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 天使は息をつき、ゆるやかに胸を上下させた。
「……どうでしたか? クライヴ」
 おだやかに問われ、クライヴは唖然とつぶやいた。
「天で、歌い手でもしていたのか……」
「いいえ、なにも。そうですね、ただ…少しずるをしました」
 くすくすと、天使は笑った。
「私が先ほどつむいだ…あの響き自体に、強い力が込められていますから」
「ああ、不思議な感じがしたが……?」
 問いを込めて発した言葉に、天使はしばらく宙を見つめた。わずかに首を傾げつつ、口を開く。
「あれは、私たち下級天使の……地上のなんらかに例えるのなら、…言語です。勇者たるクライヴになら、聞こえたでしょう?」
 とりあえず、クライヴはうなずきを返した。
「聞き取れは、しなかったが……」
「そうかもしれませんね」
 天使のよどみない声が、こぼれるそばから、やわらかく宵闇へ溶けていく。ただ自然に言葉をつむいでいてさえ、それは音楽的にクライヴの耳を打った。
「けれどもこれが、私が生涯お会いすることもないような、もっと高位の天使さまがたの言語となれば…光や炎、そのものになってしまうのですよ。私にも、正しく理解することはかないません」
 それから、少し天使は考えるようにして付け加えた。
「それに比べれば、私のような無位の天使、それからすぐ上の階級にあたる大天使さまがたは…人をみちびくことと、地上界に墜ち、物質化した堕天使をほろぼすことを役割として負うゆえに、ずいぶんと人の理解しやすいかたちをあたえられているのです。言語も、その姿も、心の動きも」
 ふと気になって、クライヴはたずねた。
「それでは……おまえと関わりのない高位の天使とやらは、何をしていると……?」
 この、人に近いという天使ただひとりに、堕天使との戦いを押しつけて。
「私たちとは、また異なった役割をお持ちです」
 天使は、まじめな顔で答えた。
「神の為される御業は、ただ創造のみであり…生み出された世界の在りようは、あなたがた人間の手にゆだねられています」
 闇の中、宿す英知にひとみの水色が深くなる。
「その歩みを助け、神がよかれと思われた方向に世界をみちびくために、私たち天使があるのです。なかでも、世界の存在そのものや、自然界の法則、そして、神が望まれた概念…これらを保持しつづけること。それが、高位の天使さまがたのお役目です」
「……よくわからん」
 天使は、ぱちぱちとうすい色のひとみをまたたかせた。
「そうですか…。すみません、私もこれ以上は、説明できそうにありませんが」
「いや、………わからないのは」
 クライヴは、自分の手に視線を落とした。じっと見つめる。
「おまえたちのように、より神とやらの意に添う存在を造りだせるなら…なぜ、人間などに世界をゆだねている…? 愚かで、血に飢え、争いを求めてやまないような、人間に……」
 天使は、微笑んだようだった。
「…クライヴ」
 そっと身をかがめる気配とともに、天使の白い手が、クライヴの手に重ねられる。
「私たち天使は、神に反する自由を持たざる存在です。神は…」
 顔を上げ、見つめた先で、天使はやはり微笑んでいた。ほんのすこし、寂しげに。
「神は、…天使の持つ絶対の忠誠や、確たる自我も自己の選択もない所与の善良さを、必ずしもよしと考えられなかったのだと、…私はそう思っています」
「……セレン」
 天使は、ゆるくクライヴの手をにぎった。
「それゆえ、人に心の自由をあたえ、その手に選択をゆだねられたのでしょう。天に住まう天使ではなく……人が、この地上で生きる苦しみを負いながら、それでも良き世界を選び取ること…それこそが、神の願われたところです」
 包む天使のそれはやわらかく、そして小さい。
「ですから…人の身にあって、どうあっても抗しきれないほどの、過ぎた誘惑や試練があたえられることはないのですよ。…クライヴ」
 天使が包んでいる、己の手を見ながら。クライヴは、つぶやきを落とした。
「………試練、か…」
 天使は、ゆっくりとうなずいた。
「あなたに課せられた試練は、つらく重いものです。…だからこそ、あなたが、乗り越えるだけの強さをもっていると、私は信じています」
 薄茶の髪が、さらさらと揺れている。
「私は、一介の下級天使にすぎませんが…精一杯あなたを助け、みちびきます。あなたが、そう望んでくださるかぎり」
 クライヴは、まっすぐに見つめてくる天使に目を合わせた。
 天の道を踏み外す自由を持たない、善良な生き物。
 どんな者であろうとも、この天使はこうやって真剣に向きあい、その身を尽くすのだろう。
 ――――自分でなくとも。
「………そうか」
 クライヴは、ぽつりと呟いた。
 人に敢えて自由をあたえた、神の心が…ほんのわずか、わかった気がした。
 みずからを愛し、背かぬように造った存在からの思慕に、どうして満たされることがあるだろう。
「クライヴ…?」
 とまどうように呼びかけられ、クライヴはゆるく首を振った。
「おまえの、天使としての導きに……俺は、感謝している……」
 自嘲の笑みが、口の端をゆがめる。
 天使に、何を期待している? …俺は。
「……クライヴ」
 呼ばれてクライヴは、天使を見た。なぜだか、彼女はひどく悲しそうな顔をしていた。
「クライヴ、たしかに私は…天使です。けれど……」

 ―――カーン、と。
 にぶい鐘の音が、夜気をふるわせた。

 クライヴはつぶやいた。
「……閉門の鐘だ…」
「あ…」
 天使も、はっとしたように門の方を見ている。
「ご、ごめんなさい、クライヴ。あなたを引き留めてしまって」
「…いや」
 クライヴはかぶりをふった。
「それより、俺になにか用だったのではないのか……」
「あ、…ええ」
 天使は、申し訳なさそうにうなずいた。
「しばらく、同行をさせていただこうと思ってうかがったのです」
「……そうか…」
「かまいませんか、クライヴ?」
 遠慮がちに問われ、クライヴは不思議な心持ちになる。
 来るも来ないも、選択権はいつも待つばかりの俺でなく、おまえにあるのに。
 そう思ってから、天使の申し出を歓迎している自分に、クライヴは気がついた。
 聖なるもの。たとえば教会に代表されるようなそれを、厭うていたはずだった。
 自分を拒絶する存在、この身に抱えた闇を暴きだす光として。
 それでも、その光の最たるものであるはずの天使に、なぜか拒絶感を覚えない。
 クライブは、自分のつま先へと視線を落とした。
「おかしな、話だ……」
 光は―――自分を裁き、焼き尽くすもの。そうであったはずなのに。
「はい?」
 不思議そうにのぞき込んできた天使の翼から、燐光がこぼれた。闇を淡く照らす、やさしい光。
「……いや…」
 クライヴは、ゆっくりと首をふった。
「…今晩は、この街にいる。明日の夕刻には出発するつもりだ」
「はい、クライヴ。よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げて、天使は立ち上がった。ばさりと、純白の翼を広げる。
「それでは、また明日の夕刻に出直しますので…」
 夜空を見上げた天使に、思わずクライヴは声をかけていた。
「セレン」
「…はい?」
 すこし驚いたような顔で、天使がクライヴを見た。
 帰るのか、とたずねそうになって、クライヴは思いとどまった。
 当たり前だ。これ以上ここにいても、天使にすることはない。
「なんでしょうか、クライヴ」
「ああ……」
 代わりに言うべきなにかを探して、クライヴは口ごもった。
「……その…もし、時間があれば…」
 その夜目にも白い相貌に見つめられ、気づけば言葉をつむいでいた。
「明日…夕べの祈りを聞きに、行かないか」
 自分の言ったことに、内心クライヴは呆然とした。
 聞きに行ってくればいい、と言うつもりだった。聞きたがっていたのだろう、それならば、と。
「え…」
 天使が、大きくひとみを見開いた。それを見て我を取り戻す。
「いや、…」
 何でもない、と言おうとして、しかしクライヴは口をつぐんだ。
 ゆっくりと、天使の白い貌に幸せそうな笑みが広がっていく。
「……はい、クライヴ! 誘ってくださって、ありがとうございます」
 素直に喜ぶ天使に、クライヴは決まりが悪くなって顔をそらした。
「それでは明日は、すこし早めにうかがいますね。待っていてください」
 まるで重さを感じさせない動きで、天使はとんと地を蹴った。軽い羽音が耳を打つ。白いかがやきがうすれ、あたりが夜の闇を取り戻したころ、ようやくクライヴは天使を追って空を見上げた。
 すでに、天使の姿は遠い。
 ぼんやりとその遙かな光を見つめながら、クライヴは自らを訝った。
 どうして、あんなことを言ってしまったのだろう。
 聖なる場所など、俺は………
 見上げた夜空から、小さな輝きが降りてくる。とっさに、クライヴはその光へと手を伸ばした。
 光は羽根のかたちを取って、クライヴの手のなかに収まる。
 天使と同じ、やさしい、やわらかな光だった。
 かがやく羽根を、そっと両手で包みこむ。ほんのりと、あたたかいような気がした。
「………光は…」
 自分を拒み、焼き尽くすものだと、…思っていたのに。


 確かめに行きたいと…そう願ったのかも、しれない。
 なつかしい歌と、教えの在る場所。
 ずっと畏れ焦がれていた…神の家へ。

「光は…俺を、受け入れるだろうか」
 手にした光の欠片、彼の天使に、クライヴはそっと問いかけた。

「君は、俺を……」






fin.


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