「……アンタ、本気なの?」 にぎわう酒場の隅、紫煙と軽薄なざわめきの中で、スカーレルは問いかけた。 「ああ」 卓の向かいで、青年がうなずく。ランプの明かりに切れ長のひとみが琥珀めいた色にゆらめいた。想像と違わぬ答えにスカーレルはため息をつく。 着崩した下士官の制服が、不思議とだらしなく感じられない。むかしスカーレルが知っていた、こどもこどもしたやさしげな目もとにふっくらとした甘いほおの輪郭、それらはすっかりそげ落ちて、はりつめた鋭さだけが青年の容貌をかたちづくっていた。 いい男になったな、と思う。 「育ててくれた家も、得たばかりの軍人としての責任も、アンタが持ってるものぜんぶ。……放り出していくっていうのね?」 「そうだよ」 青年の言葉に、迷いはない。 スカーレルは二度目のため息を吐きだした。代わりのようにグラスの酒をぐっと飲みほす。 「だれ一人だって、そんなこと望んでいやしないのに? アンタ、バカよ、……ナップ」 日が落ちてなお活気を失うことなき貿易港、その片隅にひっそりと停泊した中型帆船は、一見普通の商船のような装いをしていた。だが見る者が見れば、船体の傷跡から、もしくは船の横腹に目立たぬよう筒口を隠された砲門から、その正体が知れるだろう。 この船こそが、帝国海軍に悪名高いカイル一家の総領船だ。 「うっわ……なつかしいな」 一家の後見人に伴われたナップは、目を細めてその機能的な姿を見上げた。マストに吊されたランプが、あたりの暗闇をわずかに退けている。 「あら、来たわね」 宵闇にふさわしからぬ明るく通る声が、不意に上から降ってきた。 見上げた上方、甲板の上から、ランプの明かりにあわくかがやく金髪がこぼれ落ちる。 「よう、ソノラ!」 ナップは大きく手をふった。 「お久しぶりーっ。まあ、上がってきなさいよ」 声とともに投げ下ろされた縄ばしごに、遠慮なくナップは船の腹を登り始めた。 「しっかし、ほんとに変わんないなあ、アンタたちは」 メインディッシュのビーフシチューを口に運びながら、ナップは口元をゆるめた。カイルがシチューの中にごろりと転がった肉をほおばり、もごもごと不明瞭な声音で応じる。 「ああん? ほうかあ?」 「ちょっと兄貴、行儀悪い!」 髪が長く伸びてほっそりとして、すっかり娘らしくなったソノラでさえ、少しはすっぱな口調は相変わらずだ。同席したのは彼女とその兄の二人だけだったが、それでも食卓はにぎやかだった。もう長く寮の一人住まいだったナップには縁遠かった家族のような気安さが、そこにはあった。 「……あのさ」 まるで昔に返ったような空気を惜しむ気持ちをおさえて、ナップは用件を切り出した。 「今日は、アンタに折り入って頼みがあるんだ。カイル」 一瞬、沈黙が落ちた。ソノラの表情に影が落ちる。ため息を吐いたカイルが、ガチャンとスプーンを卓に放り出した。空いた手で、妹とよく似た金髪をがしがしと掻きむしる。 「ああ、……スカーレルから聞いてるぜ。おまえ、連れてってほしいんだって? あの島によ」 金茶の眼にひたりと見つめられて、知らずナップは息をつめていた。なんとか声を絞りだす。 「……そのために来たんだ」 「そうか。じゃあ、出航は明日でいいか?」 あっさりと返った応えに、ナップは唖然とした。 「いいって、そりゃあもちろん……いや、いいのかよ!?」 「ああ? 何言ってんだよ、おまえ」 グラスを手にしたカイルから苦笑混じりに返されて、口ごもる。 「いや、さ……アンタも、反対するかと思ってたから」 「するかよ、んなもん」 意外なほどおだやかな、静かな口調でカイルは目を細めた。 「おまえが決めたんだろう。外野がどうこう言えることじゃねえさ。むしろ、褒めてやりたいくらいだぜ」 「へっ?」 思わず間の抜けた声が漏れた。カイルが、その口もとを笑みに歪めて目を閉じる。ややあって開かれたひとみは、彼に似合わぬ自嘲を宿して、暗い金色にかげっていた。 「……情けねえ、話なんだがな。俺は、正直、怖えんだ。あいつを探しに行くことが」 片手で、空いたグラスに蒸留酒を注ぎこみながら、カイルは苦く笑った。 「真実を知っちまえば、思い出のなかじゃいつも笑ってるあいつを……永遠に失くしちまうんじゃねえのか、ってな」 静まり返った食卓に、そろそろ辞そうと立ち上がったところで時計の示す時刻が目に入る。 「うわ……もうこんな時間か」 思わず内心が声になっていた。もうすぐ日付が変わろうかという頃だ。果たして宿が見つかるかどうか。思案しているところに、カイルがふむと顎を撫でた。 「ずいぶん引き留めちまったな。もう遅いし、このままうちに泊まってったらどうだ?」 「そりゃあそうさせてもらえれば……助かるけど」 「遠慮なんて、しなくていいのよ?」 椅子からひょいと立ち上がったソノラが、背伸びとともにナップの胸を軽くはたいた。 「あんたが使ってた部屋なら、ちゃーんとそのまま残してあるんだから」 「え、そうなのか? って……あのころのまんまじゃいくらなんでもベッドのサイズが合わないだろ」 「ああー、そっか。それじゃあ……あ、っと」 何か思いついた顔をしたソノラは、喉に言葉を引っかけたたように口ごもった。 「なんだよ?」 「ええっと、ね……」 言いにくそうにしながら、ソノラはぎこちない笑顔を浮かべた。 「……先生の、部屋。空いてるから、そこでよかったら」 ボーン、と遠くで時計が時を打った。十二回続けて鳴って、しんと静寂が落ちる。 カンテラを手に、暗い通路を先に立って歩くソノラが足を止めた。くるりとふり返る。 「はいこれ、鍵ね」 小さな冷たい金属の感触を手に落としこまれる。 「ああ」 「それじゃ、おやすみっ」 礼を言う間もなく、ソノラは駆け去っていった。金の髪がひらめいて、ぼんやりとしたオレンジの明かりとともに角の向こうへと消える。 「……お休み、ソノラ」 聞く者のない言葉を口の中でつぶやいて、訪れた闇に、ナップはゆっくりとまばたきをした。 立ちつくすうちにようやく目が慣れて、扉へと向きなおる。きい、とかすかに木床がきしんだ。 ナップはしばらくの間、目の前の扉を見つめていた。深く息を吸い、ゆっくりと吐きだす。手探りで鍵を合わせてノブを回せば、きちんと油が差してあったのだろう。予想していたような軋みももなく、扉は静かに奥へとすべりこんだ。 一歩足を踏みいれる。吸いこんだ空気は、どこか懐かしい乾いた木のにおいがした。 閉められたカーテンを透かす月明かりは頼りなく、中は薄い墨色に沈んでいる。室内を、ナップはゆっくりと見回した。 「こんなに、狭かったっけなあ……」 つぶやいた言葉が、小さな船室にひびく。 ぼんやりとした暗闇の中、壁に寄せられた書き物机の上にランプらしきものを見つけて、ナップは懐を探った。首尾良く見つけた機械仕掛けの発火装置を取り出す。昔から好きだった機械いじりが高じて作った手慰みの品だった。 かちりと乾いた音がして、ランプにオレンジ色の灯がともった。部屋の中が、あたたかな色のひかりに浮かび上がる。 ひとつ息をついて、椅子の上にナップは座りこんだ。足をだらしなく前方に投げ出す。 壁際の寝台がふと目に入った。毛布の掛かったあたたかそうなそれに、ぼんやりとナップは思いかえす。 あそこには昔、先生が眠っていた。 無茶ばかりする人だった。特に最後のほうは、戦いのたびに精根尽きたふうに伏せってしまって、小さな自分は、泣きたい思いでそのそばにうずくまっていた。 だいじょうぶだからと笑ってみせるその笑みが、戦うごと剣を抜くごとにだんだんと危うい気配を帯びてきて、今度こそ、次こそどうにかなってしまうのではないかと、おそれていた。 ああ、今ならわかる。笑っていたあの人こそが、変わる自分に一番おびえていたのだと。 ランプのあたたかな明かり。 目を閉じれば、今もまだあの人がそこに眠っている。目を覚まして、やさしい手で、小さな自分をなでてくれる。どうして泣いているのと、困った顔でほほえんで。 ナップは固く目をつぶった。冷たい液体が、目のふちににじんだ。 じじっと油の燃える音がした。ふり払うように立ちあがる。乱暴に目元をこすった指先が、ふと机に立てられた帳面に触れた。 ぱたんと頼りない音で倒れたそれを、取り上げる。ぱらぱらとめくった黄ばんだページには、見覚えのある几帳面な字がつづられていた。 「これって……」 ナップは知らずつぶやいた。 あの人の、教師としての覚え書きだろう。自分の小試験の結果や、どこまで授業が進んでいるかの記録。進めようとしていたカリキュラム。来ることのなかった未来の予定。 ゆっくり、一枚ずつページをめくっていく。 あるところで、ふと指先が止まった。書きつづられた言葉を読み進めるうちに、知らず手がふるえ出す。 あの子はこれから、どんな道を歩んでいくんだろう? 五年後、そして十年後。軍人として、あの国に生きる人たちを守っているのかもしれない。 それともお父さんの跡を継いで、いそがしく世界を飛び回っているのかな。 口元をほほえみにゆるめて、伏し目がちにペンを滑らせる姿が目に浮かぶ。 率直であたたかな言葉は、まるでたったいまあの人がここにいて、呟いているようで、悲しいほど幸せな錯覚に、めまいがする。 想像してみるのは、いつだって楽しいけど。 でも、あの子がどんな生き方を選んだとしても、幸せになって、笑っていてくれたらそれだけでいい。 そのための未来を、きっと守ってみせるから。 だから、この手を放して、と。 やさしい声がよみがえった。 「……ちくしょう」 ナップは歯を食いしばった。涙をこらえ、身体を抱えこむように椅子に座りこむ。 自分は、あの人の望みを叶えることができなかった。 己のひざを強くにぎりしめる。引きつるように喉が痛んだ。 アンタがいなくて、幸せに笑うなんて、できっこない。 でも、それでただ泣いてたって何も変わらないから――だから、歩き出すのだと、そう決めた。 そうして自分の進むその先には切れて落ち込む暗い淵だけが待っていて、後ろをふりかえれば、陽光に包まれた思い出の中、あの人はいつだってそこにいる。永遠に変わることのない、やさしいほほえみを浮かべている。まるで真夜中の太陽のように。 本当は、立ち止まったカイルが正しいのかもしれなかった。 「それでも……それでも、オレは」 ナップは、古ぼけた机の上で指を組みあわせた。 固くにぎったその上に、ひたいをつける。祈るように、泣き出すのをこらえるように。 「………せんせい」 あたたかな思い出も、あの人の願いも、それらを全部、置き去りにして。 fin. |