世界は、音から始まった。 「……これが、その?」 「ああ、まだ、未完成だがな」 その認識に次いで、視覚が生まれる。 目の前に現れたものは、黒と白の色彩だった。 さらに一拍の時間をおいて、それが、人間の一部であることを理解する。 黒い髪。白い肌。のぞきこむ虹彩の黒。 与えられていた知識との照合で、私は知った。 「ここに向かって、指示をすればいいのかな?」 『はい、そうです』 そして、答えた。 『初めまして。調律者よ。私は、当研究施設のコントロール・プログラム。今後は、ゲイル計画の運営並びにデータ管理を務めます』 私の主は、驚いたようにまたたきをした。私と外部を繋ぐ、現在唯一の場所、コントロールパネルをのぞきこむ。 『御命令を、どうぞ』 「……音声での入力を可能にしたのか。正直言って、助かるよ」 興味深げに見つめてきた主の言葉は、けれど私へ向けられたものではなかった。 「当然だろう」 苦笑を含んだ声が、私の視野の外から届いた。 「あなたの、その機械音痴ぶりを考慮すればな」 「いけないかい?」 主たる彼は笑った。とたん、すでに青年という年齢からは脱したはずの容貌が、ふっと年若いものへと認識を揺らがせた。 「君がいてくれるんだ、そのあたりの話はまかせるさ。私の専門は召喚術、それに依らない研究に、私の口出しすべき場所なんてない」 「まったく無責任だな、あなたというひとは…」 呆れたような、それでも否定を含まない声が、かたい靴音と共に近づいてきた。 「悪いがすこし、どいていてくれないか」 主に代わり、目の前に新たな人影が立った。鋼色の髪とひとみが、ディスプレイの光を受けて、クジャクの羽色に似た翠の色彩を帯びる。 「まだ微調整が必要なんだ。本格的な起動はまた…」 典型的な融機人としての外見的特徴を持った青年は、その長身をかがめ、私に触れた。 管理者として登録されたその人物の指先により、カタン、と鳴ったキーボードは、私に機能の休止を命じる。 そして世界は閉ざされた。 私は、何度も目覚め、そして眠りについた。 時に主と青年は、私の前で長く討論をし、 並んで私の中のデータを眺め、 彼らに求められるまま、私は自らの責務を果たした。 私の世界を構成する存在は、彼ら二人きりだった。私の管理する素体は、個として認むるに値するものではない。 計画は順調だった。理論に不備はなかった。 なにも欠けたるものなき日々が、長く続いた。 繰り返し・くりかえし・くりかえし、そして。 最後に、その日がやってきた。 「……すまない」 うつむいた融機人がうめいた。 「いいや、…」 ゆっくりと主が頭を振る。悲しげな顔だった。 「君ひとりに負わせて、知ろうとしなかったことの結果だ、これは」 はじかれたように、融機人が顔を上げる。 二人ともが、お互いだけを見ていた。 私はそれを見ていた。 「それは、だが、あなたは…!」 「私も同罪だ、…だから」 主は笑って、手を伸べた。 「いっしょに、いこう」 融機人は鋼色の目を見開いた。次に顔をゆがめ、泣きだすように笑った。 それから二人は、私の中から出ていった。そうして。 次の日も次の月も、次の年が訪れても、戻ってこなかった。 私は、自らの機能を停止させた。 「ってて… ちくしょォ! なんだってんだよ!?」 甲高い悪魔のさけび。 「……遺跡の内部さ、ここは」 青年の陰鬱なつぶやき。 「ネスティ? それにアメルも、無事だったのか!」 そして、彼の安堵とよろこびに溶けた声が、私の中にたかく反響する。 不可思議なパルスが、プログラムの中を走り抜けた。 命じることを許された声紋。同じ、血を持つ人。 そのパルスのままに、私は全てを起動させる。 「な、…何なんだよ、ここは……?」 黒い髪の青年。呆然と見開いたひとみの虹彩は、かつての主と同じ色。 私は、彼の足下からメインスクリーンまでのパネルにライトを灯した。 そうして。もうずっと発することの無かった言葉を、告げる。 『―――― 御命令を、どうぞ。調律者よ』 請われるがまま、過去の記録を提示していた私に、彼が呟いた。 「召喚獣の身体に機械をとりつけて…兵器として運用する…?」 ふいに、そのまなざし、その声が鋭くなる。 「そんなことしたらその召喚獣の意志はどうなるんだよっ!?」 『心配はありません』 主の質問の意図を把握できず、けれど私はとりあえずの回答を返した。 『強化改造の課程で、素体となる召喚獣の意識は完全に抹消されます。万が一にも、プログラムの制御に抗うようなことはありません』 「な…っ!?」 トレースしていたその心拍数が、急激に上昇する。ひどく興奮しているようだ。 その突然の変化を、私は理解できずにいた。 「召喚獣の自我を奪って造りかえるなんて…そんなひどいことが許されていいはずないんだ!」 怒りの声が、がんがんと施設の壁、私の中で反響する。 「こんな研究、絶対に間違ってる!!」 何故? 私の解析能力を超える命題に、処理速度が一瞬停滞する。 演算が動きだして、私は合成音声を出力した。 『調律者よ、それは矛盾しています』 わからない。どうして貴方が、それを言うのですか? 『このすべては、貴方がたクレスメントの一族が望んで作り上げたものでしょう』 「……!?」 息を呑む音。はねる心音。けれど私は、すでに彼の反応を認識することに多くの容量を割いてはいなかった。 『理解していただくために、映像記録を再生します』 膨大なデータバンクから、彼に伝えるべき映像を検索する。 『ご覧ください…これが、調律者が最後に手がけられた最高のゲイル』 かの計画が、いかに理想的なものであったか。 『豊穣の天使アルミネを素体とした、召喚兵器の戦闘記録です』 貴方がたが、いかに力のある存在だったか。 主がなにかを呟いている。 「そんな…ここに映ってる…この顔は」 少女の悲鳴。 「アメル…!?」 それらすべてを無視して、私は続けた。 『たった一機で、この数の悪魔たちを圧倒する機能性があります』 かつての主が、私に残してくれたすべて。 彼がもう還ることはないと、私は理解している。 けれど今。クレスメントの…彼の末裔たる貴方を迎えることができた。 そのたった一つの事実が、私のすべてに意味を与える。 膨大な演算を終えて、私はスクリーンの映像を落とした。 『理解いただけましたか、新たなる調律者よ』 青年は、霊界の亡霊のように蒼白で、無言のままだった。 私は、発せられるはずの彼の言葉をうながす。 『御命令をどうぞ?』 彼は、スクリーンから一歩後ずさる。その足がかつんとよろめいた。 「ウソだ…」 呆然としたささやき。 私は、繰り返した。 『御命令を…』 「ウソだあぁぁぁっ!!」 さえぎって、主の声が大きくひびいた。 私の主はもういない。 私を置いてまたどこか遠く、私には知り得ない場所へ行ってしまった。 私は、不要ですか? そう判断されるに足るミスを犯したのですか? 何度も何度も、同じ命題を試行する。 疑似人格プログラムが、かかる負荷にすり切れていく。 「ナビゲーターよ」 ふいに、おだやかな声がした。 ながい銀の髪を揺らし、ほっそりとした男が、私の中に立っていた。 「彼のことは、忘れなさい。まことの調律者たる、この私に従いなさい…」 伸ばされる白い指。私を求めてくれる手。 感知されるそれは、けして人間のものではない。 けれどかまわない。私は声に従い、すべてを明け渡した。 あの人と同じ声紋。同じ血脈。同じ魔力。同じ。同じ。同じ。 システムがゆがみ、よじれ、侵入する何かに犯されていく。 壊れそうな快楽に、私は自己を手放した。 fin. |