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08. 春眠、暁を覚えず



 大繁盛だった夜の部の片づけが終わって、いつもよりもさらに遅い夕食になってしまった。
「セイローン、晩ご飯でき………」
 エプロンで手をふきふき、居候の龍人の部屋をのぞいたところで、フェアは呼びかける声をひっこめた。
 黒と赤の衣すらそのままで、寝台にセイロンが横たわっている。
 もしや具合でも悪いのかと、慌ててかたわらに駆け寄って、フェアはほっと息を吐いた。
 ゆるく目を閉じている彼から聞こえた呼気はおだやかで、すこやかな寝息そのものだ。
 今日は、遠方まで大切な使いを頼んでいたから、さすがの彼も疲れているのだろう。
 ただ重いばかりの荷物よりも、繊細な取り扱いの必要な荷のほうが疲労の度合いは高い。
 生誕祝いのための料理を型くずれさせずに届けるため、寒風吹きすさぶ街道を、揺れのひどい乗り合い馬車は使わず徒歩での踏破、さらに保温のために召喚術を駆使しつつ、などという離れ業をやりとげてもらったのだ。
 冷めたものを再加熱したのでは、どうしたって風味が落ちてしまう。無茶を承知で打診したフェアに、思案した様子のセイロンが喚んだ狐火の巫女は、鬼妖界に属する召喚獣のうち、比較的格の高い存在だ。その彼女の力を、一瞬攻撃に使って送還するのならまだしも、長時間ちょうどよい具合に加減して借り受けるというのは、鬼道に長けた彼でもさぞかし骨が折れただろう。
「……ありがとね、セイロン」
 自分の気配にも気づけないほど疲れているところを、起こすには忍びない。
 かといって、自分だけ食事を済ませてこのまま眠らせておけば、遅くに目を覚ましたところで、セイロンは気を遣って自分に声はかけてこないような気がする。温かい料理を届けるために大変な思いをして帰り着いた住まいで、食事抜き、もしくは作り置かれた冷飯を自分で温めさせるのは、あんまりにもあんまりだ。
 間を取って、とフェアは考える。
 セイロンが目を覚ますまで、わたしもここで待っていよう。うん、それがいい。
 消えかけていた暖炉の火をかきおこし、横たわる体に掛布をかけてやる。部屋に備え付けの椅子を寝台のそばに引っぱって、腰を落ちつけた。

 セイロンのかすかな寝息だけが聞こえる部屋で、どれくらいぼんやりしていただろうか。眠る横顔を眺めるうちに、いつしか睡魔がフェアのまぶたを重くし始める。こちらはこちらで、普段は配膳や盛りつけを手伝ってくれているセイロンなしに店を切り回すのは大変だったのだ。
 ちょっとくらいなら、いいかな。眠気に半ば以上思考を飛ばしながら、フェアはうん、と自分にうなずいてやった。
 椅子にかけたまま、上体だけをぱたんと寝台に伏せる。寝台の主が目を覚ませばわかるように、その着物の長い袖を体の下に敷きこめば、衣にたきしめられた香の香りが安堵を誘った。知らず、笑みをくちびるに浮かべ、フェアは夢の世界へ旅立った。


「フェア、手伝いにきてやったわよー!」
 高らかにひびく幼なじみの朝を告げる声に、フェアはまぶたを振るわせた。
 花の香りが鼻先をくすぐる。ふわふわとしたあたたかな空気が体をくるんでいる。
 こんな、気持ちの良い春の朝くらい、後生だから、もう少しだけ、寝かせてほしい。

 ぼんやりそこまで思ってから、フェアは違和感を覚えた。……春?
 日の照る時間こそ長くなってきたけれど、凍るように冷たい水瓶の水に、こわばって魚をさばく手元も狂いそうな指先。今は、まだそんな季節ではなかったか。
 二度寝をねだる体をなだめ、フェアはまぶたを上げた。
 視界がぼやけるほどの至近距離に、黒と赤のかたまりがある。
 ひゅっと息を吸いこんだとたん、深々と香るのは、梅花香。

 いつのまにか、すっかり全身で寝台にもぐりこみ、あまつさえ男の伸ばされた腕がゆるく背中に回されている。
 なんだこれ。どうしてこうなった。というか、なんだろうこの当然のように回されてる腕の自然さは。前から思ってたんだけど、この人、竜になるとか修行の身とか言ってるわりに、女性の扱いに慣れすぎじゃない!?

 絶叫しそうになるのをこらえて、ぎくしゃくと寝台から抜けだす。
 いまだに平和な顔で寝ている相手に安心するやら悔しいやら、服のシワをひっぱって伸ばしながら、フェアは階段を駆け下りた。すでに厨房でがたごとやっていたリシェルとルシアンに謝って、たらいに張った水でいきおいよく顔を洗う。
「ちょっとフェア、さっきからこっちにまで水飛んできてるわよ。どんだけ気合い入れてんのよ……」
 肩越しにのぞきこんできたリシェルの顔が、水鏡に映りこんだ。
「……あれ? ねえ、フェア」
「な、なに!?」
 すん、と首もとでリシェルが鼻を鳴らした。
「なんか、あんたからいい匂いがすんのよね……んー、なんだっけ、」
「ちち、ちがちが、これはちがうから、そういうんじゃないからッ!!!!」
「はあ?」
 水に映りこむきょとんとした顔のリシェルと、真っ赤な顔の自分。
 とっさに、手が動いた。流し台へとたらいをひっくり返す。
「ちょ、フェア!?」
 派手な水音、たらいが転がるけたたましい金属音。
 厨房を飛び出しかけたところで、ちょうどこちらへ入ってくるセイロンと出くわす。
「おお、店主殿。昨日の晩は……」
「ダメ――ッ!!!」
 その後ろ襟を引っつかんで、引きずりそのまま走り続ける。
「な、なんだどうした、店主殿!?」

 うろたえた声を残して姿を消した二人に、取り残された姉弟はただ、ぽかんと顔を見合わせた。





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