぶんここに馴染んできたみたいで。いいことですよね」
 カイルは思わずまじまじと、アティの顔をながめた。
 彼女の屈託のない心底からの笑みを、ひさしぶりに見た気がした。
「ああ、…そうだな」
 釣られるように破顔する。
 最近は、心配事も多かったのだろう。気づけば、目につくのは気遣うような微笑みばかりであったから。
「あの…カイルさん?」
 私の顔に、なにかついてますか?
 きょとんと自分を見つめかえしてくるアティに、少しばかり注視が過ぎたことに気づいて、カイルはがりがりと頭をかいた。苦笑をひとつ。
「いや、なんでもねえ。…それじゃあ、こいつはあずかるぜ。半時くらいで返すからよ」
 おねがいしますと頭を下げたアティの横で、ふいに少年が声を上げた。
「あ、オレ、研ぐところ見てみたいかも」
「うん?」
 アティが首をかしげた。ええと、と少し口ごもるようにしてからナップは続けた。
「その…オレの剣もさ、力任せにふりまわすから、すぐ刃がつぶれちゃうんだよな。少しは手入れを覚えたほうがいいかと思って」
「ああ、なるほど」
 アティは納得したようにうなずいた。
「それじゃ、私は切り分けたところまで本にしてますので…カイルさん、ナップくんをお願いしてもいいですか?」
「ああ、かまわねえぜ」
 小首をかしげたアティに、気軽にカイルはうなずいた。


 手持ちの砥石に水をかける。
 慎重に短剣の刃を当てて角度を確かめていたカイルに、後ろから少年の声がかかった。
「なあ、…ちょっと、話があるんだけど」
「ん?」
 目を上げずに答えると、沈んだ声が続けた。
「先生のことなんだ」
 それきり黙りこんだ相手に、カイルは顔を上げた。
 迷うような、奇妙に緊張した表情で、ナップがこちらを見つめていた。
「あいつが、どうかしたのか?」
「うん、あのさ…さっき、指を切ったって言ってただろ? 先生」
 ああ、とカイルはうなずいた。
「あいつもしっかりしてるみたいで、意外に抜けたとこがあるもんだな。まあ、大事にならなくてよかったがよ」
 笑って言えば、ナップの顔がわずかにゆがんだ。
「そうじゃないんだ。…おかしいんだよ」
 小さくくちびるをかんで、ナップはわずかに言いよどんだ。
「さっき先生は、軽く切っただけだって言ってたけど…けっこう、ザックリいってたはずなんだ」
「…そうなのか?」
 顔をしかめたカイルに、ナップはうなずいた。
「ナイフが、思いっきり指にすべって。それであわてて先生が、傷口をくわえて、で、外してみたら…」
 たしかに、傷はもうほとんどふさがっちゃってて。
 ナップの声が、泣きそうにかすれた。
「先生、おどろいた顔したけど…オレが見てるのに気がついて笑ってさ。…大したことなかったみたいです、って」
「そいつは、…」
 どう続けるべきかわからず、カイルは言葉をのみこんだ。
「いくらなんでも変だよ、おかしすぎるだろ!?」
 一息に言って、ナップが、固く目をつぶった。
「そりゃあ、先生はたしかに強いし、四つの世界の召喚術を使えたりするし、これまでだって『普通のひと』じゃあなかったけど」
「おい、ナップ」
 カイルは思わず口を挟んだ。
「おまえ、あいつのことをそんな…」
 語気を荒げかけたカイルをさえぎって、ナップが声を大きくした。
「あのひとが、人間ばなれしてるとか、そんなことじゃなくて!」
 言って、あわてたように口を押さえる。しばらくの沈黙の後、ナップは泣きそうな顔でうつむいた。
「オレ、…怖いんだ」
 小さなこぶしをにぎりしめる。
「だって、ぜったいどこか無理してるのに…先生はそれが無理だなんて、これっぽっちも気づいてやしないんだ。それで気がつかないままどんどんひとりで走っていって」
 ふるえる声で、ナップはささやく。
「いつかオレの手のとどかないような遠くまで、いっちまうんじゃないかって」



◆       ◆       ◆



「危ない、ナップくん!」
 剣戟の飛び交う荒れ地に、鋭い声がひびいた。とっさにふり向いたカイルの視線の先で、紅い髪がひるがえって、ざわりとうちから輝く白銀へと変わる。
 常以上に俊敏な身のこなしで、娘の身体が少年のもと、手傷によろめいた彼めがけて振りおろされた大剣の下へと飛びこむ。
 ぎぃん、と耳ざわりな音がひびいた。
 娘のにぎる優美な碧い剣が、帝国兵の大剣を受けとめていた。華奢な腕のどこにそんな膂力があるというのか、わずかな競り合いの後、兵士の身体がその剣ごと後ろへ押しかえされる。
 たたらを踏んだ隙を娘は逃さなかった。
「我が声、我が望みにより来たれ、霊界の小魔よ」
 ながれるように動いたくちびるが、彼の者の真名を呼ぶ。
「魔精タケシー!」
 空間が、この世ならざる音できしんだ。巻きあがる白銀の髪、その頭上で開く異界への扉、赤黒いひかりのなか現れ出た雷精の輪郭は、まるで亡霊のようにゆらぎ、よじれている。
「誓約のもと、アティが命じる…」
 歌うように呪をつむいだ娘の、そのほそい指が兵士をまっすぐに指した。うすい碧のひとみが、尋常ならざる魔力を宿してきらめく。
「雷をもって我が敵を打ちすえよ」
 紫の雷光が、嵐のように荒れくるい、一つ所へと殺到する。召喚獣の苦痛のさけびが、兵士の絶叫におおいかぶさった。声なき声を上げる裂けた口が、痛みをこらえるかのようにゆがむ。
 パン! とはじける音がして、紫電と召喚獣の姿が消え失せた。倒れ伏した兵士へと、娘がゆるりと一歩足を踏みだす。
 カイルははっとして走りだした。行く手をさえぎりかけた槍兵を、飛びきたスカーレルのナイフが打ちたおす。一瞬仲間に視線を投げて、カイルはぐっと速度を載せる。
 ながい白銀の髪がふわりとゆれて、のぞいた娘の横顔は、うっすらと笑みを載せていた。
 まるで重さを感じさせない動きで、腕になかば溶けこむようにまとわりつく剣を振りあげる。
「だめだ、先生!」
「よせアティ!!」
 我にかえったナップの声と、カイルの叫びが重なった。

 鋭く風を切る音。
 あ、と誰のものともしれぬささやきが落ちる。振りおろされた娘の剣先は、兵士の頭上わずか数インチのところで止まっていた。
 娘の腕が、かたかたとふるえている。ゆっくりと柄に添えた左手がはなれ、剣と一体化した右腕を、押さえるようににぎりしめた。
「う、…ッ、あ、ああ」
 蝋のように白い肌が、見る見るうちに蒼白となる。苦しげにのけぞった娘のあごから、ぱたりと汗のつぶが落ちた。
「ダメ……っ」
 かすかに漏れた声は、常の彼女のものだった。一歩、その足が兵士から後ずさるようによろめく。
 熱い砂を蹴って駆けよったカイルは、わずかな安堵とともにその背を支えるための腕を伸ばした。その、刹那。
「………ッ!」
 苦しんでいたとは思えぬほどの素早さだった。アティは左手で腰にはいた短剣を抜きはなち、迷いなく剣の這い上がる二の腕へと突きたてた。
「ああああああっ!!」
 背筋が泡だつような絶叫。戦場から、剣戟の音すら一瞬消え失せる。
 今度こそ、アティはそのままカイルの腕のなかへと崩れ落ちた。



 水のしたたる音が、どこからか聞こえてくる。
 ふっと、気配を感じてカイルはうたた寝から覚めた。見やったランプの油は残り少ない。
 もう、明け方が近いのか。ぼんやりする頭をふって、椅子に沈めていた背を伸ばす。
「………カイル、さん?」
 不意に、かすれた声が耳を打った。
 はっきりと目が覚める。
 目の前の寝台に横たわる、アティのひとみがうっすら開いていた。いつもの夜空の色が、ランプの灯りを受けて、かすかに赤みを帯びている。
「よお、…起きたのか、先生」
 カイルはわずかに口ごもった。快活をよそおって問う。
「気分はどうだ?」
 アティは、ごくごくゆっくりとまぶたをしばたかせた。
「私……」
 ぼうっとしていたまなざしが、徐々に焦点を結ぶ。
「……ナップくん!」
 跳ね起きようとして、アティがもがいた。ほんの少しも背を持ちあげられず、髪を乱すだけに終わる。
「ああ、いいから寝てろって。ナップならぴんぴんしてる。大丈夫だ」
 あわてて言ったカイルの言葉に、あからさまにアティの身体から力が抜けた。
「そう、ですか…」
「日が変わるくらいまでは、あんたのそばについてたんだがな。…まあ多少傷も負ってたし、これで倒れられちゃあ、あんたにも申しわけがたたねえって叱って休ませた」
 しばらく迷ってから、そのほおに降りかかっている髪を、伸ばした指先で払いのけてやる。
「…よかった」
 アティは安堵したように、ゆるゆるとほほえんだ。
「ありがとうございます、カイルさん」
 ただ、すなおに感謝している声音に、不意に胸がしめあげられた。カイルは顔を背け、ごまかすように声を上げた。
「のど、乾いてんじゃねえか? 水くらいしかないけどよ」
 言いながら、脇においた水差しを取る。氷水を流しこんだグラスを置いてから、ああ、と気づいてカイルは娘の上体を慎重に引き起こした。
 連れ帰るのに背負った時も思ったが、軽い体だ。
 アティがグラスを受けとろうと手を伸ばした。寝間着がするりとひじのあたりまですべりおちる。消えそうにゆらいだ灯りを助けに、カイルはちらりと目を走らせた。
 なめらかな肌に、突き刺したはずの傷は、もう痕跡すらなかった。
 それに気づいているのかいないのか、アティはグラスを手の中に包みこむ。我に返ったカイルは、その上から、取り落とさぬようにと手をそえた。
「……っと、大丈夫か」
 アティが謝意をこめて笑んだ。一口、二口。白いのどをそらして、無心に水を飲み干し、大きく息をつく。
 空になったグラスを抜きとろうとしたカイルの手を、ふっとアティの指がにぎった。
「手。…あったかいですね」
 安心したように、笑う。
「カイルさんにも、ケガがなくてよかった」
 今度こそ、もうこらえきれなかった。
 力任せに引きよせる。どうしたいのか己でもつかみきれないまま、その体を抱きすくめた。
 なんだって、こいつばかりが、こんな。
「……カ、カイルさん?」
 うろたえた声が腕のなかからあがって、もがくような感触があった。
 あたたかく骨やわらかな手ごたえに、まるで弱った野の小鳥をにぎりしめているようだ、と思う。
 手をゆるめれば飛んでいってしまうのに、このまま締めあげれば動かなくなってしまうのだ。考えればいっそう息が苦しく、そのきゃしゃな肩口に頭をうずめる。
 ささやかな吐息が、カイルの耳もとに落ちた。あきらめたように、娘の身体から力が抜ける。
 どれだけそのまま、からだを重ねていたか。
 所在なさげにアティが身じろいだ。そういえばと、ことばをさがすふうにつぶやく。
「せっかく研いでもらったのに、また、刃、悪くしちゃいましたね…」
 そんなことどうだっていい、と喉もとまで上がってきた怒声を必死に飲みこんだ。
「……カイルさん?」
 かるく袖を引かれる。カイルは、こわばる指をはがすようにして、腕の力をゆるめた。
 おだやかな表情で、アティはこちらを見上げていた。
「そんな、苦しそうな顔、しないでください…」
 困ったように、その目が笑む。
「私、後悔してませんから」
 カイルは口を開いたが、声が出なかった。
「碧の賢帝を受け入れたことも。いま共にあることも。ちゃんと、自分で望んで、決めたことなんです。みんなを守るために、私には、あの剣が必要なんだって。だから」
 カイルは言葉をしぼりだした。
「なあ、…先生よ」
 なんと言えば、ただしく伝わるのだろう。
「あんた一人で、ぜんぶ背負っちまわないでくれ。…たのむから」
 もどかしく言葉を探す。
「俺は、あんたに守られたいわけじゃない。他の奴らだって、あんたに身を削ってまで守ってほしいなんて思ってないはずだ」
 すきとおった大きなひとみが見つめ返してくる。
 いっそ泣きたいような気持ちにかられて、カイルは歯を食いしばった。せいいっぱいの笑みを作る。
 彼女のように、笑えているだろうか。
「このまま、ゆっくり休んでてくれや。あんたはなんにも、気にしなくっていいからよ」
 ぽんぽん、と頭をなでる。
「…はい」
 アティはかすかに笑んで、子どものような所作でこっくりうなずいた。


 よほど体力を消耗していたのだろう。
 すとんと、気を失うように眠りについたきり、娘はぴくりとも動かない。
 青白い顔を見つめて、カイルはかたく手を組み合わせた。込めた力に、みしり、と骨がきしむ。
「どうして、あんたは、そんなふうに笑うんだよ…」
 弱音を吐いてくれればいい。恐れ、泣き叫んでくれたなら、そのほうがどんなによかったか。
 投げだされた白い腕がふいに恐ろしくなって、カイルは眠る彼女の手を取った。
 じっと見つめるも、娘の表情は安らかを通りこして、ただ静かで。
「……ちくしょう」
 這い上がる不安は、宵と明けとがまざりあう、自らの足もとさえ不確かな空気のせいだ。
 もう、じきに夜が明ける。変わらぬ明日が訪れる。
 自らにそう言いきかせ、つなぐ手にカイルは力を込めた。そして。
 同じ日が来ることなどないのだと、そんな単純な事実さえ、思い出すことはなかった。






fin.


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