■  万有引力  ■



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「あの…フェイン?」
 渓流の涼やかな水音がひびくなか、それよりなお澄んだ声に、フェインはふり返った。
 足下の小石が、こすれ合って音を立てる。
「セレン。…どうかしたのか」
 見上げた先から、ふわりと天使が降りてくる。その動きにおくれて、薄茶の髪が広がった。
「しばらく、となりを歩いてもいいでしょうか」
 フェインから見て少し下、足場の良さそうな白い岩の上に立ち、天使はフェインを見上げてきた。普段おだやかなばかりの笑みが、ほんのすこし浮き立った色を帯びている。
「この場所を、私も歩いてみたいのです」
 フェインは、天使の意図を悟って苦笑した。
「ああ…なるほど」
 ゆるく首をめぐらせ、あたりを見回す。
 そこは、荒けずりな岩が転がる、けわしい渓谷だった。
 白い巨岩のあいだを、深い碧の奔流が流れ落ちていく。くだけた水晶のようなしぶきに縁どられた流れは確かにうつくしく、この天使の心をとらえるに十分だと思われた。
「いや、しかし…どうだろうな」
 フェインはひとりごち、返事を待っている天使を見おろした。
 つぶやきを耳ざとく聞き取ったらしく、天使は落胆したように表情をくもらせた。
「いけませんか…?」
 うつむいた白い貌を、伸ばした髪がさらりとふちどる。
「そうだな…君が歩くには、少しばかり険しすぎるように思うが」
 山を覆う深い森を、切り裂いて駆けくだる一条の流れ。その河原をさかのぼるように足を進めてきたが、当然、足場は段々悪くなっていく。今は、旅慣れたフェインでさえ、始終足下に気を張っていなければならないほどだった。
「すまないが…」
 言いかけて、フェインは言葉を切った。しおれかけていた天使が、また顔を明るくしたからだ。
「それならば、大丈夫です」
 天使は、かるく背の翼を羽ばたかせた。
「いつものように、人の姿になるのではなく…このままで歩きます。それなら、フェインにご迷惑はかけませんから」
 にっこりと灰がかった水色のひとみに微笑みかけられ、フェインはまばたきをした。
「…その姿では、どう違うと?」
 天使は、とんと足下の岩を蹴った。ただそれだけのことで、その身体が軽々と宙に浮き上がる。あっけにとられていたフェインのそばに、ふわりとつまさきから、重みを感じさせない動きで天使は着地した。
「私は本来、この世界に属する存在ではありませんから…」
 となりに立ってもまだ、ずいぶんと二人の視線の高さは異なっている。天使はおとがいを上げ、フェインに目を合わせてきた。
「この身は、地につながれていないのです。…そうですね、身が軽い…というのとも、すこし異なるような気がするのですが」
 言いながら、天使は考えこんでしまう。
「ああ、そうか」
 ようやく驚きから醒め、フェインは息を吐いた。
「君は、重力の影響を受けないのだな」
「……じゅう、りょく?」
 耳なれない言葉だったらしく、天使はひとみをおおきく見開いた。フェインは、次に彼女の口にする言葉がわかった気がした。
「それはなんですか? 教えてください、フェイン」
 想像通りの台詞にフェインは、くつくつと低くのどを鳴らした。
「君はほんとうに、好奇心が旺盛だな。人間だったならきっと、魔導士に向いている」
「魔導士に…?」
 天使は、すなおな動きで首をかしげた。
「ああ、いや、気にしないでいい…そんな気がしただけだ」
 かたむけられた天使の頭に、フェインは笑ってぽんと手を置いた。
「そうなのですか?」
 見上げてくる天使の静かな目を見て、ふと、フェインは笑みが消えるのを自覚した。
 谷に射しこむ陽光に透ける、薄青いひとみ。
 引き込まれそうに深い、不可思議なもの…この世の真理をたたえた、天の宝玉。
 それから、目を離せなくなる。しばしの沈黙の間。渓流の水音と、しんと射しこむ陽光だけが、その場を支配していた。
「まあ、…その話はいい」
 視線の呪縛を断つように、ゆっくりと、フェインは首をふった。
 自分と同じ言葉を話し、同じように美しいものを感じとり、喜びと悲しみを知る存在。天使のはずの彼女が、自分たち人間と変わらぬように思えることは多かった。けれど。
 彼女が人間だったなら。…そんな仮定がどれほど無意味であるかを、こんな折にフェインは思い出す。
「フェイン?」
 とまどいを帯びた天使の声を、意図的に流してフェインは言葉を継いだ。
「重力とはなにか、だったな?」
「え? …ええ」
 困惑を残しながら、それでも天使はうなずきを返した。
「そうだな、…君は、知っているかもしれないが」
 フェインは、しばらく頭の中で、つむぐべき言葉を練った。
「世界に在るすべての存在は、互いに引きあっているのだそうだ」
 天使はすでに話に集中した様子で、真剣にフェインの言葉を待っている。それをちらりと見やって、フェインは続けた。
「通常は、その存在の大きさ…質量が多いものほど、引き寄せる力が強い。そのため、ほかのなにより大きな、このアルカヤの大地に引き寄せられて、人は地面に立っている」
 天使は、ひとみに理解の色をたたえてうなずいた。フェインもかるくうなずき返す。
「ものに重さを与え、引き寄せる大地の力。…それが、重力という概念だな」
「わかりました…」
 腑に落ちたようにうなずいて、天使はちいさく息をはいた。少し間をおいて、続ける。
「とても、…すてきなお話ですね」
 フェインは、思わず問い返した。
「何がだ?」
「だって、すべてのものが、引き合っているのでしょう?」
 天使は、うれしそうにほおを染めて、フェインに微笑みかけた。
「それは、…人と人、それから、この世界に生きるものすべてが、ごくかすかかもしれませんが…引かれあっていると言うことですよね」
 フェインは、虚をつかれて黙り込んだ。
「私には、とても、すてきなことのように思えます」
 ひとみを伏せた天使は、大切なものを抱くように、自らの胸をそっと押さえた。
 すこし遅れて、天使の言いたいことが胸にしみこんでくる。
「ああ、そう…か」
 フェインは、ゆっくりと首肯した。口元が、微笑みを刻むのがわかる。
「そうだな。俺も、そう思う」
 うなずきながら。しかし別のなにかが、ちりっと胸を焼いた。
 ―――それならば。
 地につながれることのないこの天使は、何なのだ?
 知らず、唇をかるく引き締める。その想念は、はじめからそこに存在していたかのように、はっきりしたかたちで胸を占拠した。
 すべてが引き合う力、その影響をただ一人受けることなく。
 けれどともすれば、この身を縛るすべてが揺らぐほどの強さで、自分を……

 ゆっくりと、フェインは息を吐き出した。そのなかに、かたちを取りかけた思念をまぎらせる。
 後には、ただかすかに、締めつけるような胸苦しさだけが取り残された。
「ありがとうございます、フェイン」
 天使のすなおな声音が、フェインの耳を打った。
「私は、地上界を支配する法則について、まだそれほどくわしくないものですから…勉強になりました」
「いや」
 フェインは意識を外へ戻し、すこし笑った。
「君は飲み込みがいいし、その上とても熱心だ。自分としても教えがいがある」
「…よかった」
 天使もくすりと笑い、それから思いついたようにぴんと翼をふるわせた。
「それならば、フェイン、ほんとうにフェインの弟子になって、ずっといっしょに旅をするのもいいですね」
 ねえ、と天使が微笑みかける。
「ああ」
 ほほえましい戯れ言に、フェインは笑みを返しかけた。
 本当にそうなれば、俺は…
 よぎった思いに、フェインは息をのんだ。
 今、何を考えていた?
 冷水を浴びせかけられたように、心が冷える。
「……俺は」
 そんな身勝手な幸福が、許されるはずのない身で。
 思った途端、じわりと理不尽な苛だちがこみ上げた。
「……悪いが、それはちょっとな」
 たわむれでそんなことを言うなと、声をあらげてしまいそうになるのを、必死にこらえる。
 心揺らいだのは自分の咎だ。天使はなにも悪くない。そんなことはわかっているのに。
「…フェイン?」
 天使の驚いたような声音に、ようやくフェインは平静を取り戻した。
「いや。弟子をとるには、自分はまだまだ未熟な身だ」
 まだすこし、声がこわばりを隠しきれないでいる。そんな自らに、内心フェインは舌打ちをした。
 天使のひとみが、ふっと傷ついたような光を帯びた。
「あの…フェイン」
 気落ちしたように、おだやかな声が沈みこむ。
「私、なにか悪いことを言ってしまったのでしょうか…?」
「…いや」
「でも…」
「本当に、何でもない。…気にしないでくれ」
 言って、フェインは天使に背を向けた。
「夕刻までには、この山を越そう」
「フェイン…」
「翼を出したままであるにしても、足場には気をつけた方がいい」
 足下に集中するふりをして、フェインはそのまま天使をふり返らなかった。

 こころの中、何度も。
 失ってしまった彼女の名を繰り返す。
 自らの未来を閉ざすことでのみ、償われる罪がある。
 彼女のいないところで幸福を感じることなど、けして許されはしない。
 ―――それを忘れさせる天使が、フェインは、ひどく恐ろしかった。



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